第39話 地下水路の主
ひんやりと冷たい空気が肌を撫でる。
暗い地下へと続く階段。
先頭を歩くミレイユちゃんと、中ほどのザンクが掲げるカンテラの明かりだけが、頼りなく足元を照らしていた。
やがて階段が途切れ、広大な地下水路へと到達する。
横幅二メートルほどの水路の脇に、人がようやく一列で歩ける程度の石造りの歩道が続いていた。
支流とはいえ、水路の幅が二メートルもあるのだから、太い本流はもっと幅や深さがあるだろう。
数百年前に作られたという上水道は、石組みこそ古びて苔むしているものの、流れる水は清潔だった。
カンテラの光が水面を照らすと、小さなサンショウウオやカエルが水底を泳いでいるのが見える。
水が澄んでいて、豊かな生態系が保たれている証拠だね。
「もうすぐ、本流と合流するはずです」
ミレイユちゃんが足を止め、薄暗い明かりの中で地図と周囲の地形を照らし合わせる。
彼女の言葉通り、少し進むと水路の幅が一気に広がり、五メートルはあろうかという本流へと合流した。
「ここを北にしばらく進み、次の支流がある直前の広くなっているあたりが、旧造幣局の真下のようです」
真っ暗なこと、そして不気味なほど静かなことを除けば、潜入ミッションは特に問題なく進んでいた。
わたしたちの足音以外に聞こえるのは、滔々と流れる水の音と、たまに響くカエルの鳴き声くらい。
極度の緊張を保ったまま、二時間ほど歩いただろうか。地図上の目的地が近づいてきたことで、カイルがふうっと小さく息を吐いた。
「……やっと目的地か。意外と何事もなかったな」
彼が気を抜いてそうつぶやいた、その時だった。
――暗闇の中。すぐ横を流れる水面が、不自然に「ヌプッ」と大きく盛り上がった。
「え?」
ピチャ、と水音がしたかと思うと、水の中から人間の腕ほどもある太くぬめった何かが、歩道の縁にヌルリと這い上がってきたのだ。
「うわぁっ!?」
ビクンッと肩を震わせたカイルが、短い悲鳴を上げて前を歩くミレイユちゃんにガシッと抱きついた。
突然抱きつかれた彼女は「ななな、何ですか!」と、なんとも言えない微妙な顔をして固まっている。
(ちょっとカイル、怖がりすぎでしょ……。そこはドンと構えて、ミレイユちゃんにいいとこ見せなさいよ)
内心で呆れ返った、次の瞬間。
横を流れる水路の水面が、ボコボコと異様に泡立ち始めた。
水面下に、とてつもない質量の何かが蠢いている気配。
「気をつけて! 水の中に何かいる!」
わたしの鋭い警告に、皆ハッとして身を固くした。
直後、ザバァァァッ!! と凄まじい水飛沫を上げて、暗い水底から巨大な影が跳ね上がった。
「なっ――」
狭い歩道へ、空中から覆いかぶさるように迫ってくる巨体。それが反転した刹那、ムチのようにしなる巨大な質量が、目の前の石壁にドスウゥンッ! と叩きつけられる。
「顔を守れ!」
ザンクが叫ぶ。古びた目地から石片が弾け飛び、わたしたちはとっさに腕で目をかばった。
圧倒的な膂力を見せつけると、影はドシャアン、と重い音を立てて再び水中へと潜っていく。
直後、跳ね上がった巨大な水柱が、滝のように歩道へ降り注いだ。
「カンテラを! 濡らすな!!」
カイルの悲痛な叫びが響く。こんな地下の底で唯一の明かりを失えば、完全な暗闇の中で身動きすら取れなくなる。
危機はそれだけじゃない。大質量が着水したことで、水位が急激に変動した。
「うわっ!?」
足首まで波が押し寄せたかと思うと、直後の強い「引き波」に体が水路へ引っ張られる。苔むした石の歩道は滑りやすく、踏ん張りがきかない。
「何だありゃ……。でかいぞ……!」
冷や汗を流しながら、ザンクが両手剣を抜き放ち水面を睨みつける。皆が一斉に武器を構えた。
再び水面が激しく泡立ち、暗闇の中から巨大な何かが飛びかかってくる。カンテラの頼りない明かりが、宙を舞うその身体を一瞬だけ照らし出した。
ぬめりを帯びた灰白色の巨体。退化して白濁した小さな目と、不気味にうねる長いヒゲ。
「ナマ、ズ……!?」
ザンクが信じられないものを見るように呻いた。
――ヨーロッパオオナマズ。前世の動画サイトで見た記憶がある。それよりもさらに巨大な個体だ。
暗闇で視力が退化した代わりに側線やヒゲの水流センサーが異常発達した、地下適応種に見える。
人を捕食しようとしているわけじゃない。縄張りに侵入した未知の生物を察知して、パニックになっているだけ。
「 下手に刺激しないで!」
反響する轟音に負けないように声を張り上げたいのをこらえ、鋭くささやいた。
「目は見えてない! 音と水流に反応してるの!」
「マジかよ……っ!」
ザンクが顔を引きつらせる。
回避スペースはほとんどない。もしあの巨体の体当たりや尻尾を食らって水中に落とされたら⋯⋯巨大な口で体の一部でも吸い込まれたが最後、あっという間に水底まで引きずり込まれて確実に溺死する。
「壁に張り付いて、音を立てないで進むわよ……!」
わたしたちは息を殺し、冷たい石壁に背中を擦り付けるようにして、そろそろと歩みを進めた。
ザバァッ!
すぐ横で巨体が跳ね上がり、歩道を掠めるように体当たりを繰り返してくる。絶え間なく叩きつけられる水飛沫で視界が白く濁り、ただでさえ悪い足元は絶望的なまでに滑る。
「きゃあっ!」
ミレイユちゃんのすぐ目の前の壁に、ナマズの巨大な尻尾が激しくぶち当たった。
石が砕ける衝撃に思わずよろけ、無情にも引いていく波に足を滑らせる。暗く冷たい水路へと、その華奢な体が傾いた――
「危ない!」
カイルがとっさに踏み込み、間一髪でミレイユちゃんを力強く抱きとめた。
(……このままじゃまずい)
わたしは深呼吸をして、心の中でそっと呼びかける。
『シルフ、お願い。わたしたちから離れた水路の奥で、空気を弾いた破裂音で水面を叩いて。あの子を遠くへ誘導してほしいの』
周囲を舞っていた光の蝶が溶け合って人の上半身を形作る。
『わかったわ。なるべく遠くまで連れて行くわね』
ふわりと水路の奥へと飛んでいく。
しばらくすると、パンッ! ポンッ! と、数十メートル先の暗闇から、水面を激しく叩くような乾いた音が連続して鳴り響いた。
途端にすぐ横を泳いでいた巨大な影が、ピタリと動きを止める。
そしてシルフの音に反応したのか、凄まじい水流を残して一気に奥の方角へと移動していった。バシャン、バシャンという水音が、徐々に遠ざかっていく。
「……行ったみたいだな」
カイルがへたり込みそうになりながら、大きく息を吐き出した。
パーティー全体を安堵の空気が包み込む。
「今のうちに進みましょう。早く!」
ミレイユちゃんの言うとおり。わたしたちは早足で歩道を進んだ。
しばらく進むと、支流の手前に上へ登る古い石階段が見えてきた。地図が正しければ、そこが旧造幣局の真下、目的地の入り口のはず。
警戒しながら階段を登っていく。
数十段ほど登ったところで、重厚な鉄のドアに行き当たった。
何百年も前の地下水路への扉だ。錆び付いているか思ったけど、ザンクが力を込めると重たいドアはスムーズに開いた。
「え……?」
開いた扉の先を見て、わたしたちは全員、息を呑んで立ち尽くした。
そこは埃まみれの廃墟などではなかった。
煌々と明かりがともる、簡素だけど綺麗に整えられた小部屋。
そして部屋の中央には、パリッとした夜会服を着こなした一人の老執事風の男が静かに立っている。
男はわたしたちに目を走らせると、右手を胸に当てて深く、恭しく一礼して口を開いた。
「――お待ちしておりました、お嬢様」




