第36話 大雨の日は
むせ返るような紫煙と安酒の匂いが立ち込める、港の裏路地にある薄暗い酒場。
オレは隅のテーブルに陣取り、木製のジョッキに入ったぬるいエールをちびちびと舐めながら、『待ち人』が現れるのを静かに待っていた。
「……よお、ザンク。随分と久しぶりじゃねえか」
背後からの声に振り返る。
そこには、くたびれた私服姿の中年男が立っていた。
「おう、ハンスか。座りな」
空いている椅子を顎でしゃくり、店主にもう一杯エールを頼んだ。
ハンスはドカッと椅子に腰を下ろすと、出されたエールを一気に半分ほど飲み干し、深いため息をついた。
「はぁ……。こっちの空気は最悪だ。お前らと気楽に暴れてた頃が懐かしいぜ」
「違えねえな。だけどよ、雲の上の『精霊』や『第一』はともかく、あんたはオレたち『第三』みたいな落ちこぼれやはみ出し者とは違うだろ。
誇りある『第二』の騎士様が、随分と丸くなったもんじゃねえか」
皮肉交じりに言うと、ハンスは顔をしかめて苦々しく舌打ちをした。
「そう言うなよ。生きるために仕方なくあの成金野郎にこき使われてるんだ。そんなことは、お前だってわかるだろ」
「……バルバロスの屋敷の警備は、相変わらずキツいのかい?」
低く声を落として尋ねると、ハンスはギリッと奥歯を噛み締めた。
「ああ。アイツは臆病でな、少しでも怪しい奴がいたら斬れだの、夜の巡回を増やせだの。
すぐに物を投げつけたり、場当たりの無茶苦茶な命令ばかりだ。家令のアロンソさんがマトモな人なんで、まだ救われてるが……」
ハンスは深くため息をつく。
「……ホッホブルク騎士の誇りなんて、泥にまみれちまった、な」
そこまで吐き捨てるようにつぶやくと、ふと訝しげな視線を向けてきた。
「そういやザンク。お前、南の方で暴れてたって噂を聞いたぜ。何やってたかは知らねえが……なんでわざわざ、こんな息の詰まるシュテルンフェルスに戻ってきた?」
オレはニヤリと笑い、本題を切り出すことにした。
「ああ。近々……とんでもねえ大雨が降るらしいからな」
「……あ? 大雨?」
彼は目を丸くして、窓の外の星空をチラリと見た。今は雲ひとつない快晴だ。
「ああ。気象観測庁の予報でな。バケツをひっくり返したような、前もまともに見えねえくらいの凄まじい大雨だ。……いつとは言えねえが、確実に来る」
冗談ではないと悟ったのか、ハンスはジョッキを持った手を止めた。
「……で? それがどうしたってんだ」
「そんな大雨の日に、バカ正直に屋敷の警備なんて行く必要はねえ。家でゆっくり雨宿りでもしてな。雨が完全に上がって、空が綺麗に晴れてから……ゆっくり出勤すればいい」
「……」
ハンスがスッと目を細めた。
長年戦場を渡り歩いてきた男だ。言葉の裏を探っているのだろう。
「バルバロスのクソ野郎にどなられるって? なあに、簡単なことだ。
『道が冠水して、身動きが取れなかった。あの雨じゃ仕方ない』。そう言い訳すれば、筋は通るだろう?」
ジョッキを掲げてみせる。
「……おい、ザンク。お前、まさか……」
ハンスは声を潜め、周囲を警戒するように顔を寄せた。
「ただの天気の話さ。……だが、オレは昔馴染みのあんたらに、無駄な仕事をしてほしくないんだよ。だから、忠告しに来たんだ」
彼の肩をポンと叩き、さらに言葉を続けた。
「あんたと同じように、不本意ながら屋敷の警備をさせられてる、元ホッホブルクの連中がいっぱいいるだろ。
そいつらにも、こっそり伝えておいてくれ。『大雨の日は、絶対に屋敷に出勤するな』ってな」
今回の目的は、あくまで屋敷の地下にある金庫から悪事の証拠を探し出し、ホッホブルクを取り戻すための重要な情報を奪い取ることだ。
だが、その過程で、若の本来の臣下であるはずの元ホッホブルクの騎士たちと殺し合うなんて、絶対にあってはならない。
気象観測庁の予報通りの大雨が降れば、屋敷の警備は必ず混乱するだろう。その隙を突いて、一気に金庫を破る。
(そのとき元ホッホブルクの連中が警備を休んでくれれば、オレたちにとっても、彼らにとっても、一番都合がいいからな)
ハンスはじっとオレの目を見つめ返していたが、やがて、その口元に微かな笑みを浮かべた。
「……そうだな。気象観測庁が言うような大雨が降っちまったら、外に出るなんて無理に決まってる。不可抗力ってやつだ。……連中にも、しっかり『天気予報』を伝えておくよ」
「助かるぜ」
そう言って立ち上がり、テーブルに銀貨を数枚置く。
「……ザンク。お前、今誰と動いてるんだ?」
ハンスがふいに、確かめるように聞いてきた。
振り返らずに答える。
「オレみたいな落ちこぼれでも、命を掛けられる『最高の船長』だ。『勝利を導く女神』の加護付きだぜ?
⋯⋯楽しみにしてな」
彼はなんだそりゃ、といった顔で鼻を鳴らし、残りのエールをぐいっと飲み干した。
◇
酒場を出ると、夜風が火照った顔に心地よかった。
(よし。これで屋敷は大雨と同時に手薄になるはずだ)
あとは、予報通りになるのを待てばいい。
オレはポケットに手を突っ込み、若たちの待つアジトへと夜の街を歩き出した。




