第34話 パンとサーカス
壮麗な大聖堂を背にして、再びシュテルンフェルスの雑踏へとまぎれ込む。
三百年前、わたしとレオニー団長が歩いた頃のシュテルンフェルスは、素朴で武骨な城塞都市だった。
だけど、今の街並みは全く違う。通りには色鮮やかな衣服を着た商人たちがあふれ、遠くの海から運ばれてきた珍しい香辛料や反物が並べられている。
華やかな、ルネサンスみたいな風が吹いているみたい。だけど同時に路地裏にはその恩恵に預かれない、貧しい人々の姿も多く見受けられた。
富が一部の権力者に偏っている、いびつな発展だ。
街の中心部から少し離れた、かつて古い造幣局があった一等地に差し掛かった時、その「いびつさ」の象徴が姿を現した。
「……悪趣味なお屋敷」
思わずつぶやいてしまう。
それは、周囲の建物を見下ろすようにそびえ立つ、巨大な塔のような豪邸だった。
建物の壁面には、美しい金糸のタペストリーが何枚も飾り付けられ、陽の光を受けてまるで館全体が黄金でできているかのようにギラギラと輝いている。
ここは、バルバロスがこの街に滞在する際に使う拠点だ。
周囲の広場は、ちょっとしたお祭りのような、にぎやかな空間になっていた。
中央では、雇われた一座が派手なパントマイムや芝居を披露し、人々から拍手喝采を浴びている。
「バルバロス卿、万歳!」
「我らの気前よき後援者様に神の祝福を!」
その周りをバルバロス家の紋章が入った、赤と黄色の揃いの服を着た使用人や奴隷たちが何十人もせわしなく走り回り、集まってきた市民たちにワインや軽食を振る舞っている。
(なるほど。裏で異端審問や略奪を繰り返して莫大な富を築き、そのほんの少しをこうして『パンとサーカス』として民衆にばら撒くことで、表向きの熱狂的な支持を集めているのね)
実に狡猾で、腹立たしいほど見事なポピュリズム。
大聖堂を牛耳り、教皇の座すら金で買おうとする男のやり口としては、完璧と言えるだろう。
ワインの匂いが充満する広場の隅に立ち止まり、歓声に紛れながら館の周囲を冷静に観察する。
表の華やかさとは裏腹に、館の要所には鋭い目つきの私兵たちが隙なく配置されている。
屋根やバルコニーの配置、警備兵の巡回ルート、そして有事の際の逃走経路になりそうな裏門の位置。
前世の知識と、三百年前の防衛戦で培った戦術眼をフル回転させ、頭の中にバルバロス邸の立体的な見取り図を構築していく。
そして、精霊の力を借りて警備の騎士たちの声に聞き耳を立てる。
……ふうん、そっか。
敵の懐の情報をしっかりとこの目に焼き付けたわたしは、賑やかな広場に背を向け、人気のない裏通りへと足を踏み入れた。
このまま街の様子をもう少し見て回ろうとした、その時。広場のどんちゃん騒ぎの光が届かない建物の陰で、一人地面に座り込んで安酒の瓶を煽っている女性を見つけた。
身なりは薄汚れ、警備兵用らしき使い古された革鎧を雑に着崩している。だけど、酒瓶を握る手には分厚い剣だこがあり、酔っていても隠しきれない体幹の良さがあった。
何より目を引いたのは、彼女の背に吊り下げられた古びた長剣の柄頭。
そこにはうっすらと、羽根を広げた蝶の紋章が刻まれている。
わたしは足を止め、広場の喧騒を自嘲気味に睨みつけている彼女へ、静かに声をかけた。
「……こんなところで飲んだくれているなんて、随分と暇そうね。精霊騎士さん」
女はビクッと肩を震わせ、濁った目をこちらへ向けた。
「……何の冗談だ。精霊騎士団なんて、とうの昔に解体されたよ。反乱を恐れた教皇庁の上層部と、あそこにいる成金の金槌によってな。今はただの、しがない街の警備兵だ」
女は吐き捨てるように言い、再び酒瓶を煽ろうとした。
「なら、どうしてその剣を手放さないの?」
「……っ!」
「街中がバルバロスの振る舞う金とワインに酔いしれているのに、あなたは一人でふてくされている。この歪んだ街の姿に、絶望しているからじゃない?」
女は図星を突かれたように目を見開き、そしてギリッと奥歯を噛み締めた。
「……絶望もするさ! 私たちが命を懸けて守ると誓ったシュテルンフェルスの街が、あんな俗物どもの金と暴力で支配されてるんだ!
大聖堂も、騎士の誇りも、全部金で買われて……私一人で、どうしろって言うんだ……!」
悔しさに血を滲ませるようにして、女はうつむいた。
その瞳の奥には、まだ完全に死に絶えていない『誇り』の炎が確かにくすぶっている。
「……だったら、剣は研いでおきなさい」
「えっ……?」
「十日後、記録的な大雨が降る。そのあと、あなたがその剣を誰のために振るうのか……自分で決めなさい」
「!? あんた、一体……」
女が声を上げた時、わたしはすでに路地の雑踏へと紛れ込み、彼女の視界から姿を消していた。
(……これで、彼女の心の火は消えずに済むかな)
絶望の中でも決して剣を手放さなかった彼女が、どう動くのか。それは彼女自身が決めることだ。
天候は下り坂に向かっていた。




