第31話 軍神の盾
◇クレメンス視点
午前の暖かく澄んだ空気が、老いた胸に心地よく染み渡る。
パレスの前庭では、我々一行の出立準備が進められていた。
護衛を務めてくれるのは、ザンク殿と彼が率いる十名ほどの屈強な海賊たちだ。表向きは「私が道中で雇い入れた傭兵」という名目である。
さらに、身元を明かせないカイル殿、ミレイユ殿の二人は、目立たない簡素な服に身を包み「教皇の従者」や「傭兵の荷物持ち」として同行することになった。
なお、馬は女神様が近くの森のなかに作られた牧場からお借りしている。
「教皇様。とりあえずはこの馬に乗ってもらいますが、道中の大きな町に着いたら、立派な馬車を買い上げましょうや」
馬の鞍を調整しながら、ザンク殿がニヤリと笑いかけてきた。
「なんせ、教皇様になって大聖堂に凱旋するんだ。みすぼらしい格好じゃ箔がつかねえし、何より、ご年齢もあってお体が心配ですぜ。
道中、王都の周りは温泉が多いですから疲れを癒やしながら進みやしょう」
「……お気遣い、感謝いたします。老骨に馬の背は少々堪えますからな」
不器用だが温かい彼の配慮に、私は苦笑しながら深くうなずいた。
「お。順調のようね」
そこへ、食料の入った麻袋を抱えた女神様がパレスから出てこられた。相変わらずそのお姿は軽やかで、神としての威圧感など微塵も感じさせない。
「なんで一緒に行かないんだ?」
カイル殿がたずねると、女神様は軽く手を振った。
「わたしはパレスでちょっとやることがあるから、お留守番。用が済んだら追いつくから、先に行ってて」
そうおっしゃりながら荷物を海賊たちに渡すと、ふと何かを思いついたように私へ向き直った。
「ねえ、クレメンスさん。大聖堂に戻ったあと、バルバロスを告発するんでしょ?
『聖域で神託を受けた』ってかんじの話をするなら、言葉だけじゃなくて、何か目に見える『証拠』がないといけないんじゃない?」
「……おっしゃる通りです。大衆を動かすには、ただの老人の言葉だけでは説得力に欠けるでしょう。何か、大聖堂の者たちが一目でひれ伏すような証があればありがたいのですが」
私が正直に答えると、女神様は「そうだよね。ちょっと待ってて」と言い残し、小走りで再びパレスの中へと戻って行かれる。
やがて戻ってきた女神様の腕には、古びた布に包まれた、大きな板のようなものが抱えられていた。
「はい、これ。持てる?」
「……むっ」
差し出されたそれを受け取った瞬間、腕に確かな重みが乗った。三キロほどだろうか。老体の片腕で振り回すには少々骨が折れるが、両手でなら問題なく掲げられる重さだ。
「重みはありますが、両手でなら問題なく持ち上げられます。女神様、これは一体……?」
「開けてみて」
促されるまま、恐る恐る表面を覆っていた古びた布をめくっていった。
布が滑り落ちた瞬間、その場にいた全員の息を呑む音が重なる。
陽光を受けて姿を現したのは、一枚の盾だった。
上部が平らで下部が尖った、逆五角形の『ヒーターシールド』。
無数の古びた傷跡が見られるものの、丁寧に磨き上げられている。鮮烈な赤地のキャンバスと、フチを彩る金色の意匠が気高く輝いていた。
そして、盾の中央に大きく描かれているのは、赤地に黄色の『高き城と風車の四枚羽』――普通は青地なので色は違うものの、間違いなくホッホブルク家の紋章だ。
「こいつぁ……」
元第三騎士団長であるザンク殿が、目を見開いて一歩前に出る。
「右下に描かれている優雅な蝶。これは間違いなく、あの『精霊騎士団』の紋章だ。
そして左の名誉ある位置に個人の紋が配置されているってことは、ただの団員の盾じゃなくて騎士団長のもの……。
だが、この猛る獅子の紋は……?」
ザンク殿のつぶやきに、女神様が愛おしそうに盾の表面を撫でながら答えた。
「わたしの、戦友の盾だよ」
「戦友、とは……まさか」
私が震える声でたずねると、女神様は静かにうなずく。
「うん。……レオニー団長が、この地を護ったときに使っていた盾」
「なっ……!?」
ザンク殿が絶句し、周囲にいたカイル殿やミレイユ殿も驚愕で顔が青ざめた。
「し、獅子姫レオニーの盾!? 俺もガキの頃、木の枝と板切れでよくレオニーごっこをしたぜ! 」
カイル殿が興奮で声を上ずらせると、ミレイユ殿も信じられないものを見るようにつぶやいた。
「……孤児院に飾られていた古い絵で見ました。味方を逃がすため、一歩も退かずに立ち塞がった不屈の軍神だと」
「ああ。ホッホブルクに限らず、すべての騎士が憧れ、目標とする武勇の象徴だ……」
元騎士団長であるザンク殿の震える声に、無理もない、とうなずく。
獅子姫レオニー・フォン・ホッホブルク。
三導師と同じく聖教にて列聖され、『軍神』として崇められる伝説の英雄だ。
三百年前の活躍は、聖典の『聖光戦役記』に収められている。
彼女が掲げた赤き盾の姿は、聖典に連なる『獅子の詩篇』の聖句として、今も歌い継がれている。
つまり、間違いなく大聖堂の奥深くで厳重に保管されているような、正真正銘の『聖遺物』――
「パレスの周りを修復した時に回収したんだよ。
返そうとしたら『もう使わないから、わたしに持っていてほしい』って。
揃いで使ってた朱塗りの剣もあるんだけどね」
「け、剣もあるのか!? 女神様、それ、俺に……!」
カイル殿が身を乗り出して食いついたが、女神様は「ダメ」とあっさり首を横に振った。
「カイルの腕じゃまだまだ早い。それに、剣も盾も誰かにホイホイ貸したら、レオニー団長がすねちゃいそうだからね」
かつての戦友を思い出したのか、くすくすと笑っている。
「これなら、女神から下賜された――あ、あげないわよ、貸すだけだからね――そう言って、信じてもらえるかな?」
「ええ……! 言葉もありません。信じるどころか、これを目にすれば、いかなる教会の権力者であろうと平伏するほかないでしょう」
私は、両手に抱えた赤き盾の重み――それに込められた歴史の重圧に震えながら答えた。
「クレメンスさん。どう伝わってるのかわからないけど……」女神様はスッと真剣な表情に戻り、私をまっすぐに見据える。
「レオニー団長はね。この盾を持って、あたり一面敵兵の中、全員が撤退するまで殿を戦い抜いたんだよ」
その言葉が、私の胸の奥に重く突き刺さった。
「⋯⋯あなたに、その覚悟はある?」
――それは、神からの試練であった。
この盾を持つということ。それは、バルバロスの暗殺の刃や腐敗した聖教の権力から、殿として民と信仰を守り抜くという強烈な意思表示に他ならない。
「…………っ」
私はゆっくりと背筋を伸ばす。
そして、まだ朝露の匂いが残る地面に深くひざまずき、両手でしっかりと、その気高い赤き盾を掲げた。
「――はい。軍神に恥じぬよう、私も大聖堂で戦い抜いてみせます」
私の決意を聞き届けた女神様は、満足そうにふわりと微笑んだ。
「うん。頼んだよ」
東の空には、まばゆい太陽が天高く昇り始めている。
私はカイル殿たちの手を借りて馬上の人となり、盾を幾重にも布で包んで背に括り付けた。
ここからシュテルンフェルスまでしばらくの道程。そして大聖堂での水面下の準備と、大衆の面前で決死の告発が待っている。
だが私の心には、一切の迷いも恐れもなかった。
軍神の赤き盾の重みが、かつてこの地を護った英雄たちの温かな手のように、背中を押してくれているのだから。




