第33話 気象研究庁
壮麗な「ホッホブルク気象研究庁」のエントランスをくぐり抜けた。
内部は吹き抜けの巨大なドーム構造になっており、天井に設けられたステンドグラスからは、色鮮やかな光が石張りの床に降り注いでいる。
広いフロアには何十台もの机が整然と並べられ、数え切れないほどの学者や技官たちが、紙や真鍮製の計器を手に慌ただしく行き交っていた。
(すごい……活気が三百年前と全然違う)
壁一面を覆う巨大な黒石板には、ホッホブルク領内だけでなく、南方の内海に至るまで、広範囲の気圧や風向のデータが白亜でびっしりと書き込まれている。
かつてわたしが手作りした百葉箱から始まり、あの子たち――リナ、エミリー、サアラが懸命に繋ぎ、クラウス主任たちが情熱を燃やした気象観測の技術。
それが今、この国になくてはならない巨大なシステムとして完成しているのだ。
嬉しさで胸が熱くなるのを抑えつつ、一般の見学者を装ってフロアを歩き、黒石板の前に立って腕組みをしている白衣の青年にそっと声をかけた。
「……南の内海から、かなり暖かくて湿った空気が入り込んでいますね」
「おや」
青年は少し驚いたようにこちらを向き、眼鏡の奥の目を瞬かせた。
「ご令嬢、観天望気の心得がおありですか? ええ、その通りです。内海からの最新の観測データと上空の風を照らし合わせると……
およそ十日後、このシュテルンフェルス周辺で記録的な大雨が降る兆候が出ています」
「十日後……大雨ですか」
青年は深くため息をついた。
「ええ。ですが海運ギルドのバルバロス卿からは、自身の船団のために波風の立たない『都合のいい予測』を出せと急かされていましてね。
王国と関係が深いらしく、掛け合って『気象研究庁』へと格上げしてやった恩を忘れるな、とでも言わんばかりの態度です。
辺境伯様がお元気であれば、こんなこともないのですが……」
「大変ですね。そういった政治的な要求をされると」
「予算を出してくれたことには感謝しますが、それとこれとは別問題です。
名称が『研究所』から『庁』に変わろうと、我々学者にとって興味があるのは、この複雑で美しい空の理を解き明かすことだけですから」
青年は、黒板に書かれた無数の数値を誇らしげに見上げた。
「教皇庁の腐敗だの、派閥争いだの、我々には関係のないことです。政治的な権力争いや利権になど、一切関わるつもりはありません。
我々はただ、三導師様が遺された『原初の観測ノート』の教えに則り、真摯に天候と向き合うのみです」
その言葉を聞いて、思わず口元がほころんだ。
権力者であるバルバロスは、気象予測の軍事的・商業的価値を理解し、この施設を『庁』に格上げして自分に都合よく利用しようとしたのだろう。
だけどここにいる学者たちは、権力におもねるような連中ではなかった。
三百年前のクラウス主任がそうであったように、彼らの根底にあるのは「純粋な探求心」と、空への誠実な敬意だけ。
だからこそ、政治的な力を持たない純粋な学術機関として独立を保っているのだ。
「素敵な職場ですね」
「ええ、我々の誇りです」
青年が微笑み返してくれたのを見て、わたしは満足して軽く会釈をした。
(……十日後、このシュテルンフェルス周辺で降る大雨)
得られた情報を、頭の中で素早く自分の気象知識と照らし合わせる。
(よし。知りたいことはすこしわかったかな)
彼らが真摯に空と向き合い、遺されたものを正しく受け継いでくれていること。
そして、直近の天候の傾向と、バルバロスの動きの片鱗。
彼らの仕事の邪魔にならないよう、青いドレスの裾を翻して、足早に気象研究庁のエントランスへと向かう。
外に出ると、空には薄い巻雲が広がり始めている。天候が下り坂に向かう、確かな前兆だった。
◇
気象研究庁での用事を済ませて、次なる目的地――シュテルンフェルス大聖堂へと進む。迷路のように入り組んだ路地を抜け、やがて視界が開けた先に広大な石畳の広場が現れる。
その正面にそびえ立つのは、白亜の尖塔が天を衝く壮麗な大聖堂。
ステンドグラスから漏れる柔らかな光が広場を照らす中、通り過ぎようとした足が止まる。
開け放たれた大聖堂の扉の奥から、荘厳なパイプオルガンの音色に乗って聖歌隊の透き通るようなコーラスが響いてきた。
『――見よ、死の陰の谷に立つ、猛き獅子の乙女を』
『彼女の背には弱き者たちの命があり、故に彼女は恐れを知らず』
静寂と熱を帯びた美しい歌声が、大聖堂の広場を神聖な空気で満たしていく。
ふと視線を広場の片隅へ向けると、見習いの服を着た少年たちに向かって、年配の神官が静かに語りかけていた。
「よいか。今歌われているのは『獅子の詩篇』だ。ホッホブルクの騎士を志す者なら、幼い頃に必ず叩き込まれる誓いの歌である。
三百年前の『聖光戦役』において、味方を逃がすために、絶望的な戦況の中でも敵の大軍に立ち塞がった不屈の軍神……聖レオニーを讃えた賛美歌なのだよ」
神官の言葉に、少年たちが真剣な眼差しでこくりとうなずく。
それを耳にして、そっと目を閉じた。
(……レオニー団長。あなた、本当に神話になっちゃったのね)
脳裏に浮かぶのは、不器用だけど誰よりもまっすぐにホッホブルクを護ろうとした、無敵の騎士団長の横顔。
今やこうして大聖堂で美しく、荘厳に歌い継がれる不屈の象徴となっている。お友達としてはちょっと照れくさいけど、誇らしい気持ち。
『敵の剣がその身を刻めども、彼女の眼差しは決して揺るがず……』
清らかな賛美歌のフレーズが、大気を震わせる。
だけどその美しい余韻を胸に刻み込むと同時に、わたしの瞳には冷たい光が宿った。
(……大聖堂の中ではこんなに気高い誇りが歌われているというのに、その裏側はどう? バルバロス派が私欲のために民から搾取し、教団の教義すらも捻じ曲げている。なんとも胸糞の悪い皮肉ね)
あいつらにとっては、獅子姫の誇りも、女神への祈りも、己の欲を満たすための見世物にすぎないのだ。
ギュッと拳を握りしめ、大聖堂に背を向けた。




