第16話 向こう側にいる者
腹の奥に残った鈍い痛みは、翌日になっても消えていなかった。
歩くことに支障はなく、呼吸も普通にできる。ただ、階段を上る時や身体を捻った時は、思わず手を添えるほどの痛みが走る。
ヴェロニカに診せたところ、骨は折れていないと言われた。
ブラッドも同じだった。腕と脇腹を痛めてはいるものの、大きな怪我はない。部下二人も、一人は肩を強く打ち、もう一人は顎と腹を痛めている程度で済んでいる。
五人とも生きて戻った。
それだけ見れば、運が良かったと言える。
「……気に食わねえ」
だが、それで納得するリオンではなかった。
夜の街を歩きながら呟くと、隣のブラッドが横目を向ける。
「まだ言ってるんですか? もう過ぎたことじゃないですか」
「そんなあっさり切り替えられるわけねえだろ」
「さっさと治して訓練し直した方がいいと思いますけどね」
「っち、それらしいこと言いやがる」
そう言いながら、リオンは腹を軽く押さえる。
「ここでいい」
目の前には、古びた一軒の酒場があった。
王都中央部から少し外れた場所にある、小さな店だ。前にギルたちと会った酒場は、レックスに場所を知られた以上、もう密会には使えない。
ここも騎士団にいた頃から知っている店の一つで、表通りから外れているうえ、奥には外から様子の分からない個室がある。王子とスラムのボスが顔を合わせるには都合がいい。
「じゃあ俺は戻ります。さっさと怪我を治して訓練しないといけないんで」
「ああ。次は期待してるぞ」
「任せてください」
ブラッドは豪快に腕を回しながら、そのまま通りを戻っていく。
リオンはその背中を見送り、酒場の扉を開けた。
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店の奥にある個室に入ると、すでにギルとセレストが座っていた。
いつものように、ギルは王子らしい華美な装いではなく、街中でも浮かない上着を着ている。セレストも王城で見せる秘書官としての服装より簡素だ。
空いた席に向かうリオンを見て、二人は顔を見合わせる。
「どうしたの? 怪我でもした?」
「ああ。最悪の形で怪我したよ」
リオンは椅子に腰を下ろす。その瞬間、腹に鈍い痛みが走った。
「いってえ……」
「そんなに酷いの? なにしたのさ」
「言いたくねえな」
「でも、僕たちを呼んだ理由って、その怪我に関係してるんじゃないの?」
リオンは一瞬だけ動きを止め、観念したように溜息を吐いた。
「……ああ。その件で話があんだよ」
店員が置いていった酒にリオンが手を伸ばす。
飲もうとしたところで、セレストが口を開いた。
「その前に、一つ報告がある」
リオンが手を止め、セレストを見る。
「ロイの遺体について、調べてきたわ」
「僕が前に頼んでたやつだね」
「ええ。騎士団から王立医療院に搬送された記録、医療院側の受け入れ記録、検分を担当した者、それから検分報告書の原本まで確認してきた」
さすがにそれは素面で聞こうと、リオンは酒を置いて座り直す。
「なにか不自然なところはあった?」
「いいえ」
セレストはいつもの調子で答える。
「記録上、不自然な点はなかったわ。エディ副団長から見せていただいた報告書の写しと原本に差異は何もなかった。ロイの遺体は騎士団から王立医療院へ運ばれ、そこで検分された後、正式な手続きを経て保管されていたわ」
「担当した人は?」
「王立医療院の医師よ。身元も確認したけど、少なくとも記録上は不自然なところはなかった」
「報告書以上のことは何もない感じかな」
「そうね」
それを聞き終え、リオンは杯を取った。
ギルは小さく息を吐く。
「じゃあ、ロイの身体から追えるのは一旦ここまでかな」
「そうなりそうだな」
「セレスト、ありがとう」
「いえ」
それで話は終わった。
リオンは酒を一口飲み、杯を置く。
「じゃあ、こっちの話だが」
リオンが酒瓶を二人に向けるが、ギルもセレストも手を上げて断った。
「婆さんが消えた夜の荷馬車を追った」
「見つかったの?」
「ああ」
リオンは順番に話した。
老婆が店を閉めた時間帯に、普段見かけない荷馬車が縄張りに入っていたこと。本人を探した時には出てこなかった情報が、荷馬車に絞って聞き直したことで見つかったこと。
複数の目撃証言を繋いだ結果、その荷馬車が東へ抜けていったこと。
そして、市街側にある古い荷捌き場に入ったこと。
「そこで別の荷馬車が出てきた」
「別の?」
「婆さんを運んだのはボロい荷馬車だった。後ろの板が欠けてて、布で塞いであったらしい。そいつが中に入った後、別の大型の荷馬車が東に出たらしい」
「積み替えた可能性があるってこと?」
「その可能性が高いんじゃねえかって話だ」
ギルはテーブルの上に視線を落とし、リオンが続ける。
「それだけなら婆さんの件だけだが、ダンの昔の縄張りから捕虜を乗せて出た三台も、同じ方向に向かってる」
「スラムの、古い倉庫から出た荷車だね」
「ああ。ただ、そいつらが同じ荷捌き場に入ったところまでは確認できてねえ」
セレストがすぐに鞄から折り畳んだ王都の地図を取り出し、酒瓶と小料理を端に寄せ、テーブルに広げた。
「ここがダンたちの旧縄張りで、捕虜を乗せた荷車はこっちに向かった。どこに向かったかまでは分かってねえ」
指を差し、北西側へ移す。
「婆さんの店はここ。荷馬車は東に抜けて、この荷捌き場に入った」
ギルはリオンが示した二本の経路を見比べた。
「確かに、ダンの方もここへ来てもおかしくなさそうだね」
「で、俺たちはそこを張ったわけだ」
「つまり、そこで怪我をしたってわけだね」
「最後まで話を聞け」
リオンがギルを睨むと、涼しい笑顔で返される。
「三日目に人が来た。大型の荷馬車一台。降りてきたのは五人。レックスのところじゃ見たことねえ奴らだった」
「何をしてたの?」
「片付けだ。倉庫から箱を運び出して、紙は燃やしてた。縄だの食器だのも積んでた。あの場所を使うのをやめるつもりだったんだろうな」
「……証拠を消していた?」
「俺にはそう見えたがな」
「こちらの動きに気づかれた可能性があるわね」
セレストが地図を見ながら言い、リオンはそれに頷いた。
「どこで気づかれたのかは分からねえ。俺がレックスに捕虜のことを聞いたからかもしれねえし、ダンの旧縄張りを嗅ぎ回ったのが伝わったのかもしれねえ。婆さんの件で俺たちが本格的に動いてること自体、向こうには知られてるかもしれねえ」
「その五人と戦った?」
「そいつらとはな」
「そいつらとは?」
ギルが聞き返すと、リオンは一度酒を飲んだ。
「もう一人いた」
足首近くまで届く黒い外套。黒い手袋。顔を覆う仮面。ダンたちの旧縄張りから捕虜を運び出した夜、荷車の近くに立っていた男と同じ特徴。
「リドルが見た人物と一致するわね」
「ほぼ間違いねえと思ってる」
「そいつがリオンを?」
「……まあな」
ギルの口元が少しだけ上がった。
「なんで嬉しそうにしてんだよ。こっちは死にかけてんだぞ」
「ごめんごめん。でも、リオンも負けることあるんだなって思うと」
「喜ぶのかよ、友人が負けた姿を見て」
リオンが凄むと、ギルは笑いを引っ込める。
「ごめんって」
「っち。真正面から戦って、普通に負けた。完敗だよ」
リオンは鼻から息を大きく吐いて、深く腰掛けた。
「そんなに強かったの?」
「俺の部下二人を一瞬で潰して、ブラッドと俺でやっても止めきれなかった」
今度はギルも笑わなかった。
「それは……。相当だね」
「ああ。正直、次やっても勝てるか分からねえ」
リオンも、そこは認めるしかない。
「それに、強いだけじゃねえ。俺たちを見て一人で残ると即決しやがった。仲間が潰されても動揺もしねえ。逃がすもん逃がして、目的を果たしたらすぐ引いた」
「戦い慣れてるだけじゃなくて、人を動かすのにも慣れてそうだってこと?」
「ああ。しかも場数を踏んでるぜ、あれは」
「珍しいね。リオンがそこまで人を褒めるなんて」
「褒めてるわけじゃねえ。ただ、認めざるを得ねえってだけだ」
不満を飲み込むように、リオンは酒を煽って息を吐く。
「そんな奴からどうやってリオンは逃げたんだい?」
「逃げたってのは聞き捨てならねえが……。巡回してた騎士が音を聞きつけて入って来やがった」
「その黒ずくめは巡回の騎士が怖くて逃げたの?」
「いや。あいつの目的は証拠の隠滅だ。荷馬車が逃げた時点で用は済んでたんだよ」
「なるほどね。不用意に物事を大きくしなかったってわけだ」
ギルはそう言い、地図に視線を戻した。
しばらく黙る。
リオンが酒を飲み、セレストもギルと同じように地図を見ている。
「……やっぱり、順番が逆なんだよね」
やがて、ギルがそう呟いた。
「なんのことだ」
「前に調べた時にも気になってたんだけど、失踪事件が始まったのはレックスが他の組織を潰し始めるより前なんだよ。だから、最初からレックスがこの事件を始めたと考えると時系列が合わない」
ギルの指が、地図の西側をなぞる。
「失踪事件が元々あって、途中からレックスの勢力拡大が始まった。そして今度は、レックスが捕虜を運び出した現場に黒ずくめがいた」
「ああ。そいつはレックスの組織章を持ってねえ連中に指示を出してたからな。恐らく別組織だ」
ギルが顔を上げる。
「途中から、誰かがレックスを使うようになった」
「俺もそう見てる」
「レックスがその誰かに雇われたのか、取引してるのか」
「少なくとも、下じゃねえと思うぞ」
「どうしてそう思うの?」
「レックスは人の下につくのを嫌う」
「性格の話?」
「曲がりなりにもスラム組織のボス張ってる奴だからな。簡単には従わねえさ」
リオンは鼻を鳴らした。
「ただ、黒ずくめの方が上なのか、別口の取引相手なのかは分からねえ。レックス自身がどこまで知って協力してるのかもな」
「なら、今すぐレックスを捕まえて聞くのはやめた方がよさそうだね」
「ああ。何も知らねえとは思わねえが、全部知ってるとも思えねえ。今あいつを締め上げても、今度は黒ずくめが完全に姿を消す可能性がある」
「中途半端に手を出すと、失踪事件そのものが闇の中に消えるかもしれない」
「そういうことだ」
ギルは地図に視線を戻す。
「でも、なんで途中からレックスなんだろう。最初は身寄りがない人や定住してない人を一人ずつ狙ってた。少なくとも、確認できる失踪者を見る限りそうだった」
「そうだな」
「それが途中から、スラム組織を潰す動きが加わった」
「人が欲しかったんじゃねえのか?」
リオンが当たり前のように言う。
「一人ずつじゃ足りなくなった。組織ごと潰せば、一度に何人も手に入る」
セレストが地図上の印を見ながら口を開く。
「それに、組織同士の抗争であれば、構成員がいなくなっても不自然には見えにくいということね」
「潰した組織の相手なんざ、殺すか売るか、取り込むかだ。何人消えようが失踪届なんて出す奴はいねえ。仮に生き延びた奴がいたとしてもな」
「方法としては合理的だね」
ギルは口元に手を当てた。
「ただ、そうなると分からないのは目的だ。何のために、そんな人数が必要なのか」
それに関しては、三人とも答えを持っていない。
奴隷として売るなら、もっと単純なやり方がある。労働力が欲しいなら、わざわざ王都の中で何十人も攫う必要もない。
身代金目的でもなく、そしてロイには腹を開き、縫った痕があった。それらが一つの目的に繋がっているのかさえ、まだ分からない。
「とりあえず、リオンたちは中継地点の先を失った」
「ああ。あそこはもう使わねえだろうな」
「だったら僕は、場所そのものを調べてみるよ」
「荷捌き場か」
ギルが地図を指し、頷く。
「土地には所有者がいる。建物にもね。誰が持っていて、いつ買ったのか。個人なのか商会なのか。その名義で他に何を持っているのか」
「シビルも持ち主は追ってるはずだ」
「なら、シビルちゃんには裏から調べてもらう。僕たちは表から調べるとしよう」
「登記記録であればこちらで確認できるわ。所有者が商会なら、設立記録や代表者も追える。私の方で進めておくわね」
「お願い」
「他に確認することは?」
ギルは少し考えた。
「その商会が他に持っている倉庫や土地。それと、大型の荷馬車を持っているかどうかも分かれば」
「可能な範囲で確認しておくわ」
「お願いね」
その話を聞きながら、リオンは地図を眺めていた。
ボロい荷馬車から人を受け取ったと思われる、荷捌き場から東に出ていった大型荷馬車。あれがどこへ向かったのか。
「……人を隠してんだとしたら、場所だけじゃ足りねえぞ」
「というと?」
「いなくなった全員が同じ場所にいるとは思わねえが、人を置いとくなら飯がいる。水もいる。ロイみてえなことしてんなら、薬も使ってるかもしれねえ」
ギルの目がわずかに細くなる。
「医療用品か」
「あれだけの傷を縫ってんだ。かなり必要になるんじゃねえか?」
「確かに」
ギルは地図の端を指で叩いた。
「でも、そこまで一気に広げると多すぎる。まずは荷捌き場の所有者から追おう。それで何か出たら、その周りの取引を見る」
リオンは頷いた。
闇雲に王都中の薬や食料の流れを調べても意味はない。まず一本、荷捌き場から伸びている線を掴む。
「レックスの方はどうするの?」
「シビルに見張らせる。ただし、縄張りの中には入れねえ。しばらくは睨み合いになるだろうな」
「そうした方がよさそうだね」
ギルは地図を見ながら頷いた。
「レックスが先にいる人間に連絡を取るなら、それ自体が手掛かりになるかもしれない」
「ああ。今回の件を知るかどうかはわからねえが、動きはあるだろう」
しばらく三人は地図を囲んだまま話を続けた。
調べる場所、使える人間、リオン側で追うものとギル側で追うもの。それぞれを整理しながら、次に動く方向を決めていく。
これまではスラムの中で人間が消え、だから見る場所もスラムだった。レックスの縄張り、潰された組織、古い倉庫。
だが、そこから荷車は東へ向かい、レックスとは違う人間が現れた。
「随分こっちに来たね」
ギルの指が、地図の西から東へゆっくり動く。
「最初はスラムの中で事件が起きてるものだと思ってたけど、そうじゃなさそうだ」
リオンは椅子に背を預ける。腹が鈍く傷み、黒い仮面が脳裏に浮かんだ。
あの男は誰なのか。
何のために人を集め、どこへ運ばせているのか。
婆さんをどこへ連れて行ったのか。
まだ分からない。
ただ一つだけ、昨日よりはっきりしたことがある。
「ギル。セレスト」
リオンは前屈みになり、二人の目をしっかりと見据えた。
「お前らも気を抜くなよ。黒ずくめ……。あいつは強いうえに頭が切れる」
そこで言葉を止める。
二人が真剣に耳を傾けているのを確かめてから、リオンは続けた。
「それに、あの動きは殺し合いを何度も潜ってきた奴のもんだ。下手したら、王子と言えどいかれるぞ」
重く響いた言葉に、ギルは小さく頷いた。
「分かった。心に刻んでおくよ。セレストも、調査する時はくれぐれも注意して」
「ええ。これまで以上に気を張るわ」
レックス・ボクサーのところで、この事件は終わっていない。
その向こう側に、まだ誰かがいる。
そしてようやく、その誰かがいる方角に手を伸ばし始めていた。




