第5話 縫われた傷
南の境界に向かうにつれ、通りを歩く人間の姿は減っていった。
リオンの縄張りの中でも、南側はレックスの勢力圏に近い。日中なら露店や荷車も行き交うが、この時間になると店の戸はほとんど閉じられ、路地を照らすのは建物の軒先に吊るされた古いランプくらいだった。
先導する構成員は後ろを振り返りながら、普段より速い足取りで進んでいる。
「こっちです」
男が曲がったのは、大通りから一本外れた細い道だった。
両側には古びた集合住宅が並び、道幅は荷車一台がどうにか通れる程度しかない。さらに奥へ進むと、数人の男たちが路地の入口を塞ぐように立っているのが見えた。
全員、リオンの組織の人間だ。
「ボス」
姿を確認した途端、彼らが道を空ける。
「他の奴は入れてねえだろうな」
「はい。住民も近づけてません」
「入口はお前らが塞いでおけ。外から見られるようにするな」
そう答えながら、リオンは男たちの間を抜けた。
男が一人、建物の壁に背中を預けるように倒れていた。年齢は三十前後だろう。伸びた髪は汗と泥で額に張り付き、着ている粗末な服もあちこちが汚れている。靴は片方しかなく、残った足も血と土で真っ黒になっていた。
何より目を引くのは腹だった。服の前面が大量の血を吸い、黒く変色している。男は両腕で腹を押さえ込んでいるが、指の隙間から今も血が滲み続けていた。
「おい。聞こえるか」
リオンが男の前にしゃがむが、反応はない。
頬を軽く叩くと、男の瞼が僅かに動いた。
「……ぁ」
息だけのような声が漏れる。
リオンはすぐに男の肩を掴み身体を支えた。近くで見ると呼吸は浅く、唇からはほとんど血の気が失われている。
「どこでやられた」
男の口が動いたが、言葉にはならない。喉の奥から掠れた音を漏らしただけで、再び頭が前へ落ちる。
「ブラッド。ヴェロニカを呼んで来い」
「分かりました」
「走れ。長くはもたねえ」
ブラッドは余計なことを聞かなかった。すぐに踵を返し、路地を出ていく。
「お前ら、布持ってこい。綺麗なやつだ」
「はい!」
周囲の構成員たちが動き出した。
リオンは男の腹を押さえる手に自分の手を重ねる。医学の知識などほとんどない。それでも出血しているなら押さえるくらいは分かる。
「死ぬなよ、ここまで来たんだ。てめえだって死にたかねえだろ」
返事はなかったが、男の肩が僅かに震えた。
その身体に触れていて、リオンは別の違和感にも気づく。夜風のせいだけではない。額には汗をかいているのに皮膚は妙に冷たく、身体の芯から熱が抜けているようだった。
「冷てえな」
さらに妙なのは、男の足元から路地の外に向かって点々と続いている赤黒い染みだった。誰かがここに運んできたのではない。少なくとも、最後のところまでは自分の足で来たらしい。
「血の跡は調べたか」
「まだです」
「二人で辿れ。南から続いてるなら、境界より先には行くな」
「分かりました」
二人の構成員が血痕を追って走り出す。
リオンはもう一度、目の前の男に視線を戻した。
血の跡は南に続いている。
その先にあるのは、つい先ほどまでダンと話していたレックス・ボクサーの縄張りだった。
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「どいて」
ヴェロニカ・マクヴィーが到着したのは、それから十分ほど後だった。周囲に集まっていた男たちを一瞥しただけで、迷うことなく倒れている男の前に向かう。
三十代半ばほど。長い髪を後ろに流し、外套の下には動きやすそうなシャツを着ている。肩には大きな革鞄を提げており、眠っていたところを叩き起こされたのか、機嫌はかなり悪そうだった。
「夜中に呼び出すなら、せめて美味しい酒くらい用意しなさいよ」
「患者が先だ」
「分かってるわよ」
ぶっきらぼうに返しながら、ヴェロニカは男の横に膝をついた。すぐに首筋へ指を当て、瞼を開き、呼吸を確認する。先ほどまでの不機嫌そうな雰囲気は消え、動きに迷いがなくなった。
「いつ見つけた?」
「二十分くらい前だ」
「見つけた時からこの状態?」
「ああ。腹から血は出てた。意識は一瞬戻ったが、今はなさそうだ」
「何か喋った?」
「まともにはなにも」
ヴェロニカは短く息を吐くと、鞄から小さな鋏を取り出した。
「服切るわよ」
「好きにしろ」
「あなたに言ってない」
「じゃあ誰に言ってんだ」
「彼よ。まだ死んでないんだから、問われる権利はあるもの」
言いながら、血に濡れた服を切り開いていく。
布が剥がされるにつれ、腹部が露わになった。周囲にいた構成員の一人が息を呑み、リオンも思わず眉を寄せる。
腹の中央から脇腹に向かって長い傷が走っている。
だが、ただ斬られただけの傷には見えなかった。
傷口には縫合糸が残り、一定の間隔で縫い合わされている。その一部が大きく裂け、そこから大量の血が流れ出していた。
ヴェロニカは傷の周囲を慎重に触りながら残っている糸を確認していく。
「……これ、今日できた傷じゃないわ」
「いつ頃だ?」
「正確にいつかまではわからない。けど、少なくとも今夜ここに来る途中で斬られた傷じゃない。一度縫われて、それがまた開いたのよ」
ヴェロニカは今度は男の足を見る。
裸足同然の足裏には新しい傷がいくつもでき、膝も擦りむけている。両手にも土が入り込み、爪の何本かは割れていた。
「かなり走ったみたいね。傷が塞がりきってないのなら、開くのも当然だわ」
「治ってねえのに無茶したからか。襲われた奴に見つかってここまで来たとか?」
「違うと思う」
ヴェロニカの声が低くなる。
残された縫合糸を指先で摘まみ、そのまま傷の端から端まで視線を走らせた。
「これ、刃物で襲われた時にできた傷じゃないわ。最初から腹を開くために切開した跡に見える」
「腹を開く?」
「ええ。切り口が綺麗すぎるし、位置もそう。人体の構造を知らない人間が、適当に刃物を振るってできる傷には見えない」
リオンは露わになった腹を見下ろした。
「何のために?」
「医者だからって、何のために腹を開いたのかまで分かるわけじゃない」
ヴェロニカは言い返しながらも、視線は傷から外さなかった。
「治療かもしれないし、病気を調べるためかもしれない。何かの臓器を触ったのかもしれないし、別の処置かもしれない。腹を開く理由なんて探せばいくらでもあるもの」
「じゃあ、なんでまた閉じた」
「開いた理由もわかってないのに、閉じた理由がわかるわけないでしょ?」
「役に立たねえ医者だな」
「あんた、暫く黙ってなさい。腹を割くわよ?」
短いやり取りを終えると、ヴェロニカは鞄から布や薬瓶を取り出し、処置に戻った。裂けた傷を押さえ、出血を止めようとする。
次に男の胸元に手を当てると、指先に淡い光が集まり、弱々しく上下している胸へ流れ込んでいった。
しばらくして、ヴェロニカの眉間に皺が寄る。
「まずいわね」
「失血か」
「それもあるけど、魔力も落ちてる。こんな状態で走り回ったんだから当然ね」
「助かるのか?」
ヴェロニカは答えなかった。
代わりに血に染まった布を新しいものに交換し、傷口をさらに強く押さえる。
押さえても押さえても赤い染みは広がり続けていた。
「ヴェロニカ」
「やってる」
「俺の魔力使えねえのか?」
「魔力を入れれば失った血が戻るわけじゃないのよ。治癒を促すことはできる。でも、もう身体の方が保たない」
医学の知識を持たないリオンにも、彼女の表情を見れば状況は分かった。
目の前の男は片方の靴を失い、腹から血を流しながら、それでも誰かから逃げるためにここまで辿り着いた。もう少し早く見つけていれば――そんな考えが一瞬頭を過ぎたが、今さら何を考えても状況は変わらない。
そのとき、男の指が僅かに動いた。
「……ぅ」
掠れた声が漏れる。
リオンはすぐに男の顔を覗き込んだ。焦点の合わない瞳がゆっくりと動き、しばらく彷徨ったあとでリオンを捉える。
「聞こえるか」
「……ここ、は」
「西のスラムだ」
男の呼吸が一度乱れる。
リオンは肩を押さえた。
「もう走らなくていい。ここまで来たんだ。少し大人しくしてろ」
「……に、げ」
「ああ。逃げてきたんだろ。どこからだ」
男は喉を動かした。だが声が出ない。
「誰にやられた? 南から来たんだな?」
僅かに瞼が動いたように見えた。
それ以上は続かなかった。
男の身体が突然大きく震え、胸が跳ねるように持ち上がる。
「ヴェロニカ!」
「分かってる!」
ヴェロニカが身体を支え、再び魔力を送り込む。
「聞こえる? 息吸って。ゆっくりでいいから」
男の唇が動いた。何かを言おうとしていたのかもしれない。だが、声になる前に胸が一度大きく上下し、それからゆっくりと沈んでいった。
ヴェロニカは首筋へ手を当て、そのまま数秒間動かなかった。やがて指を離し、男の瞼を静かに閉じる。
「……駄目ね」
路地に沈黙が流れる。
遠くから聞こえてくる酒場の声も、通りを歩く人間の足音も、この場所だけを避けているように遠い。
リオンは男の顔を見下ろした。
自分の縄張りに辿り着いたからといって、助かる保証などどこにもない。それでも男は、傷口が開いてもなおここまで走ってきた。
「……気に食わねえ」
小さく吐き捨てる。
ヴェロニカは何も言わず、男の腹に布をかけた。
「まず身元だ。こいつが誰なのか調べる。それから」
言いかけたところで、路地の外が騒がしくなった。
何人かが制止する声と、硬いものが石畳を打つ音が近づいてくる。剣や鎧を身につけた人間特有の、乾いた金属音。
「なんで騎士がこんなところに。誰か呼んだか?」
「まさか。誰も呼ばないように言ってあります」
であれば、騒ぎを聞きつけた住民の誰かが知らせたのだろう。スラムだからといって騎士団が一切入ってこないわけではない。人が死ねば、表向きは彼らの管轄になる。
ほどなくして、入口を塞いでいた構成員の声が聞こえた。
「勝手に入ってくんじゃねえ。ここは俺等の居場所だ」
「そんなのは知らん。人が死んだと通報を受けている。退いてもらおう」
その声を聞いた瞬間、リオンの表情が僅かに変わった。
聞き覚えがある、何年もまともに話していない。それでも、忘れるほど薄い付き合いではなかった。
「通せ」
リオンが言うと、入口を塞いでいた構成員たちが道を開けた。
数人の騎士が路地に入ってくる。
その先頭に立つ男を見て、リオンは小さく鼻を鳴らした。
四十にはまだ届いていないだろう。短く整えられた髪に、鍛え上げられた身体。腰には騎士団制式の長剣を携え、身につけた鎧には一般の騎士とは異なる意匠が刻まれている。
顔立ちは凛々しく、歩き方にも隙がない。
「……エディ部隊長」
昔の呼び方が、考えるより先に口から出た。
男――エディ・ハル。かつてリオンの上官だった男は一度足を止め、それから僅かに口元を緩めた。




