第12話 夜の荷車
「……久しぶりだな、オヤジ」
ダンがそう言うと、カウンターの向こうに立っていた店主はしばらく何も答えなかった。
白髪の混じった髪を後ろで整え、口元にも同じ色の髭を短く蓄えている。背筋は真っ直ぐで、シャツの袖まできっちりと捲られていた。酒場の主人というより、上等な店の給仕長でも務まりそうな男だ。
「……随分と面白い格好をしていますね」
ダンだと見抜いた店主は、どこか嬉しそうに口元を緩める。
「事情があんだよ」
「ええ。なければわざわざここに戻ってこないでしょう」
「っち。なんだよその言い方」
恥ずかしそうに視線を逸らすダンに、店主の表情から笑みが消える。
「生きていたんですね」
「……まあな」
「なら、よかったです」
それ以上は何も言わなかった。
ただ、その短い返事には、先ほどまでとは違う安堵が混じっていた。
店主はすぐに店内に視線を向ける。
昼間から酒を飲んでいる客は何人かいるが、レックスの組織に所属しているような客はいない。それでも人の耳がある場所で話すつもりはないらしく、リオンとシビルを一度だけ確認してから顎で奥を示した。
「積もる話もあるでしょう。奥へどうぞ」
「すまねえな」
「ただ、妙なことを始めるつもりなら先に教えてください。私は店ごと巻き込まれるのは御免です」
「安心してくれ。そのつもりはない」
「その言葉を信じていいものかは、あとで判断しましょう」
穏やかな口調のまま返し、店主はカウンター横の扉を開けた。
奥にあったのは店主が休憩に使っているらしい部屋。古びた卓と椅子、それに書類を積んだ棚が置かれているだけの狭い空間。
入ると、店内の声は壁を隔てたことでほとんど聞こえなくなる。
「それで。わざわざ戻ってきた理由を聞いても?」
「その前に」
ダンが懐に手を入れた。
取り出した革袋を卓に置くと、中から硬貨を何枚か取り出して店主の前に並べる。
店主が金とダンを交互に見る。
「なんのつもりですか?」
「ツケ。残ってただろ」
一瞬の沈黙。やがて店主は、わずかに眉を上げた。
「何を今更になって。どういう風の吹き回しですか?」
「金があるから払うってだけだ。……ここにいた時は、常に貧乏だったからな」
「ここらを統べる組織の一員が貧乏だなんて。お恥ずかしい話です」
「うるせえ。とにかく、金が出来たから今までの分はまとめて払う。受け取れよ」
ぶっきらぼうに言い放つダンに、店主は硬貨を一枚ずつ確認してから、その一部をダンの方へ戻した。
「多いですよ。余計に頂くことはできません」
「迷惑掛けた分だと思ってくれ。本当に、いろいろ迷惑掛けちまったからな」
ダンが遠くを見ながら呟くのを聞き、店主はそれ以上返そうとはしなかった。
「では、頂いておきましょう」
そのやり取りを待ってから、リオンは入口側の椅子に腰を下ろす。
「じゃあ、本題に入っていいか?」
「ええ。そのために来たのでしょう」
店主の視線がダンに向く。
まだ警戒は残っているようだ。
ダンの知り合いだから奥へ通しただけで、リオンとシビルについては何者なのか分かっていない。当然の反応だ。
「先に見せとく」
ここまで来て曖昧な身元のまま探りを入れるより、自分の名を出した方が話は早い。少なくとも、ダンが信用している相手なら賭ける価値はあった。
リオンは被っていた外套のフードを外し、普段とは逆に流していた髪を手で戻す。
「……まさか」
先ほどまで崩れなかった店主の表情に、初めてはっきりとした驚きが浮かぶ。
「リオン・バレルさん、ですか」
「俺のこと知ってんのか」
「この辺りで商売をしていたら、知らない方が難しいでしょう」
店主はそう言ったあと、もう一度、卓に置かれた金に目を向けた。
「なるほど。口止め料まで含まれていたというわけですか」
「違うぞ! 俺はそんなつもりで」
「冗談です」
店主は小さく笑ったあと、リオンに向き直った。
「失礼しました。ですが、少し安心しましたよ。ダンがどこの誰とも知れない方を連れてきたのなら、追い返すところでした」
「俺ならいいのか?」
「むしろあなたのお話なら聞いてみたいとすら思います」
店主は興味深そうにリオンを見つめる。
「噂は聞いていますよ。ここを支配している男とは、随分違うやり方をしているそうですね」
店主の声から、先ほどまでの冗談めいた響きが消える。
「レックスの縄張りになってから、ここは随分酷くなりました。店から取る金は増えましたし、金がなければ酒や食料を持っていく。組織の人間が問題を起こしても、こちらは何も言えません。文句を言えば次の日から商売ができなくなる」
「前の組織は違ったのか?」
「善良だったとは言いませんがね」
店主がダンを見ると、ばつが悪そうに視線を逸らす。
「ダンたちのところも金は取りましたし、暴力沙汰もありました。ですが、商売ができなくなるまで持っていくようなことはありませんでした。少なくとも、自分たちの縄張りを食い潰すほど愚かではなかった」
「喜んでいいのか微妙なところだな」
「十分、褒めているつもりですよ。飲食代も、名目上はツケでしたしね」
「だからそれは今日返しただろ?」
「誰が出したお金ですか? とは、あえて聞かないことにしましょう」
うっ、と声を詰まらすダンから、店主は視線を外してリオンを向く。
「だから、レックスを好いている住民はほとんどいません。表立って逆らえないだけです」
「それなら、俺の質問に答えてくれるか?」
「私が知っていることであれば」
店主は迷いなく頷く。
「ダンがここまで戻ってきた。それに、あなたが自らここまで来た。何か理由があるのでしょう」
その言葉を聞き、リオンはダンに親指をさす。
「こいつらの組織が潰された日のことを知りたい」
店主の目がダンに向く。
「……今さら、ですか」
「今さらになって、気になることが出て来たからな」
「それはどういう事情でしょうか?」
「ロイ・セイガーって男を知ってるか?」
「ええ。もちろん」
「そいつが少し前に、俺の縄張りまで逃げてきた」
「何ですって?」
驚きがはっきりと現れる。
ダンも黙ったまま店主を見ている。
「重傷だったよ。結局、助からなかったがな」
「そんな……。でも、なぜ彼が生きていたんですか? どうしてあなたの所に逃げ込んだんですか? 死因はなんだったのですか? いったい誰が」
「落ち着け、オヤジ」
ダンの手が店主の肩に置かれると、店主は息をゆっくり吐いて呼吸を整える。
「すいません。取り乱しました」
「気にするな。だが、俺もわからねえことだらけでな。だからここまで手がかりを探しに来た。ダンが逃げた後、ロイ達がどうなったのかをな」
店主はしばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくり背もたれに身体を預ける。
「ロイが……」
視線を落としたまま呟き、それから顔を上げた。
「でしたら、私が見たことにも意味があるかもしれません」
「聞かせてくれ」
「抗争が終わったあと、ダン達のアジトの前に何台か荷車が来て、何かを倉庫へ運んでいました」
「倉庫? ここら辺で倉庫って言ったら俺達が使ってたとこか?」
「ええ。西側の外れにある、ダン達が酒や武器を置いていた場所です」
「でも、なにをそんなに運んでたんだ? アジトに置いてあるものなんて、たかが知れてると思うけど」
「ロイさんが抗争の後も生きていたというのなら、生け捕りにしたあなたのお仲間を運んでいたのかも知れませんね」
店主がその頃を思い出すかのように目を細めた。
「抗争の翌日から、倉庫の前に見張りが付いていました。近所の者が近くを通ろうとするだけで追い返されていたので、不自然だとは思っていましたが」
「その見張りがいた期間はわかるか?」
リオンが訊く。
「正確には覚えていませんが、二日か三日ほどだったと思います」
「その間、何か運び込まれてたか?」
「直接見たわけではありませんが、近くに住む者達から食料を奪っていたところを見るに、それらを倉庫に運んでいたのかも知れませんね」
「なるほどな」
リオンは頭の中で整理する。
捕虜を集め、数日間、見張りを立て、近所から奪った食事と水を与えていた。
殺すだけなら、わざわざそこまでする意味は薄い。
「最後はどうなった」
「……恐らく、夜に運ばれたのかもしれません」
「見たのか?」
「直接見たわけではありませんが、それらしいものは」
「詳しく聞かせろ」
「たまたま店を閉めるのが遅くなった夜がありましてね。外に出た時、倉庫の方へ何台か荷車が向かっていくのを見ました。妙だと思ったんです。あの時間に荷物を運び込むような場所でもありませんから」
「何台だ」
「三台ぐらいだったと思います。荷車には布が掛けられていたので、何が運び込まれていたのかわかりませんが」
そこでシビルが初めて口を挟んだ。
「そのあとも見た?」
「ええ。一時間ほどして、戻ってきました。といっても、物音がしたので窓から外を見ただけですが」
「人が乗ってた?」
「そこまでは見ていません」
店主は正直に首を振った。
「ですが、倉庫の周りにはレックスの部下が大勢いました。あれだけ厳重に人を遠ざけていたのですから、普通の荷物だったとは思えません」
「どっちに行った」
「東です」
リオンとシビルが同時に反応する。
「東?」
「はい。この辺りからさらにレックスの縄張りの奥へ行くなら、南側へ向かいます。ですが、荷車は東の通りへ出ていきました」
スラムの外側。通常の市街へ繋がる方向だ。
「どこまで行ったかは?」
「そこまでは分かりません。あくまで窓から覗き見ただけですので」
「そうか」
リオンが考えていると、店主が続けた。
「ただ、私より詳しく見ていた人間がいます。この近くで荷運びをしている男。夜遅くまで仕事をしているので、その日も帰宅が遅かったと言っていました。後になって、荷車の近くを通ったと聞いたので」
「そいつは俺達が聞けば教えてくれると思うか?」
「おそらく」
店主は迷わなかった。
「あの男もレックスを嫌っています。私から聞いたと言えば、少なくとも話くらいはしてくれるでしょう。ダンとあなたが一緒なら、なおさらです」
「名前は?」
「リドルです。ここから二本先の路地に住んでいます」
それを聞き、リオンがすぐに立ち上がる。
「助かった。かなり有益な情報だ」
「もう行くのですか?」
「ああ。ちんたらしてたら誰に見つかるかわからねえ」
「それは、そうですね。ここらもレックスの息がかかる人間が多く見回りをしています。長くいればそれだけで、危険は増していくでしょう」
店主はリオンではなく、ダンを見る。
「特にあなたは」
「分かってるよ」
「でしたら、いいのですが」
ダンも立ち上がりかけたところで、店主が呼び止めた。
「ダン」
「なんだよ」
「逃げたことを気にしているなら、やめた方がいいですよ」
ダンの身体が止まる。
店主はいつもと変わらない落ち着いた顔をしていた。
「あなたが抵抗したところで、結果は変わりませんでした。……生きて戻ってきた。私にツケを払ってくれた。それで十分です」
「……別に、気にしてねえよ」
「そうですか」
「ああ」
「でしたら、私の勘違いですね」
店主はそれ以上何も言わなかった。
ダンも返事をしない。
ただ帽子を深く被り直すと、リオンたちより先に部屋を出ていった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
リドルという男の家は、酒場から歩いて数分の場所にあった。
古い集合住宅の一階。入口脇には荷車の部品や使い古した縄が無造作に積まれている。シビルが周囲にレックスの人間がいないことを確かめてから扉を叩くと、中から低い男の声が返ってきた。
出てきたのは、四十代ほどの男。
日に焼けた顔に無精髭。太い腕には古い傷がいくつもあり、仕事帰りなのか、まだ手には黒い汚れが残っている。
「誰だ」
「酒場の店主から聞いて来た」
リオンが答えると、男の目が三人を順番に見る。
「何の用だ」
「レックスがここを取った時の話を聞きに来た」
「……知らねえな」
「そうか。ならいい」
リオンは無理に食い下がらなかった。
あっさりとそう言い、身を引こうとすると。
「待て」
背を向けるより先に、リドルが呼び止める。
「店主は何て言ってた」
「お前なら話してくれるはずだとよ」
「余計なことを……」
男は頭を掻き、それから周囲を確認した。
「中入れ。外で話す内容じゃねえ」
三人を部屋に入れ、扉を閉める。中は狭く、寝台の他には仕事道具と小さな卓くらいしかない。リドルは窓の覆いまで閉じてから振り返った。
「で、何が知りたい」
リオンはフードを外すと、男が目を見開く。
「……お前。リオン・バレルか?」
「俺もいつの間にか有名人になったもんだな」
「よかったじゃん!」
「嬉しかねえよ」
「なんで北のボスがこんなところにいるんだよ」
「調べものだ。レックスの件でな」
リドルはしばらくリオンを見つめていたが、やがて鼻から長く息を吐いた。
「なるほどな。店主が俺なら喋るって言った意味が分かった」
「そんなにレックスが嫌いなのか?」
「当たり前だろ。あいつを好いてる奴なんてここにはいない」
「随分とはっきり言うな」
「別組織のボスになら、レックスの愚痴なんて言い得みたいなもんだろ。特にあんたの場合はそうだ。レックスと繋がるとは思えない」
「本当に、随分と有名になったもんだ」
自分の考えを言いふらしているつもりはないが、話したこともない人間にそう言い切られるというのは、余程のものだ。
リオンはそのことを、あまり好ましく思っていないようだが。
「それで、何を知りたい。俺が知ってることなら話すぜ」
「それは助かる。あいつらがここにあった組織を潰した後、裏手の倉庫で何やってたか知ってるか?」
リドルが顎に手を当てて、少し考えてから口を開く。
「確か……。何台かの荷車が倉庫に来たあと、数日間、誰も近付けないように見張りを付けてたな」
「何を運び込んだかとかわかるか?」
「わからない。仕事で前を通ろうとしただけで怒鳴り散らされたからな。ったく、気分が悪いぜ」
どうやらレックス達は、よほど倉庫に運んだものを見られたくなかったらしい。
「その後は?」
「三日くらい経った夜だ。何台かの荷車がまた倉庫に入ってくところを見た。すぐに出ていったけどな」
「三台か?」
「……ああ、言われてみれば三台だったかも知れない。よく知ってるな」
店主の証言とも一致する。
「何を運んだかは知ってるか?」
リドルは難しそうな顔をして、深く息を吐いた。
「……わからない。が、人の声が聞こえた気がした」
リオンの目が僅かに細くなる。
「確かか?」
「絶対に聞こえたとは言えない。気のせいだったかも知れないし、見張りの連中の声だったのかも知れない。近寄ったら面倒だと思って、物陰から見ただけだからな。ただ、荷車の荷物がズレて、それを見張りが蹴り飛ばした時、人の声が聞こえた気がしたんだよ」
「なんとなくでもいい。なんて聞こえた?」
「んなこと言われても」
そこまで言ったリドルは、静かに目を見続けるリオンを見て、改めて考えた。
「んんぅ! みたいな感じだ。歯を食いしばりながら叫んだみたいな。蹴りが入ったタイミングだったから、まさか人でも運んでるのか? とも思ったけど、すぐに出発したから確認できなかった」
その証言に、リオンはシビルと顔を見合わせて、頷き合う。
「運んでたのはレックスの人間か?」
「ああ。……そういや一人、変なのがいたな」
リドルは思い出したかのように呟いた。
「変なのってのは?」
「恰好がレックスの一味じゃなかったんだよ。全身真っ黒で、足首近くまである黒いコートを着てた。手にも黒い手袋して顔を隠してた」
リドルは自分の顔に手を当てる。
「黒い仮面みたいなもんを被ってたな。あれは影って感じの見え方じゃなかった」
「そいつは何をしてた?」
「そこも変なんだよ。何もしてなかったんだ」
「何もしてない?」
「ああ。荷物を運ぶでも、指示を出すわけでもない。ただ倉庫の前に立って見てた」
「レックスの奴らは、そいつをどう扱ってた?」
問われ、リドルが眉を寄せる。
「誰とも喋ってなかったから、仲間って感じには見えなかったけどな。一人が何か聞きに行って、そしたら黒い奴がちょっと手を動かして、それで荷車が出た」
「出発の命令を出したのか?」
「俺にはそう見えたな」
「レックスは?」
「その場にはいなかったと思う。少なくとも俺は見てない」
それを聞き、リオンは黙った。
ここまでの証言を合わせれば、荷車に乗せられていたのが捕虜だった可能性は高い。蹴りが入った直後に聞こえた声も、その一人が漏らしたものだと考えれば筋が通る。
そして、その場にはレックスの一味ではない黒ずくめの男がいた。少なくともリドルには、その男が出発の判断を下したように見えたと言っている。
「荷車はどっちに行った」
「東だ」
「間違いねえか?」
「俺は荷運び屋だぞ。あの辺の道は毎日のように使ってる」
リドルは即答する。
「あいつらは東の大通りに出た。あそこから先まで行けば普通の市街。レックスの中心に戻るなら逆方向だ」
「途中で曲がった可能性は?」
「当然ある。俺も追ったわけじゃねえからな」
「十分だ」
リオンは立ち上がった。
「助かった」
「俺が喋ったって言うなよ」
「言わねえよ。恩を仇で返すようなことはしねえ」
「恩か……。それは光栄だな」
リドルが立ち上がり、手を差し出してきた。
「応援してるぜ、リオン。なんならここをお前の縄張りにしてくれ」
「俺はレックスを潰すつもりもねえよ。お前がこっちに来るなら、それは好きにしろ」
「はっ。噂で聞いた通りの男だな。嬉しい限りだ」
リドルがそこで、ダンに目を向けた。
「……そいつ、ダンだろ」
「は、はぁ?」
ダンが固まる。
「なんで分かった」
「毎日、顔合わせてたんだ。変装しててもわかるだろ」
リドルが呆れた顔をする。
「生きてたんだな」
「……まあな」
「なら、そのまま死んだことにしとけ。レックスの奴らに見つかったら面倒だ」
「言われなくても、そうするよ」
短く答えると、ダンは再び帽子を深く被った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
昔、ダンたちの組織が使っていた倉庫は、酒場からさらに西へ進んだ外れにあった。
大きさの割には目立たない建物。周囲を古い住宅や使われなくなった作業場に囲まれ、表通りから直接は見えない。物資を隠しておくには都合のいい場所だ。
「ここだ」
ダンが足を止める。
「今は使ってねえみたいだな」
リオンは周囲を見た。
扉に新しい錠はない。見張りもおらず、人が頻繁に出入りしている気配もない。レックス側も、何かを運び出した後はこの場所を利用していないらしい。
シビルが先に周囲を確認し、三人は中に入った。
空気は淀んでいた。
埃と古い木材、それにわずかな腐臭が混ざった匂いが残っている。外から射し込む細い光の筋に埃が漂い、床には壊れた箱や縄の切れ端が散らばっていた。
「俺らが使ってた頃から汚かったけど。こんなんじゃなかったんだぜ」
ダンが小さく言う。
リオンは返事をせず、壁際へ進む。
太い柱の根元。何本か、不自然に白く擦れた跡が残っていた。
「シビル」
「うん。これ、縄かな」
シビルがしゃがみ込み、指先で表面を確認する。
「かなり強く擦れてる。何回も引っ張ったみたい」
少し離れた場所には、朽ちかけた水桶が二つ転がっていた。さらに壁際には食事を入れていたらしい木皿が重ねられ、床には黒く変色した染みが残っている。
血かどうかまでは分からない。
だが、店主とリドルの証言と合わせれば、ここで何があったのかはほとんど疑う余地がなかった。
「リオン。ここまで来れば確定だよね」
「ああ。間違いなく、ここに捕虜がいた」
リオンが言い切り、シビルが静かにそれに頷いた。
「本当にここにいたんだな」
後ろにいたダンがそう呟き、床に落ちていた何かを拾い上げている。
小さな布片だった。端に、ほとんど消えかけた印が残っている。
「俺らの印だ。間違いない」
ダンは布を指先で広げた。
「腕に巻いてた奴が何人かいた。ロイのかは分かんねえけど」
「そうか」
リオンはそれ以上言わなかった。
ダンも布をしばらく見たあと、元の場所に戻さず懐へ入れた。
証拠として意味があるほど特別な物ではない。
だが、本人にとっては違うのだろう。
倉庫を一通り確認しても、それ以上の手掛かりは見つからなかった。日数が経ちすぎている。ここから誰か個人を特定したり、何のために捕虜を集めたのかまで判断できる痕跡は残っていなかった。
それでも、十分だった。
捕虜は数日間、ここに拘束されていた。
その後の夜、三台の荷車が倉庫に入り、東へ向かった。荷車から人の声らしきものを聞いたという証言まである。なら、捕虜たちがその荷車で運び出された可能性は高い。
そして、その場にはレックスの一味だけではない、黒いコートと仮面で姿を隠した人物がいた。
一本ずつだった線が、少しずつ繋がり始めていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
旧縄張りを離れる頃には、日が傾き始めていた。
三人は来た時とは別の道を使い、レックスの人間に見つからないよう大きく北東へ回っている。ダンは倉庫を出てから口数が減り、シビルもその様子を気にしているのか、余計な話はしなかった。
代わりに、歩きながら何度も小さな地図に視線を落としていた。
倉庫。リドルが荷車を見た場所。東へ抜ける道。そこへ線を書き足していく。
「ねえ、リオン。荷車ってさ」
シビルが地図から顔を上げる。
「今回だけじゃないかもしれないよね」
「どういう意味だ」
「婆ちゃん」
その一言で、リオンも何を言いたいのか分かった。
「家から商売道具も全部なくなってたんでしょ?」
「それがどうした」
「焼き台に、炭に、串の箱。それに肉を運ぶ箱もあったって言ってたよね。あれ全部、婆ちゃんと一緒に一人で抱えてどこかに行くのは無理じゃない?」
リオンの脳裏に、昔の光景が浮かんだ。
老婆に腰が痛いと散々文句を言われ、半ば強引に商売道具を家まで運ばされた時のことだ。焼き台だけでも一人で抱えて歩くには面倒な重さがあった。炭や箱まで含めれば、年老いた女が一度に運べる量ではない。
まして、そのまま王都のどこかに消えるなど不可能に近い。
「……運ぶ足は必要だな」
「荷車、たぶん使ってるよ」
「可能性は高いな」
リオンは答えたあと、すぐに続ける。
「だが、それだけで同じ奴らがやったとは決められねえ。婆さん本人を連れてくだけなら、商売道具まで持ってく理由がねえからな」
「自分で出ていったように見せたかったとか?」
「それなら筋は通る」
「じゃあ」
「まだ可能性の一つだ」
先回りして止めると、シビルは少し口を尖らせた。
それでも、調べる価値はある。
老婆が最後に確認された時間帯。その前後に、リオンの縄張りに荷車が入ったか。入ったなら、どこから来て、どこへ出ていったのか。
人間一人なら闇に紛れて運ぶこともできる。だが、荷車は違う。車輪が地面を叩けば音がする。狭い路地なら人を避けなければ進めない。どれだけ目立たないよう動いても、誰の目にも触れず王都を横切るのは難しい。
「シビル。婆さんが最後に見られた日の夜まで戻れ」
「荷車を探す?」
「ああ。あの時間にうちの縄張りに入った奴と、出ていった奴。見られる範囲で全部洗え」
「分かった」
「ただしレックスの方は追うな」
「分かってるって」
リオンはもう一度、背後にあるダン達の旧縄張りの方角を見る。
捕まった人間を集めた倉庫。夜に来た三台の荷車。
その場にいた、顔すら見えない黒ずくめの男。そして荷車が向かった、王都市街。
まだ何一つ、正体は分からない。
だが、レックスの縄張りの中だけを見ていた時には存在すらしなかったものが、ようやく一つ姿を見せた。
レックスの向こう側に、誰かがいる。
今の段階で言えるのは、それだけだった。




