第37話 魔窟
◇ミレイユ視点
新教皇の執務室に、音もなく夜風が入り込んだ。
厚い雲にさえぎられ、月明かりすらない暗闇。
バルコニーに通じるガラス扉がわずかに開き、黒い影が部屋の絨毯に音もなく降り立った。
影は、机のランプの光を頼りに山積みの書類と格闘しているクレメンス新教皇の背後へと忍び寄る。その手に握られた短剣が、教皇の首筋に向けられ――
「――遅い」
部屋の隅、濃い影の中から飛び出して、黒装束の男の懐へ弾丸のように潜り込んだ。
「なっ!?」
男が驚愕の声を漏らすより早く、展開したブレードで男の手首の急所を正確に打ち据えた。
カランッ、と刃が床に落ちる。
そのまま腕を掴んで捻り上げ、関節を極めながら足を払う。床に倒れ込んだ男の首筋へ手刀を叩き込み、一瞬で意識を刈り取った。
「……またですか。ここ二日で、食事に毒が仕込まれていたのが三回。直接の襲撃はこれが二人目ですよ、猊下」
気を失った暗殺者をロープで縛り上げながら、大きなため息をついた。
「すまないね、ルカ君。君がいなければ、私は教皇座に就いて早々に五度は死んでいたことになる」
クレメンス新教皇は、羽ペンを置いて苦労人のような顔で感謝の言葉を口にした。
私は今「ルカ」として、彼の従者の服を着てこの部屋の護衛に就いている。
新教皇となったクレメンス猊下の命を、バルバロス派の残党や彼らに雇われた裏社会の人間たちが、なりふり構わず狙ってきているのだ。
(とても聖職者のいる場所とは思えない……)
縛り上げた男を部屋の隅へ転がしながら、内心で毒づいた。神聖なる大聖堂が、いまや薄汚い暗殺と毒薬の飛び交う魔窟と化している。
これが私の母を殺したバルバロスと結託して私腹を肥やしてきた、教団の腐敗の実態だ。
でも、目の前で山積みの書類と格闘しているクレメンス新教皇は違った。
猊下はこの泥沼のような状況下でも決して信仰を曲げず、バルバロスの悪事を公の場で告発し、教団を正しく立て直すための準備に奔走している。
その高潔な姿には、素直に頭が下がる。
「猊下」
窓の外の淀んだ夜空を見つめながら口を開いた。
「明日、カイルたちの元へ合流しなければなりません」
「ああ、わかっているとも。それに、君から頼まれていた『あれ』も、無事に用意できたことだしね」
クレメンス新教皇はそう言うと、机の上の書類の山から、古びた羊皮紙の筒を取り出して私に手渡した。
「ありがとうございます。まさか本当に、大聖堂の地下書庫に眠っていたなんて」
「地下水脈を掘り当て、領地全体を潤す巨大な水路の『基本設計』を遺した、偉大なる三導師様たちの古い設計図だからね。
大聖堂の書庫か気象観測庁に保管されていると思っていたが、運良く見つかって何よりだ」
私は羊皮紙の筒をしっかりと握りしめた。
後を託された者たちがこの図面を基に、百年以上の歳月をかけて地下網を築き上げた。多少変更されている可能性はあるけど、重要な地図であることは間違いない。
バルバロスの屋敷は、ホッホブルクの旧造幣局があった場所に建てられている。
貨幣鋳造のためには大量の冷却水を必要とするから、巨大な地下水路網の太い線が繋がっているはず。
この図面があれば、屋敷の地下へと通じる通路を見つけ出せる可能性が高い。
「……ですが、私がここを離れれば、猊下の護衛が手薄になります。誰か信頼できる者がいないと、いくらなんでも危険すぎます」
クレメンス新教皇は穏やかに微笑んだ。
「その点については安心しなさい。先ほど、ザンク殿から密かに連絡があった。彼が手配してくれた仲間たちが、明日から私の護衛として就いてくれる手はずになっているそうだ」
(ザンクさんが? ……ああ、なるほど)
私たちの船『ミストラル号』に乗っている、気心の知れた野郎どものことだろう。かつてホッホブルクに仕えていた荒くれ者の騎士たちだ。
彼らであれば、行儀の悪い暗殺者たちを相手にするのに不足はない。
「彼らもまた、真の主君のために戦いたいと願う誇り高き者たちだ。君が抜けた後も、私の背中は彼らがしっかりと守ってくれるだろう」
クレメンス猊下の言葉に、心底安堵の息を吐いた。
ザンクさんの手回しの良さには、本当に救われる。
「予定通り、大演説は三日後に大聖堂前広場で行う手はずで各方面へ周知済みだ」
「わかりました。どうかご無事で」
「頼んだよ、ミレイユ君。……いや、今はルカ君だったね」
クレメンス猊下は優しく目を細めた。




