第28話 人の自律
翌日の早朝、空が白々と明け始めた頃。
わたしはひんやりとした空気を吸い込みながら、一人で外へと出た。
パレスの前に広がる静かな湖は、まるで完全な鏡のように、鮮やかな紫から黄金色へと変わりゆく朝焼けの空を美しく反射している。
その湖畔に、すでに先客がいた。
クレメンス新教皇。
彼は豪奢な祭服ではなく質素な寝衣のまま、静かに湖畔の地面に膝をつき、両手を組んで深く祈りを捧げていた。
足音を立てずに近づくと、気配に気づいた彼がハッとして振り返り、慌てて深く頭を下げる。
「……女神様。おはようございます」
「おはよう、クレメンスさん。早いね。冷えるから薄着だと風邪引いちゃうよ?」
隣に立って声をかけると、彼は自嘲するように力なく微笑んだ。
「もったいないお言葉です。……このような神聖な場所に身を置くと、自らの罪深さと無力さが浮き彫りになるようで、祈らずにはいられなかったのです」
「罪深さ?」
首を傾げると、彼は深く息を吐き出し、懺悔するように語り始めた。
「私は長年、腐敗した教会に苦悩しておりました。教皇庁の贅沢な暮らしや、巨大な大聖堂を建てるための莫大な献金。
そして自分たちと対立する相手を『異端』とでっち上げて迫害する、異端審問の乱用……」
彼の顔には、聖教の腐敗を目の当たりにしながらも止められなかった、深い絶望と悲哀が刻まれていた。
「これらが本当に、女神様が望まれた『正しき信仰』なのかと。しかしそれを正す力がなく、ただ現状を嘆くことしかできませんでした。私は、無力でした」
「……そういえば、教団の聖典って読んだことないんだけど……最初、わたしはどこから来たことになってるの?」
教皇は目を細め、恭しく答えてくれた。
「聖典の記述によりますと、ホッホブルクの始祖の家系であるレヴィナ嬢が十六歳を迎えられた折、その魂に女神様が降臨され、一つに溶け合ったとされております」
「おっ、結構正確。だいたい合ってるね」
にっこりと笑ってうなずくと、彼は少し驚いたように目を瞬かせた。
「だいたい、ですか」
「うん。だけどね、自分から『わたしが神様だ』なんて言ったことは一度もなかったんだよ。気がついたら、周りにそう言われるようになってただけで」
当時のことを思い出しながら苦笑いをこぼす。
「だから、神様っていうのは自分から名乗るものじゃなくて、他者からの評価なんだなって思うようになったの」
彼は静かに耳を傾けている。
「偉い人っていうのは、自分で『わたしは偉い』なんて言わないでしょ? 他人からそう言われて、初めて偉い人になるものだから。神様も、きっとそんなものなのかなって」
ただ自然の理を解き明かし、懸命に生きる人たちの手助けをしたかった。
その結果として人々の感謝と畏敬が集まり、わたしという存在の輪郭が『神』として形作られていっただけだから。
彼は瞬きも忘れたかのように静かに聞き入り、やがて深く、深くうなずいた。
「……『高きを望む者は低きへ退けられ、低きに身を置く者は人々の心に高く置かれる』。まさに、その通りでございます」
「え?」
「権威を笠に着て自らを神の代理人とおごり、己の偉さを吹聴する者たちこそが真の信仰を見失う。
一方で、ただ民の安寧を願い、自ら名乗ることなく寄り添い続けた貴女様こそが、人々の心の中で真の神となられた……」
そう言って、深く頭を垂れた。
「これほど尊く、また我々聖職者にとって痛烈な教えはございません。このクレメンス、生涯肝に銘じます」
(いや、そんな大層な教訓のつもりで言ったわけじゃないんだけどな……)
相変わらずの過大評価に内心で冷や汗をかきつつ、静かな湖面を見つめたまま言葉をつなぐ。
「……だからさ。そんなことは一度も頼んでないよ」
「……え?」
「ほかに宗教があったっていいんだし、異端審問なんてバカバカしい。過剰なお金集めなんてもってのほかだよ。……望んだのは、ただ困っている人たちを助けることだけだから」
聖教数百年の前提をくつがえす言葉に、彼は弾かれたように顔を上げた。
視線を移し、少し困ったように微笑む。
「豪華な大聖堂を建てるお金があるなら……そうね。井戸を掘ったり、孤児院を支援してほしかったかな」
教皇の瞳が大きく見開かれ、やがて、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていく。
「おお……おおお……! やはり、そうであったのですね。私のような無力な老骨にも、神の真意は届いていた……。
女神様は、慈愛に満ちたお方だったのだ……!」
彼は両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣き崩れた。
「今の教会のルール」と「神の真意」の答え合わせができたことで、彼の中で長年くすぶっていた疑念が晴れたのだろう。
安堵の涙を流す彼の肩を、優しくポンポンと叩く。
「でもね、クレメンスさん」
「……はい」
「人間同士の争いや、教会の間違ったルールは、人間が自分で解決しなきゃいけないの。
神様が手を出して全部直したら、それはただの支配になっちゃうから」
「支配……」
彼が、その言葉の意味を深く噛み締めるようにつぶやく。
わたしは彼に向き直り、はっきりと告げた。
「自分たちの頭で考えて、手を取り合いなさい。それが一番のお願いよ」
その言葉が落ちた瞬間。
教皇の涙に濡れた瞳に、嵐を切り裂くような強烈な光が宿った。
「……自らの頭で考え、手を取り合う……。
人の自律。それこそが、
"Reformatio in capite et in membris"
『頭と手足における改革』
――これより聖教が取り戻すべき、改革の礎ですね」
彼は震える足で立ち上がり、深く、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。私の魂は救われました。迷いは完全に晴れました」
「よかった。……さて、お腹も空いたし、そろそろみんなを起こして朝ごはんにしよっか」
「はい。そして、その後は……奪還へ向けた『作戦会議』ですね」
彼の顔つきは、もはや「無力な老人」のそれではなかった。
自らの戦場である大聖堂へと戻り、教会の腐敗を内側から切り崩す――そんな気高い覚悟を持った、戦う教皇の顔になっている。
水面がキラキラと朝日に輝く中、わたしたちは連れ立ってパレスの中へと戻っていった。




