「断罪ですか? 結構ですわ。その言いがかり、代数学で因数分解して差し上げます」〜冤罪をかけられた悪役令嬢カトリーヌ、家庭教師ヴィエトの記号代数で愚かな夫の嘘を解き明かす〜
1571年9月11日、パリ。
ルーヴル宮殿の大広間。
壁を覆うフランドル織のタペストリー。青銅の燭台。
集まった貴族たちの絹やベルベットが、揺れる炎を受けてきらめいていた。
一段高い玉座の中央には、21歳のフランス国王シャルル九世が、どこか神経質な面持ちで腰掛けている。
傍らには、黒い未亡人服をまとった王太后メディシス。冷徹な眼差しで、広間全体を観察していた。
その左右には王族や大諸侯が居並び、フランス宮廷の名だたる顔ぶれが、これから始まる断罪を見守る。
華やかな色彩にあふれる広間に、ひときわ異質な一角。
黒い装束をまとった、少女と男。
前に立つ少女のドレスは、深い黒のビロード。
細く絞られた腰から、たっぷりと布を使ったスカートが優雅に広がる。
襟元と袖口には繊細な白いレースがあしらわれている。
宝石の飾りはひとつもない。だが、その仕立てのよさは、由緒ある貴族の令嬢であることを物語っていた。
蜂蜜色を帯びた金髪は、後頭部で丁寧に結い上げられている。
白い肌に、吸い込まれるような翠眼。
整った顔立ちには、まだ17歳らしいあどけなさが残っている。
カトリーヌ・ド・パルトネ。
名門に生まれ、幼少から古典語、数学、天文学を修めてきた才媛。
彼女は背筋を伸ばし、黒レースをあしらった小ぶりな扇子を携えていた。
幾百もの視線を浴びながら、その表情に動揺の色はない。
数歩後ろには、黒い法服をまとった長身の男が静かに控えている。
鮮やかに彩られた宮廷のただ中で、その二人だけが、まるで別の世界から現れたかのような黒だった。
その正面で、いかにも傷ついた被害者を装っているのが、彼女の夫――23歳のポン=ラベ男爵シャルル・ド・ケレネック。
そのケレネックの傍らから一歩前へ出たのが、王弟アンジュー公アンリ。
黄金の刺繍を施した紫のダブレット。整った容姿に、隠そうともしない傲慢な態度。
だがその眼差しに宿るのは、単なる若者の虚勢ではない。いくつもの戦で軍功を重ねた、若き指揮官。
彼は広間をひと睨みして、口を開いた。
「以上である!」
朗々とした声が、高い天井に響き渡った。
「カトリーヌ・ド・パルトネは、神聖なる婚姻の義務を侮辱し、夫たるケレネック殿に対して、ありもしない『性的不能』を言い立てている」
「そればかりではない! 夫の留守を狙ってパルトネ家の財を勝手に動かした」
「さらには、不審な暗号の密書を用いて、外部の者と通じていたのである!」
広間がざわめきに包まれた。
夫に逆らう妻。
隠された財産。
暗号の密書。
そして、夫に対するあまりに不名誉な訴え。
宮廷の暇人たちが飛びつきそうな醜聞は、すべて揃っていた。
「……まるで物語に出てくる悪女ですわね」
ギーズ公家の令嬢、マリー・ド・ロレーヌが、扇で口元を隠しながら蔑みの視線を送る。
傍聴席のどこかで、若い貴族が忍び笑いを漏らした。
しかしカトリーヌは、まるで聞こえなかったかのように振る舞った。
悪女? 結構なお話ですこと。
なるほど、夫と王弟殿下の言い分だけを聞けば、そう見えるのかもしれない。
アンジュー公が手を掲げた。
「ゆえに、そなたの申立ては退けるべきである! 直ちに夫のもとへ戻り、不順を悔い改めよ」
「従わぬならば、領地の権利を失うことも覚悟せねばなるまい」
そして、わずかに声を落とした。
「……申し開きはあるか?」
静寂が広間を支配した。
誰もが、この17歳の少女が泣き伏すか、恐怖に震えて許しを乞うものと思っていた。
しかし、カトリーヌはスッと扇子を開き、口元を隠した。
「ございます」
アンジュー公が片眉を上げた。
「ならば申せ」
「その前に、ひとつお願いがございます」
「なんだ」
「夫と殿下が今しがたお述べになったことを、もう一度確認させていただきたいのです」
「今しがた聞いたであろう。そなたの耳は飾りか?」
「お聞きしました。ですが、言葉というものは困ったものでございます」
可憐ながら、どこか凍てつくような笑み。
「長々と並べ立てられますと、いかにも辻褄が合っているように聞こえてしまいますので」
ケレネック男爵の顔が険しく歪んだ。
「何が言いたい、カトリーヌ!」
「分けましょう」
「……何?」
「ひとつずつ。混ざり合った言葉を、単純な要素に切り分けるのです」
玉座の脇では、王女マルグリットが、興味深そうに少女を見つめていた。
近くに控えるナヴァール公アンリもまた、事の成り行きをじっと見守っている。
アンジュー公は少女を見据えた。
「面白い。やってみるがよい」
その口元には、余裕の笑みが浮かんでいた。
♠
カトリーヌは静かに振り返った。
彼女の数歩後ろに立つ、黒い法服をまとった男。
フランソワ・ヴィエト。
かつて母アントワネットが娘のために招いた家庭教師であり、すぐれた法律家。そして、数学の研究に情熱を注ぐ男でもある。
ヴィエトは何も言わなかった。
ただ革の鞄を開き、数枚の紙を取り出すと、カトリーヌへと手渡した。
「先生から教わったことがございます」
彼女はそれを傍らの書記机に置き、再び前を向いた。
「分からないものは、分からないまま置いておけばよろしいのです」
アンジュー公が怪訝そうに眉をひそめた。
「何を言っておる?」
「答えが分からないからといって、勝手に決めつけてはいけない。分からないものには、ひとまず仮の名を与える。そして、すでに分かっている確かな事実を、その周りに並べるのです」
ヴィエトが、わずかに目を細めた。
「そうすれば、見えなかったものの形が、少しずつ浮かび上がってまいります」
「算術の話か?」
「似たようなものでございます」
「そなたの家庭教師は、ずいぶん変わったことを教えるのだな」
「ええ。とても便利ですのよ」
すっと視線を滑らせ、夫ケレネックを見つめた。
「特に、嘘を見つけるときには」
ケレネックの頬が引きつった。
「私を愚弄する気か!」
「まだ何も申しておりませんわ、殿」
手元の紙を一枚持ち上げた。
「では、最初のお話から確認いたしましょう」
「私はブルターニュの城に閉じ込められておりました。これは間違いありませんわね?」
「閉じ込めたのではない!」
ケレネックは即座に声を荒らげた。
「お前が勝手な真似をしないよう、静養させていただけだ。妻を保護するのは夫の務めである!」
「では、その『静養』の間、私は自由に城を出入りできましたの?」
「できるわけがないだろう! 静養なのだからな!」
「外部からの客人は?」
「不穏な連中と会わぬよう、制限した!」
「手紙は?」
「すべて私の兵が調べていた!」
「紙も、インクも?」
「必要のないものは与えなかった!」
「城の門には見張りが?」
「厳重な兵を置いた!」
「私の侍女にも?」
「監視をつけた! 怪しい真似などできなかったはずだ!」
「――それで結構でございます、殿」
カトリーヌは鈴を転がすように微笑んだ。
「何がだ!」
「ひとつ目の確かな事実が、決まりました」
彼女は手元の紙に指を置いた。
「私は、自由に外部と連絡することを禁じられていた」
「当然だ!」
「その監視が、どれほど厳重だったかについても、夫ご自身からお話しいただきました」
広間に小さなざわめきが広がった。
アンジュー公は黙って聞いていた。
「では、二つ目ですわ」
カトリーヌは新しい紙を取り出した。
♠
「夫は、私がブルターニュにいた間、パルトネ家の財産を密かに動かしたと訴えておられます」
「そうだ!」
ケレネックが勢いを取り戻したように叫んだ。
「これには明白な証拠もある!」
彼が合図を送ると、従者がぶ厚い会計帳簿を捧げ持ってきた。
「見ろ! お前が城にいた間にも、パルトネ家の領地から莫大な金が動いている!」
ケレネックは帳簿を開き、記録を指さした。
「受取人はサン=マロの商人たち。名目は軍需物資の購入だが、そのような取引を認めた覚えはない! お前が実家の財産を隠すため、密かに送金したのだ!」
「いつのことでございます?」
「ここだ!」
ケレネックは日付を指で叩いた。
「1569年の秋から、翌年の春! 何度もだ!」
「――それは結構」
帳簿を覗き込んだ。
「それは、私がブルターニュの城に閉じ込められていた期間ですわね」
「だからこそ悪質なのだ! 静養しているふりをしながら、裏で領地の金を動かしていたのだからな!」
「お待ちくださいませ」
不思議そうに首を傾げた。
「私は城から、領地へ命令を出した……と?」
「そうだ!」
「ですが先ほど殿は、私が外部と連絡できぬよう、厳重な監視をつけていたとおっしゃいました」
「当然だ!」
「それほど厳重な監視のもとで、どうやって領地に金の指図を出せたのでしょう?」
「何らかの抜け道を使ったに決まっている!」
「抜け道?」
「そうだ! お前は昔から小賢しい知恵ばかり働かせていた!」
カトリーヌは開いた扇子で口元を隠し、わずかに目を伏せた。
「困りましたわね」
「何がだ!」
「私には今、ふたりのカトリーヌが必要になりますの」
傍聴席のどこかで、小さな笑い声が漏れた。
「ひとり目の私は、城の門から手紙一通出せないほど、厳重に監視された哀れな囚人」
一歩踏み出した。
「ふたり目の私は、同じ城の中から遠く離れた領地へ自由自在に命令を送り、莫大な金を動かす恐ろしい悪女」
もう一歩。
「どちらも、殿がお話しになったことですわ」
「だ、だから! 私の目を盗んで何かしたのだ!」
「何を?」
「密書だ!」
ケレネックが叫んだ。
「お前は奇妙な暗号を使って、外部の者と通じていたではないか!」
「まあ」
その声には、どこか楽しげな響きがあった。
「では、みっつ目の要素が入りましたわ」
アンジュー公が、静かに口を開いた。
「その密書ならば、ここにある。城外で押収されたものだ」
彼が手を上げると、従者が一通の紙を差し出した。
「柑橘の汁で書かれた文字を、あぶり出しによって浮かび上がらせたものだ。ギリシャ語や奇妙な記号も混じっている」
アンジュー公は手紙を眺めた。
「普通の手紙を、わざわざそんな方法で書く必要などあるまい」
「まあ、殿下」
本当に楽しそうに笑った。
「その手紙をお持ちだったのですね」
「そなたのものと認めるのか?」
「ええ。私が書きました」
広間がどよめいた。
ケレネックが勢いづいた。
「認めたな! やはりお前が――」
「でしたら」
静かにアンジュー公を見つめた。
「何が書いてあるか、読んでいただけます?」
アンジュー公は書記官へ手紙を渡した。
「読め」
王室書記官が、文字に目を走らせた。
やがて、その顔に奇妙な表情が浮かんだ。
「……母君への救援要請でございます」
「続けよ」
国王シャルル九世が命じた。
「は。自分は夫によって城内に閉じ込められている。自由に手紙を書くことも許されない。婚姻以来……」
書記官が言葉を濁した。
「どうした」
「その……『婚姻以来、今なお、生まれたままの乙女である』と」
一瞬の静寂。
次いで、どよめきが広間を駆け抜けた。
「乙女だと?」
「夫婦なのにか?」
「では、不能という噂は……!」
ケレネックの顔から血の気が引いた。
「で、でたらめだ! そのようなもの、妻が勝手に書いたに決まっている!」
「ええ」
カトリーヌはあっさりとうなずいた。
「私が書きましたわ」
「な……!」
「ただし、そこに書いたのは、財産の指図ではございません」
カトリーヌは書記官へ視線を向けた。
「金銭の移動について、何か書かれておりました?」
「……いいえ。少なくとも、この手紙にはございません」
「ありがとうございます」
カトリーヌは夫へ向き直った。
「どうやら、殿が持ち出された証拠は、殿がおっしゃる罪を証明するものではなかったようですわね」
ケレネックが、唇を震わせた。
傍聴席から失笑が漏れる。
「……面白い方ね」
王女マルグリットが、扇の陰でつぶやいた。
「それでは」
カトリーヌは手元の紙を重ねた。
「そろそろ、因数分――」
その瞬間だった。
「待て」
低く、よく通る声。
アンジュー公が、静かに立ち上がっていた。
♠
「実に見事な弁舌だ、カトリーヌ嬢」
アンジュー公はゆっくりと歩み出た。
「だが、そなたの話には、ひとつ大きな穴がある」
広間が静まり返った。
ケレネックが、救いを求めるように王弟を見上げる。
「穴、でございますか?」
「そうだ」
アンジュー公は、書記官の手元にある密書を指さした。
「そなたは先ほど、城から外へ命令など出せなかったと申したな?」
「はい」
「では、その手紙は何だ?」
カトリーヌの笑みが止まった。
開いていた扇子が、ゆっくりと半ば閉じられた。
「紙もインクもない。門には兵がおり、侍女にも見張りがついていた。なるほど、厳重な監視であろう」
アンジュー公が一歩、進み出る。
「だが、そなたは柑橘の汁と羽根ペンを手に入れ、秘密の手紙を書いた」
「……」
「母への手紙は書けるが、領地への命令は書けぬ。ずいぶん都合のよい監禁ではないか?」
広間の空気が変わった。
「しかも、そなたは自分の手紙に、夫が性的不能であると書いた。だが、それが真実である証拠は何だ?」
「私が書いたものでございます」
「そうだ。そなたが書いた」
鋭く言い切った。
「手紙が本物であることと、そこに書かれたことが真実であることは違う。そうではないか?」
カトリーヌは答えなかった。
「今、そなたは自分の主張に都合のよい部分だけを選んでいる。夫の帳簿は疑い、己の手紙は信じよと申す」
アンジュー公は、わずかに笑った。
「それでは、そなたが批判した夫の論法と変わらぬではないか」
沈黙が落ちた。
ケレネック男爵が、勢いよく顔を上げた。
「そ、そうだ! 殿下のおっしゃるとおりだ!」
だが、アンジュー公は目もくれなかった。
「答えよ、カトリーヌ嬢」
カトリーヌは、手元の紙に視線を落とした。
その背後で、ヴィエトは静かに見守っている。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「……おっしゃるとおりでございます」
広間がどよめいた。
「私は、ひとつ間違いをいたしました」
アンジュー公が顎を上げる。
「ほう。認めるか」
「はい。監視が厳重であることと、外部への連絡が不可能であることを、同じものとして扱ってしまいました」
カトリーヌは深く一礼した。
「ご指摘、感謝いたします」
アンジュー公の笑みが、わずかに揺らいだ。
「……何?」
「おかげで、問題がずっと簡単になりましたわ」
顔を上げる。翠眼が、きらりと輝いた。
「殿下のおっしゃるとおりです。私は秘密の手紙を書くことができました。そして、領地へ命令を送ることも――できたかもしれません」
「そうだ」
「ですが、殿下」
「『できた』ということと、『した』ということは、同じでございましょうか?」
アンジュー公が眉をひそめた。
「……何が言いたい?」
「それはまだ、可能性にすぎませんわ」
カトリーヌは、ゆっくりと夫へ向き直った。
「殿」
「な、何だ!」
「私を断罪なさるのは、結構でございます」
「ですが、その前に――」
半ば開いていた扇子を、ぱちりと閉じた。
そのまま扇子の先を、鋭く夫へ向ける。
「お前の言いがかりを、代数学で因数分解して差し上げます」
広間が静まり返った。
「……な、何だと?」
ケレネックが顔を真っ赤にして叫ぶ。
「夫に向かって、お前とは何だ! それに、その意味の分からぬ学問は何だ!」
「あら」
カトリーヌは薄く微笑んだ。
「妻を盗人と呼ぶのはよくて、夫をお前と呼ぶのはいけませんの?」
「なっ……!」
カトリーヌは扇子を開き、居並ぶ王族たちへ優雅に一礼した。
「ですが、難しいことではございませんのよ。混ざり合ったものを、ひとつずつ分けていくだけでございます」
手元に重ねていた紙を三枚、机の上に並べた。
「まず、殿下。夫の告発を、三つに分けて考えてみましょう」
一本の指を立てる。
「ひとつ。パルトネ家から金が動いた。これは事実でございます」
二本目。
「ふたつ。私は監禁されながらも、外部へ秘密の手紙を送ることができた。これも事実」
そして三本目。
「みっつ。私には、実家の財産を夫の手から遠ざける理由があった。そう疑われる事情も、認めましょう」
ケレネックが勢いづいた。
「そうだ! すべて認めたではないか!」
「――ええ。それで結構でございます」
「ですが殿。私はまだ、罪を認めたわけではございませんのよ」
「何だと!」
アンジュー公が目を細める。
「つまり、『そなたが金を動かすよう命じたのではないか』ということだな」
「はい。殿はそのようにおっしゃっております」
カトリーヌはうなずいた。
「では、ひとつずつ確かめましょう」
最初の紙を指さした。
「金が動いた。ですが、誰が命じたのでしょう?」
「そなたであろう」
「その証拠は?」
アンジュー公は、ケレネックの提出した帳簿へ目を向けた。
「書記官。確認せよ」
書記官が帳簿に目を走らせる。
「……支出の日付、金額、取引先、名目のみでございます」
「私の署名は?」
「ございません」
「印章は?」
「それもございません」
カトリーヌは二枚目の紙へ指を移した。
「では、密書について。私は母への手紙を書きました。つまり、外部へ連絡することは可能だった」
「そうだ」
「ですが、その手紙に財産の指図はございました?」
「……なかった」
「ありがとうございます」
そして三枚目。
「最後に、動機でございます。私には財産を守る理由があったかもしれません。ですが、そうした理由を持つ者が、必ず金を動かすのでしょうか?」
アンジュー公は答えなかった。
カトリーヌは三枚の紙を見つめた。
別々の事実を、ひとつの罪へと結びつけているもの。
――なるほど。
「……こちらですわね」
アンジュー公が眉を上げた。
「何のことだ?」
カトリーヌは、開いた扇子で三枚の紙を示した。
「殿下の式に、共通するものです」
「共通するもの?」
「ええ。三つのお話には、どれも同じ言葉が隠れております」
最初の紙を持ち上げた。
「金が動いた。『私が』動かしたのだろう」
二枚目。
「手紙を送れた。『私が』金の指図も送ったのだろう」
そして三枚目。
「財産を守る理由があった。『私が』そのために金を動かしたのだろう」
彼女は三枚の紙を重ねた。
「どのお話にも、同じものが掛けられておりますわ」
黒い扇子の先が、重ねられた紙の上で止まった。
「――『私が』」
広間が静まり返った。
「殿下。分かっている事実をいくつ並べても、それらを私の行為と結びつけるには、ひとつ足りないものがございます」
「……何だ?」
「私が、実際に命じたという証拠ですわ」
アンジュー公の口元から、わずかに笑みが消えた。
「私は、金を動かすことが不可能だったと申し上げるつもりはございません。先ほど、それが誤りだと教えていただきましたから」
ケレネックが叫んだ。
「では、お前ではないと証明してみせろ!」
「――それは、私が証明すべきことでございましょうか?」
「何っ?」
アンジュー公へ向き直った。
「殿下。私が金を動かしたと告発しているのは、夫でございます」
「……そうだ」
「でしたら、夫が示すべきなのは、金が動いたという事実だけではございません。私がそれを命じたという事実では?」
長い沈黙が落ちた。
アンジュー公は、重ねられた三枚の紙を見つめた。
やがて、短く息を吐く。
「……なるほど」
その声には、先ほどまでの嘲りはなかった。
「三つの事情は、そなたを疑う理由にはなる。だが、そのすべてをそなたの行為だと断じるには、まだ証拠が足りぬ」
「はい」
カトリーヌは晴れやかに微笑んだ。
「疑うには、十分かもしれません」
そして、静かに問いかける。
「では、罪人と決めるには?」
アンジュー公は、今度は迷わなかった。
「……足りぬ」
ケレネックが目を見開いた。
♠
「殿下!」
「黙れ」
アンジュー公の声は低かった。
「私は、そなたを庇うためにここにいるのではない」
「しかし!」
「妻が金を動かしたと言ったのは、そなただ」
アンジュー公は帳簿を指した。
「ならば、それを示すのもそなたの役目であろう」
ケレネックの口が開いたまま止まった。
カトリーヌは、深く一礼した。
「ありがとうございます、殿下」
「礼を言われる筋合いはない」
「いいえ」
カトリーヌは晴れやかに微笑んだ。
「殿下が私の間違いを正してくださらなければ、私は『自分にはできなかった』ことばかり証明しようとしていたでしょう」
そして、ケレネックを見た。
「けれど、それは必要ございませんでした」
「……というと?」
「私にできたかどうかではなく」
カトリーヌは帳簿へ指を置いた。
「実際に、誰が何をしたのか。それを調べればよろしいのです」
国王シャルル九世が、初めて身を乗り出した。
「では、誰が金を動かした?」
「分かりません」
あまりにもあっさりとした返答に、広間がざわついた。
ケレネックが笑い声をあげる。
「はっ! 結局、何も分からぬではないか!」
「ええ」
カトリーヌは平然とうなずいた。
「――分からないのでしたら、それで結構でございます」
「な……!」
「分からないものを、勝手に私だと決めつけない。それだけのお話ですわ」
背後で、ヴィエトがほんの少し目を細めた。
アンジュー公は笑わなかった。
代わりに、ケレネックの帳簿を自ら手に取った。
「待て」
指が一行で止まる。
「サン=マロ、ジャン・ベルナール商会。名目は……軍需物資?」
「はい」
カトリーヌが答える。
「先ほどから、そこだけが気になっておりました」
「何がだ」
「殿下」
カトリーヌはアンジュー公を見た。
「この支払いが行われたのは、1569年の秋から翌年の春。夫はその頃、どちらに?」
アンジュー公の表情が変わった。
今度はケレネックを見る。
「……軍にいたな」
「は、はい」
「私の指揮下で」
ケレネックの顔から、わずかに色が失われた。
カトリーヌは何も言わない。
アンジュー公が帳簿へ視線を戻す。
「ジャン・ベルナール……」
何かを思い出すように眉を寄せた。
「書記官」
「はっ」
「当時の軍務費の控えを確認せよ。この商会から物資を入れていないか」
ケレネックが一歩前へ出た。
「で、殿下、そのようなことまで――」
「今、調べるべきは誰が何をしたかなのであろう?」
アンジュー公は、カトリーヌを横目で見た。
「違うか?」
「――それで結構でございます」
カトリーヌは優雅に頭を下げた。
王室書記官が、控えていた会計官と短く言葉を交わした。
軍務関係の控えが開かれる。
やがて書記官の指が止まった。
「……ございました」
広間が静まった。
「ジャン・ベルナール商会。火薬、鉛弾、馬糧、武具の修繕材料――」
アンジュー公が問う。
「納入先は?」
書記官は、ほんの一瞬ためらった。
「ケレネック男爵の率いる部隊でございます」
ざわめきが走った。
「そんなもの!」
ケレネックが叫ぶ。
「軍務で必要だったから受け取っただけだ! 私が妻の財産を動かしたことにはならぬ!」
「――ええ。それで結構です」
今度は、カトリーヌの返事が早かった。
ケレネックが言葉を失う。
「私は、殿が金を動かしたと申してはおりませんもの」
「……何?」
「先ほど間違えたばかりでございます。もう同じ間違いはいたしませんわ」
カトリーヌは帳簿と軍務記録を見比べた。
「今、分かったのはただひとつ」
指先が、ケレネックの提出した帳簿へ落ちる。
「私が密かに隠したとされた金。その支払先の商人が、同じ時期に夫の部隊へ軍需物資を納めていた。二つの取引には、関係があるかもしれません」
「可能性だ!」
「はい」
「ですから、調べればよろしいのです」
アンジュー公が口を挟んだ。
「支払いを誰が命じたのか。商人への注文を誰が出したのか。パルトネ家の管理人と軍の会計、双方の記録を照合すれば分かる」
「殿下……!」
「そなた自身が妻を告発したのだ、ケレネック」
アンジュー公の眼差しは、すでに冷たかった。
「ならば、そなたも調べられる覚悟くらいはあるのであろうな?」
ケレネックは答えなかった。
国王シャルル九世が、低く言った。
「よかろう」
全員の視線が玉座へ向いた。
「財産については、これ以上この場で推測を重ねる必要はない。パルトネ家の帳簿と、軍務の記録を照合させよ」
そしてケレネックを見る。
「少なくとも現時点で、妻が不正に金を動かしたと断定する証拠はない」
「へ、陛下!」
「むしろ、そなたが提出した帳簿について、新たに確かめるべきことが増えた」
ケレネックが青ざめた。
カトリーヌは追撃しなかった。
ただ、静かに扇子を閉じる。
ぱちり、と小さな音がした。
「では」
彼女は再びアンジュー公へ向き直った。
「最後の問題にまいりましょう」
「まだあるのか」
「もちろんでございます」
カトリーヌは、書記官の手元にある密書へ視線を移した。
「殿下は先ほど、この手紙に書かれたことは、私自身の主張にすぎないとおっしゃいましたわね」
「そうだ」
「まったく、そのとおりでございます」
カトリーヌは書記官から手紙を受け取った。
「この手紙だけで、夫が性的不能であると証明することはできません」
ケレネックが、すがるように顔を上げた。
「そ、そうだ……!」
「ですが」
カトリーヌは夫を見た。
「夫が私の訴えを偽りだと断じることも、またできません」
アンジュー公は、今度はすぐにうなずいた。
「そのとおりだ」
「でしたら――」
カトリーヌはにっこりと微笑んだ。
「確かめましょう」
♠
「……何?」
ケレネックの声がかすれた。
「婚姻が果たされたとおっしゃるのでしたら、それを確かめればよろしいのです」
カトリーヌは悠然と扇子を開いた。
「日付から始めましょうか」
ケレネックの顔が引きつった。
「婚姻してから今日までの夜を、一晩ずつ」
「ま、待て……!」
「戦へ出ておられた日もございますわね」
「やめろ!」
「負傷して戻られた後も」
「黙れ!」
「お城へ戻られてからは、私を別の部屋にお住まわせになりましたわね」
「……っ!」
「侍女たちも事情を存じております。寝室の鍵を管理していた者も。医師に相談されたこともございましたわね」
ケレネックが後退った。
カトリーヌは、淡々と続けた。
「証人をお呼びしましょう。必要ならば、医師による正式な検査も受けていただきます」
「やめろ……!」
「なぜですの?」
不思議そうに目を丸くした。
「殿がおっしゃるように、私の訴えが偽りであるならば」
開いた扇子の向こうで、ほんの少しだけ笑う。
「それを証明する、絶好の機会ではございませんか」
「頼むから……!」
「どうなさいましたの?」
「頼む……!」
ケレネックは、とうとう膝をついた。
「それだけは……やめてくれ……!」
広間が静まり返った。
アンジュー公も、もはや何も言わなかった。
カトリーヌは、しばらく夫を見下ろしていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……殿」
その声から、先ほどまでの楽しげな響きが消えていた。
「私は、最初から何も望んでおりませんでした」
ケレネックが顔を上げた。
「ただ、私自身の人生を返してほしかっただけです」
誰も言葉を挟まなかった。
「それなのに、殿は私を閉じ込め、財産を我が物のように扱い、そのうえ悪女として告発なさった」
カトリーヌは静かに首を横に振った。
「そこまでなさる必要が、どこにございましたの?」
ケレネックは答えなかった。
床に膝をついたまま、ただ肩を震わせていた。
カトリーヌは、ゆっくりと国王へ向き直った。
「陛下」
国王が顔を上げた。
「申し上げます」
彼女は深く一礼した。
「私は、夫がどれほど卑劣な男であるかを申し立てたいのではございません」
「……ほう」
「ただ、私に向けられた告発が、確かな証拠によって裏付けられていないことを、お示ししたかったのでございます」
シャルル九世は、しばらく彼女を見つめていた。
やがて、王太后メディシスへ視線を向ける。
王太后は、何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと扇を閉じた。
それを見届けると、国王は立ち上がった。
「もうよい」
低い声が、広間に響き渡った。
「ケレネック」
男爵が、びくりと肩を震わせた。
「そなたは、妻がパルトネ家の財産を不当に動かしたと告発した。しかし、提出された記録からは、そなた自身の関与についても調べる必要が生じている」
「へ、陛下……!」
「妻を閉じ込めたことも、自ら認めた。そして、婚姻についての訴えには、答えることすらできぬ」
シャルル九世は冷ややかに見下ろした。
「少なくとも、これをもって妻を罪人とすることなどできぬ」
ケレネックが床に額をこすりつけた。
「お、お慈悲を……!」
「慈悲だと?」
国王の声が、一段低くなった。
「己の名誉を偽るため、妻を陥れようとした者が。今さら慈悲を乞うのか」
近衛兵へ目を向ける。
「ケレネックを拘束せよ。虚偽の告発と財産の不正処理の疑いについて、厳しく取り調べる」
「へ、陛下! お待ちを!」
「パルトネ家の財産管理からも、直ちにこの男を外せ。関係する帳簿と印章は王室の管理下に置き、不正な支払いを調べさせる」
「そんな……!」
「婚姻の件は、正式な無効審理へ移す。それまで、この娘を夫のもとへ戻すことは認めぬ」
国王は、カトリーヌを見た。
「カトリーヌ・ド・パルトネ」
「はい、陛下」
「そなたは、自由の身だ」
カトリーヌは、深々と頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます」
それは、ようやく手にした自由だった。
ケレネックは、なおも無様に許しを乞いながら、近衛兵に連れ出されていった。
その姿を、もはや誰も庇おうとはしなかった。
アンジュー公は、静かに立っていた。
カトリーヌが彼へ向き直る。
「殿下」
「……何だ」
「本日は、ありがとうございました」
アンジュー公の眉が、ぴくりと動いた。
「礼を言われる覚えはないぞ」
「いいえ。殿下のご指摘がなければ、私は自分の論証の誤りに気づけませんでした」
「……」
「おかげで、もっと確かな答えにたどり着けましたわ」
アンジュー公は、しばらく少女を見つめていた。
やがて、苦笑した。
「そなたは、なかなか恐ろしい女だな」
「まあ」
カトリーヌは口元を扇子で隠しながら、いたずらっぽく微笑んだ。
「悪女でございますもの」
今度こそ、広間に笑いが広がった。
王女マルグリットは扇で口元を覆いながら、楽しげに目を細めていた。
ナヴァール公アンリは声を殺して肩を揺らしている。
アンジュー公は、小さく息を吐いた。
「……二度と、そなたとは議論したくないものだ」
「――それは結構なことでございます」
ぱちん。
カトリーヌは閉じた扇子を手に、優雅に一礼した。
♠ ♠ ♠
大評議会が終わり、秋の夕暮れがルーヴル宮殿の回廊を橙色に染め上げている。
大理石の床を、二つの影が静かに進む。
背の高い男の長い影が、隣を歩く少女の影に、そっと重なっていた。
「いかがでしたか、ヴィエト先生」
カトリーヌが尋ねた。
「何がでしょう、カトリーヌ様」
「先生の新しい解析術の、実地試験ですわ」
ヴィエトは、しばらく真面目な顔で考え込んだ。
「少々、用途が物騒かと存じます」
「あら、とても便利でしたわよ」
「本来は、方程式を解くために研究しているものなのですが」
「ふふ。人間のつく嘘の方が、複雑な方程式よりもずっと解き甲斐がございますもの」
ヴィエトは否定しなかった。
ただ、頼もしい教え子の横顔を、温かな眼差しで見つめた。
「ところで先生」
「はい」
「先ほど私は『因数分解』と申しましたけれど、間違っておりませんでしょう?」
ヴィエトは少し考え込んだ。
「……厳密には、因数分解とは申せませんな」
「あら。せっかく、同じものを取り出しましたのに」
カトリーヌは不満そうに頬を膨らませた。
「ええ。考え方は、よく似ておりました」
ヴィエトは穏やかに微笑んだ。
「でしたら、因数分解で結構ではございませんの?」
「……少々、強引でございますな」
「ふふ。でしたら結構」
カトリーヌは軽やかに歩き出す。
しかし数歩進んだところで、ふと足を止めた。
「……今日、私は一度、間違えましたわね」
ヴィエトは何も言わなかった。
「殿下のご指摘がなければ、きっと気づかなかったと思います」
カトリーヌは俯いた。
「まだまだ勉強が足りませんわ」
ヴィエトは、静かに微笑んだ。
「間違いに気づくこともまた、学問でございます」
カトリーヌが顔を上げた。
「そして、間違いを認めたからこそ、より確かな答えにたどり着けたのでしょう?」
「……ええ」
「でしたら、今日の授業は成功です」
カトリーヌは、ぱっと笑顔になった。
「では先生、次は何を教えてくださいます?」
「……もう少し穏やかな問題を用意いたしましょう」
「あら、残念」
「残念、でございますか」
「ええ。今日の問題、とても面白かったのですもの」
ヴィエトは、深くため息をついた。
どうやらこの教え子には、今後も苦労させられそうである。
カトリーヌ・ド・パルトネ。
その名が後世に残ることになる少女は、晴れやかな足取りで歩いていった。
(了)
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