第3話 境界の向こう側
アジトの階段を駆け下りながら、シビル・ウェイレットは腕に抱えた紙を一枚ずつ確認していた。
「十人以上かあ……」
セレストから受け取った失踪者の一覧。
名前の分かっている者、通り名しか分からない者、年齢すら曖昧な者。書かれている情報量にはかなり差がある。
それでも居住していた場所と、最後に姿を確認された時期については、可能な限り調べられているようだ。
さすがセレスト、とシビルは感心する。几帳面な彼女らしく、文字まで綺麗だ。
「ちょっと見て来るだけだから」
誰に言うでもなく呟いてから、シビルは建物の外へ飛び出した。
二階からは、まだリオンの怒鳴り声が聞こえていた。
調べるな、勝手に動くなと言われ、シビルもちゃんと聞いている。
それでも納得できるかどうかは別の話だった。
十人以上もの人間が短期間に消え、その地域とレックスの組織が勢力を広げている場所が一部重なっているとなれば、気にするなと言われる方が無理だ。
「だってねぇ」
資料を丸め、コートの内側に差し込む。
アジトを出たシビルは、そのまま東に延びる細い通りを歩き始めた。
日が沈んだばかりのスラムには、これから活動を始める者も多い。粗末な軒先に吊るされたランプが一つ、また一つと灯り始め、薄暗かった路地に光の帯を作っている。酒場からは笑い声が聞こえ、少し先では客を待つ女たちが壁際に並んでいた。
酔っ払いもいれば喧嘩もあり、賭場や娼館、表では扱えない品を売る店まである。決して上品な街ではなかったが、それでもシビルにとっては住み慣れた場所だ。
「あ、シビルお姉ちゃん!」
八歳くらいの少年が、籠を抱えて走って来る。
「なになに? どしたの、そんなに慌てて」
「母ちゃんが持ってけって」
差し出されたのは、紙に包まれた焼き菓子だった。
「やった! おばさんのこれ好きなんだよね~」
シビルが受け取ると、少年は得意そうに笑った。
「昨日、うちの屋根直してくれたからって」
「直したのブラッドだけど」
「ブラッド兄ちゃんにも渡した!」
「じゃあ遠慮なくもらっとく!」
包みを開き、その場で一つ口に放り込む。蜂蜜の甘みが広がった。
「おいしい!」
「だろ!」
「こんなに美味しいものを作れる母さんを持つなんて、幸せ者だね! お母さんにありがとうって言っといて!」
少年の頭をわしゃわしゃと撫でる。嫌がるように笑いながら逃げていく背中を見送り、シビルは残った焼き菓子を片手に再び歩き出した。
少し先では、男二人が酒場の前で揉めていた。一人が相手の胸を押し、酒瓶が地面に落ち、割れるより先に通りを巡回していた組織の男が間に入った。
「喧嘩なら路地でやれ。邪魔だ」
「こいつが先に」
「どっちでもいい。店の前でやるな。やるなら裏でやれ。いいな?」
それで終わりだった。
男たちも不満そうにしながら、それ以上は騒がない。騎士のように逮捕するわけではなく、喧嘩そのものを禁止しているわけでもない。ただ、他人に迷惑をかけるなら場所を選べ。
この地区では、それで十分だった。
「ひゅぅ~! やるねえ!」
シビルが声を掛けると、割って入った男が頭を下げる。
「お疲れ様です、シビルさん」
「そんなかしこまらなくたっていいよ! ちゃんと仕事してるんだねえ。お姉さんは嬉しいよ」
肘で突かれ困ったように笑う男に、先ほどまでの威厳は感じられない。
「リオンに伝えておくね!」
「いえ。当たり前のことをしているだけなので」
「そう? じゃあわたしの記憶に書き込んでおくから。キミはちゃんと仕事して偉いってね!」
「ありがとうございます。それでは」
男が見回りに戻ると、シビルもすぐに歩き出す。
今度は道沿いの小さな酒屋から木箱を店先に運び出している老人に声を掛けた。
「おじちゃん、腰悪いんだから誰かにやってもらいなよ。明日起き上がれなくなっても知らないよ?」
「はっ。その時はボスに担いでもらうさ」
「リオン絶対嫌がるよ? 『俺の仕事じゃねえ、ふざけんな』ってね」
「嫌がりながらやってくれる」
「あー……。それはそうかも。下手くそな理由つけてね」
二人で笑う。
「最近、変なの来てない? 他所の連中とか」
「変なのは見ないが。南から流れてきた奴が何人か酒を買いに来たのう」
「南から?」
「向こうはまた揉めとるんだろ?」
「みたいだねー」
老人は鼻を鳴らした。
「嫌になるのう。あっちは店を開けば金を寄越せ、儲かればもっと寄越せ。断りゃ店を壊す。こっちに逃げてきたくなる気持ちも分かるわ」
「うちも似たようなもんじゃない?」
わざとそう言ってみる。
すると老人は眉を上げた。
「馬鹿言え、少なくともわしはリオンに一銭も払っとらんぞ」
「ほんと? 影で思いっきりぼったくられてない?」
「老人を試すようなことするな。お前が知らんわけないだろうが」
「えへへ」
無邪気な笑みに、老人は呆れた顔をした。
「怖い男ではあるがな。少なくとも、あいつはわしらから何かを奪うために、ここにいるわけじゃない。それだけで十分だ」
「今の、本人に言っとく?」
「やめろ。調子に乗る」
「リオンが?」
「……乗らんな。むしろ陰口を聞いたと老人を構いに来るかも知れん」
「じゃあやっぱり伝えとく?」
「あやつの時間を無駄にしたくはない。奴は奴でやることがあるだろう」
それを聞き、どこか嬉しそうに微笑む老人と別れる。
こういう会話はこの辺りでは珍しくない。リオンを善人だと思っている者ばかりではなく、怖がっている人間もいる。
実際、敵対した組織を潰したこともあれば、人を殺したことだってある。
それでも、この地区で暮らす多くの人間はリオンの組織を信頼していた。少なくとも、自分たちを食い物にはしない。スラムではそれだけでも十分すぎるほど珍しいことだった。
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スラムを東に抜けるにつれ、街の様子は少しずつ変わっていった。
建物の間隔が広がり、崩れた石畳も次第に綺麗なものへ変わる。通りには等間隔で魔力灯が設置され、青白い光が夜道を明るく照らしていた。
王都レグナリアの市街地。
スラムと同じ城壁の内側にありながら、その光景はまるで別の国のようだった。店先には色鮮やかな布が並び、料理店からは香辛料と焼いた肉の匂いが漂ってくる。馬車が石畳を行き交い、巡回する騎士の姿も珍しくない。
「やっぱ明るいなあ」
シビルは歩きながら頭上を見上げた。
スラムと違い、魔力灯の光が眩しい。
それが嫌いではない。ただ、少し落ち着かない。
スラムなら屋根の上を走ろうが、路地を飛び越えようが誰も気にしないが、この辺りで同じことをすれば騎士が飛んでくる。それがスラムの人間だと知られれば何十人もの騎士が動員されるだろう。
なので、今日は普通に歩く。
「シビル?」
聞き覚えのある声がして、足を止めた。通りの向こう側、小さな雑貨屋の前に四十代ほどの女が立っている。
「あっ、マーサ! 久しぶり!」
シビルはすぐに女性に駆け寄った。
「相変わらず元気そうね」
「元気元気! マーサも……」
言いかけて、シビルは口を閉じた。店の入口に黒い布が結ばれている。王都では、近親者を亡くした家がしばらく掲げるものだった。
シビルの表情を見て、マーサが静かに言った。
「父がね。三日前に亡くなったの」
何度か会ったことがある。店先の椅子に座って、いつも通る人に話しかけてくる、やたら陽気な老人。
「そっか……。ごめんね、知らなかったや」
「いいのよ。九十近かったもの」
「病気?」
「魔力減衰症。少し前からね」
それを聞いて、シビルは小さく「ああ」と頷いた。
珍しい死因ではない。
人間の身体には、生きていくうえで魔力が必要になる。
魔力は魔法を使うためだけの力ではない。身体を動かし、内臓を働かせ、傷を癒やし、生き続けるためにも、少量の魔力は常に消費されている。
その魔力を生み出すのが、体内に存在する器官、魔臓だった。
人間は年齢を重ねれば、誰でも少しずつ魔臓の働きが弱くなる。生み出せる魔力量は減り、消費した魔力が戻るまでにも時間が掛かるようになる。
ただ、その衰えが通常よりも遥かに速く進行する者がいた。年齢に関係なく魔力量と回復力が急激に低下し、やがて生命維持に必要な魔力さえ作れなくなる。
それが、魔力減衰症だった。
「朝起きても疲れが抜けなくて、少し歩いただけで座り込んじゃって。先生からも、魔臓がもうかなり弱ってるって言われてた」
マーサが店の中へ視線を向ける。
「苦しまなかった?」
「最後は眠ってるみたいだったわ」
「そっか」
魔臓が生み出せる魔力が、生きるために最低限必要な量を下回れば、人は死ぬ。
ただ、老人にとってそれは特別珍しいことではない。心臓が弱る者もいれば、肺が動かなくなる者もいる。それと同じように、魔臓が寿命を迎える者もいる。
九十近い老人なら、なおさらだった。
魔力減衰症とは言え、十分、長生きと言えるだろう。
「本人は『百までいく』って言ってたんだけどね」
「言ってた言ってた! 魔臓が元気だったら絶対百まで生きてたよ!」
シビルは懐かしくなって笑った。
「なんならわたしが会った時は百二十まで生きるって言ってたし!」
「最後は百五十って言ってたわ」
「凄い元気だ!」
二人で少し笑う。
悲しい話ではあったが、それでもマーサの表情は穏やかだった。突然奪われた死ではない。本人も家族も、少しずつその時が近づいていることを知っていたのだろう。
「お墓、今度行っていい?」
「もちろん。喜ぶわよ」
「じゃあお酒持ってく」
「医者に止められてたのよ?」
「じゃあもう怒られないから平気だね! いっぱい飲ませてあげようよ!」
「あなたねえ……」
マーサが呆れながら笑った。
「でも、そうね。父さんなら、きっと喜ぶと思うわ」
その顔を見届けてから、シビルは手を振って店を離れた。
少しだけ沈んだ気分を振り払うように、歩調を速める。
人が死ぬのは当たり前のことだ。
魔力減衰で老人が亡くなることも珍しくない。
だからこそ――何も残さず、理由もなく消えてしまうというのは、やはり妙だった。
「さて、と」
シビルは懐から資料を取り出した。
目指す場所は、もう近い。
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王都の表通りを外れ、再び古びた建物が増え始めたところで、シビルは細い路地に入った。
周囲に誰もいないことを確かめる。
そこでコートを脱ぎ、裏返す。表側は濃い茶色だったが、内側は煤けた灰色になっている。あらかじめそう仕立ててあるものだ。
髪を手早くまとめ、深めのフードの中に押し込む。次に、小さな革袋から丸い眼鏡を取り出した。度は入っていない。掛けてしまえば、それだけで顔の印象はかなり変わる。
「よし」
壁に残った雨水に自分の姿を映すと、黒髪の活発そうな女は消えていた。そこにいるのは、灰色の外套を着た、どこにでもいそうな小柄な女。
だが、それだけでは足りない。
シビルは肩を少し丸め、歩幅を狭める。顔を上げすぎず、周囲を見るときも首ではなく目だけを動かす。
情報屋にとって変装とは、服を変えることではない。
歩き方。姿勢。視線。声。手の動かし方。
むしろ、そういうものの方が人の記憶には残る。
「あ、あー……。こんな感じかな」
声を低くする。準備を終えると、シビルは路地を抜けた。
その先が、レックス・ボクサーの勢力圏だった。
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レックスの縄張りに足を踏み入れて、シビルが最初に感じたのは静けさだった。
建物の古さも、道端に積まれた木箱や樽も、壁にこびりついた煤も、リオンの縄張りと大きく違うわけではない。それなのに、通りから聞こえてくる音だけが明らかに少ない。
まだ夜も浅いというのに戸を閉めている店が目立ち、道端で酒を飲む者もいなければ、子供が走り回る姿もない。人そのものがいないのではなく、皆が必要以上に外へ出ないようにしている。
そんな印象。
通りの真ん中を腰に剣を下げている数人の男が歩いていた。周囲の住民は、その男たちが近づくより前に道を空ける。シビルも同じように端へ寄った。
そこで、男の一人が、道沿いの屋台で足を止める。
「おい。これ、もらうぞ」
返事を待つこともなく、串焼きを一本取る。
さらに隣の一本にも手を伸ばした。
「あ、あの……」
店主が小さく声を上げる。
「なんだ?」
「その、先週の分も、まだ」
「だから?」
たったそれだけで、店主の顔から血の気が引いた。
「……いえ。なんでもありません」
「だろ?」
男は笑い、もう一本取った。
三人が去ったあとも、店主はしばらく俯いたままだった。周囲にいた人間も誰一人として声を掛けない。
見ていなかったことにする。それがこの場所で生きるためのやり方らしい。
スラムで縄張りを持つということは、その土地を守ることではない。そこにある店、人、金を自分たちのものとして扱えるということ。
シビルは小さく息を吐き、しばらく歩いたところで一軒の酒場に入った。
中は薄暗く、安酒と煙草、それに湿った木材の臭いが混ざっている。客は五、六人ほど。誰も大声では話しておらず、酒場というより雨宿りのための待合所のような空気。
シビルは一番端の席に座り、銅貨を一枚置いた。
「一番安いので」
「水の方がマシだぞ」
店主はそう言いながらも、濁った酒をグラスに注いだ。
「じゃあ水にすればよかったかな」
「今さら言うな。金は返さねえぞ」
シビルは少しだけ口をつけ、わざと顔をしかめた。
「ほんとにまずい」
「だから言ったろ」
店主が鼻で笑う。
その笑いが消えないうちに、シビルは懐から紙を半分だけ出した。
「そういえばさ、人探してるんだけど」
「騎士か?」
「この格好で? わたしが騎士に見える?」
「はっ、見えねえ。だが、最近は変なのも多いからな」
騎士以外にも、この辺りを嗅ぎ回っている人間がいるのだろうか?
シビルの脳裏にそんなことが過るが、今は本来の目的を優先する。
「金貸した相手に逃げられて困ってるの。ミロって男。三十くらい。痩せてて、鼻の横に傷。知ってる?」
店主の手がわずかに止まる。
「……ああ。知ってる」
「どんな奴だった? 酔った勢いで貸しちゃったから、詳しく知らないんだよね~」
「よくここに来てた。酔いつぶれて、そのまま店先で寝てたこともある」
「最近は?」
「見てねえな」
「いつから?」
「二、三週間くらい前か」
「急に?」
「急に、だな」
店主はそう言って、グラスを拭き始めた。
「どっか逃げたんじゃねえのか」
「住んでるところとか知らないの?」
「知らん。よく酔いつぶれてたからな。話したことも大してない」
「へぇー……。残念」
シビルはわざと興味なさそうにグラスを回す。
「結構まえだもんねー。わたしのお金、返ってこない感じ?」
「だろうな。勉強代だと思って諦めることだ」
それ以上は追及しなかった。
店を出た後、少し歩いたところで資料の端に小さな印をつけた。
ミロ。二、三週間前から姿なし。突然。
次は荷運びの仕事を斡旋している男に会った。
二人目の失踪者について聞く。
「急に来なくなってな。仕事は入ってたんだが」
「今までもそんな感じだった?」
「いや、そんな感じじゃ全くなかったぜ。うちは五回働けばその分をまとめ払うようにしてるんだが、あいつはその途中で来なくなったんだ。金に困ってたから、今までなら這ってでも来るはずだぜ」
「来なくなってからどれぐらい?」
「だいぶ前だ。三十日は経ったか?」
「期間がそれぐらい空いたことある?」
「ねえな。むしろ仕事がねえのに来てた」
「変わった様子は? 誰かと揉めてたとか」
「知らん。無駄話はしてなかったからな」
また一つ印が増える。
三人目。
「男と逃げたんじゃない?」
女は最初、そう言って笑った。
「顔は悪くなかったしね。金持ってる客捕まえて、どっか行ったんじゃないの?」
「じゃあ荷物も持ってった? 服とか、お金とか」
女の笑みが少しだけ薄れる。
「……いや。残ってたと思う」
「全部?」
「たぶん。お気に入りの靴もあったから。あの子、それだけは絶対人に触らせなかったのに」
シビルは女性を考えさせるように、少し黙る。
「それ、置いて逃げるかな?」
「さあね」
さっきまで軽かった女の声から、笑いが消えていた。
シビルはその変化を見逃さなかった。
「そっか。ありがとね」
シビルはそこで引いた。
外へ出て、資料を見直す。
三人とも年齢も仕事も性別も違い、一見すれば共通点はない。ただ、資料と聞き込みを重ねていくうちに、一つだけ引っかかるものがあった。
ミロには家族がおらず、二人目の男も別の街から流れてきた人間で、娼婦の女も親族との付き合いはほとんどなかったらしい。
「消えても別に……」
シビルは呟きかけて、やめた。
まだ早い、三人だけだ。
自分がそういう共通点を探しているから、そう見えているだけかもしれない。
「もうちょっとだけ、調べてみようかな?」
シビルは気を取り直して、次の場所へ向かった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
四人目について聞いたときだった。
「この人、知らない?」
シビルが紙を少しだけ見せた瞬間、男の目が止まった。
古い雑貨店。店主は五十代ほどで、先ほどまでは普通に話していた。
だが、失踪者の名前を出した瞬間、目つきが変わった。
「知らねえ」
男はすぐに視線を外し、棚の商品へ手を伸ばした。
「この辺で寝泊まりしてたって聞いたんだけど」
「人違いだろ」
「そうかな?」
「知らねえって言ってんだ」
返事が早い。
しかも、さっきまで普通にこちらを見ていた男が、急に目を合わせなくなった。
「……そっか。じゃあいいや」
紙をしまう。それから、何でもない調子で一つだけ聞いた。
「おじさん」
「なんだ」
「怖い?」
「何の話だ」
「ここら辺、雰囲気悪いじゃん。だから怖いかなって。それだけ」
シビルは笑い、そのまま店を出た。
そこから十歩ほど歩いたところで、シビルの表情から笑みが消えた。何か知っている。少なくとも、あの反応は「知らない人間」のものではなかった。
だが、戻らない。あそこで無理に聞けば、相手は余計に口を閉ざす。
それどころか――。
店を出た後、シビルは視線を後ろに向けなかった。その代わり、露店の前を通るたびに並べられた金属製の食器や、窓硝子に映る背後の景色を拾っていく。
二人。
さっきまではいなかった男が、一定の距離を保って歩いている。片方は茶色の上着。もう片方は右脚をわずかに引きずっている。シビルが店先で止まれば、二人も止まる。歩き出せば、また動く。
「これ、いくら?」
シビルは何も気づいていない顔で、露店の髪飾りを手に取った。
「三枚」
「高いなあ」
「じゃあ二枚」
「買った」
銅貨を渡しながら、磨かれた金属板へ目を落とす。二人ともこちらを見ていない。
だからこそ、分かりやすかった。
本当に無関係なら、ここまで同じ距離を保つ理由がない。
「……厄介事は、まだいらないかな?」
小さく呟き、買った髪飾りを懐に入れる。
そこから先、シビルはあえて人通りの少ない道を選んだ。
角を一つ曲がると、二人も曲がった。
「ほうほう」
シビルの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
足を速めないず、逃げていると悟らせない。
シビルは次の角を曲がると、そのまま人一人が通るのがやっとの細い路地へ滑り込んだ。両側には古びた建物、上を見れば増築された二階部分が張り出している。
路地の奥には空になった木箱がいくつか積み上げられていた。シビルは走る速度をほとんど落とさないまま、その一番下に片足を乗せる。
箱が小さく軋み、それを踏み台に身体を持ち上げ、向かいの壁にもう片方の足をつく。
壁を強く蹴る。
その勢いで身体が上へ浮いた。伸ばした指先が二階の窓枠を掴む。腕の力だけで身体を引き寄せると、窓枠に足を掛け、そのまま外壁に突き出していた細い庇へ移った。
下から追ってくる足音が、路地へ入ってくる。
シビルは下を見なかった。
数歩進み、その端から再び壁に足を掛ける。身体を沈めて一気に蹴り上がると、伸ばした両手が屋根の縁を捉えた。身体を引き上げた瞬間、背後の路地から男たちの声が聞こえる。
「いねえぞ」
「どこ行った?」
シビルは下から見えない角度まで移動し、フードがずれないよう片手で軽く押さえながら呼吸を整える。
下では二人の男が路地の奥まで入り込み、木箱の陰や建物の隙間を覗き込んでいた。まさか頭上にいるとは思っていないらしい。
ほんの少しだけ顔を出し、その姿を確認する。
レックスのところの人間だった。
顔を知っている。直接話したことはないが、情報屋として頭には入っていた。
「店に戻るぞ」
「あの女、何聞いてた?」
「知らねえ。確認する」
二人はしばらく周囲を探したあと、来た道を引き返していった。
その背中が見えなくなるまで、シビルは動かなかった。
やがて息を深く吐く。
普段なら、ここであとを付けていたかも知れない。
だが、今は違う。
正体を知られていないなら、その優位を捨てる理由はない。
シビルは屋根の上に腰を下ろし、懐から資料を取り出した。
失踪者の名前、レックスが勢力を広げた場所、話を避けた店主。
そして、自分を追ってきた二人。
「……なんかあるね」
まだ、それが何を意味するのかは分からない。人が消えている理由も、レックスが本当に関わっているのかも、仮に関わっているとして何をしているのかも。
何一つ証拠はない。それでも、住民がレックスを恐れて逃げ出しただけでは、どうにも説明がつかない気がした。
「さて」
口元には、いつもの笑みが戻っている。
「んー……。もうちょっとだけ、見て帰ろっかな」
リオンが聞けば、間違いなく怒鳴るだろう。
そんなことを考えながら、シビルは夜の屋根を蹴った。




