第25話 夕暈
「クレメンス。あなたはここに残りなさい」
「は、はい」
教会の煙突から新教皇誕生を告げる純白の煙が立ち上ると、外洋で待機していた聖教の巡視船や小舟が続々と集まってきた。
枢機卿たちは、我先にと船へと乗り移っていく。
やがて、三本の帆柱を持つ黒い船――ミストラル号がゆっくりと近づいてきた。甲板の先頭では、フリッツがこちらに向かって大きく手を振っている。
島の船着き場に横付けされると、木製の渡り板が降ろされる。わたしはクレメンス新教皇を伴い、ミストラル号の甲板へと乗り込んだ。
◇
「無事だったのはいいが、どうして聖教の偉いさんが一緒なんだ?」
甲板で出迎えたフリッツが、クレメンス教皇の法衣を見て怪訝そうに眉をひそめた。ザンクも不思議そうに首を傾げている。
「彼が新しい教皇に選ばれたのよ。詳しいことは後でね」
ひとまず島を離脱したミストラル号は、港湾都市に向けて帆を進める。
穏やかな波に揺れる船の上では、これまでの張り詰めた空気が嘘のように解け、ひと段落ついた安らぎが漂っていた。
「いやあ、島が空に浮き上がった時はどうなるかと思いましたぜ! 大渦から逃げ切れたのは奇跡だな!」
「ああ。だが、あの渦のおかげでバルバロスの大艦隊は完全に海の底だ。……ルカ、そっちはどうだった?」
フリッツの問いに、ルカは一瞬だけ、意味ありげにわたしの方へと視線を向けた。
大聖堂での奇跡を目撃した彼女だったけど、「レヴィ」として正体を隠している意図を察してくれたのか、詳細は口に出さないで小さくうなずく。
「ああ。バルバロスの息のかかった枢機卿は落選した。奴の権威は地に落ちた」
「そうか……!」
フリッツは深く安堵の息を吐き、そして、力強く水平線を見据えた。
「最大の障壁だったバルバロスと教会の関係が崩れた。ならば次は……」
話の中心は徐々にホッホブルクの情報に傾いていった。
「バルバロスは今、ホッホブルクの領地を傀儡で支配し、そこに居座っているのか」
フリッツは手すりに寄りかかり、水平線の向こうを睨みつけている。
「……俺は必ずあいつを討ち、ホッホブルクを取り戻す」
その決意に、みんな無言で力強くうなずいた。
◇フリッツ視点
夕方。オレンジ色に染まった海面を、ミストラル号は滑るように進んでいく。
「これから本格的にバルバロスと戦うにあたって、俺たちも互いに腹を割って話しておくべきだろう。
教皇様がいらっしゃることでもあるし、改めて自己紹介をさせてくれ」
俺――フリッツが真剣な顔で切り出すと、ザンクと船員たちは顔を見合わせ、静かに居住まいを正した。
まっすぐな目で、堂々と名乗る。
「俺の本当の名は、カイル・フォン・ホッホブルク。ホッホブルク公爵家の、最後の末裔だ」
その宣言に、クレメンス教皇が目を見開いた。
「おお……! なんという奇跡……。ホッホブルク公爵家の血が途絶えていなかったとは! このクレメンス、教皇の名に懸けて、全霊をもってあなたに協力することをお誓いします」
すると、彼の言葉に続くように、ザンクと野郎どもが一斉に甲板に片膝をつき、恭しく頭を下げた。
「ザンク!? お前ら……」
「若。我々も、これ以上素性を隠す必要はありませんね」
驚く俺を見上げて、ザンクが静かに、そしてまっすぐな敬意を込めて告げた。その口調は、いつもの荒くれ者とは打って変わって、洗練された騎士のものだった。
「我々は元ホッホブルク第三騎士団です。
現場仕事が多いのでお目通りしたことはございませんでしたが、城内で若をお見かけしたことがあり、もしやと思っておりました。
……確証が持てずに無礼な態度をとっておりましたこと、どうかお許しください」
「ザンクたちが、第三騎士団……。そうだったのか」
感慨深げに彼らを見つめると、ザンクはにかっと、少しだけいつもの彼らしい笑みを浮かべた。
「へへっ。まさか本当に若だったとは。これで心置きなくホッホブルクのために戦えますぜ」
静かな感動に包まれる甲板で、今度はルカが静かに一歩前に出た。
「……なら、私も明かそう」
ルカは深く被っていたフードを下ろし、マスクを外した。
夕陽に照らされてこぼれ落ちたのは、美しい赤銅色の長い髪。そこにいたのは、影のある青年ではなく、一人の凛とした少女だった。
「私の本当の名前は、ミレイユ・フォン・バルバロス。……バルバロスの娘です」
「「……えっ?」」
戸惑いに目を瞬かせる。
敵の首領の娘が、ずっと同じ船に乗り、死線を共に潜り抜けてきた仲間だったのだ。
俺たちの顔に浮かんだのは、怒りや殺意ではなく、深い困惑と混乱だった。
「どういうことだ、ルカ……いや、ミレイユ。なぜバルバロスの娘が、俺たちの船に……?」
ザンクが信じられないというように尋ねる。
「お待ちください」
クレメンス教皇が静かに俺たちの間に進み出た。
「彼女は味方です。父親の悪事を止めるために、一人で戦ってきたお方なのです。大丈夫、私が保証します」
ミレイユは逃げも隠れもせず、俺の目をまっすぐに見つめ返した。
「私は、あなたを助けたい。父の罪をこの手で終わらせるために」
その悲壮で、けれど揺るぎない真摯な瞳。
しばらくの間、無言で彼女を見つめ返していたが、小さく息を吐いて困惑を振り払うように、右手をひらひらと振った。
「……わかった。その目は、裏切る奴の目じゃない」
ミレイユの顔に初めて、年相応のほっとしたような柔らかな笑みが浮かんだ。
◇
甲板に穏やかな空気が流れる中、船の舳先に座ってニコニコとこちらを見ている女へと視線を向ける。
「……さて。あとは、この船でいちばん謎の人に、自己紹介してもらわないとな」
レヴィ。圧倒的な強さで俺を助け、ここまで導いてくれた彼女は一体何者なのか。船に青白い炎が灯ったり、島が浮き上がったのも何か関係があるのか。
すると、彼女はとんでもないことを口にした。
「――ねえカイル。わたし、あなたのお父様の最後の言葉を知っているわ」
「……どういうことだ!?」
親父の最後の言葉。確かにあの日、古びた護符を託され、俺を海へ逃がす直前、何かを叫んでいた。
……だが嵐と波の音に掻き消されて、よく聞き取れなかったのだ。
「お父様はあなたを守ったのよ」
レヴィは夕暮れの海を見つめながら、どこまでも穏やかな笑顔で言った。
「お父様が言いたかったのはね、『真なる危機のとき、ホッホブルクの守護者に助けを求めよ』。そのお守りは直系のみに伝わる護符なの」
「それが、親父の最後の言葉……。でも、どういう意味だ? 」無意識に、護符へ触れる。
「ふふっ。守護者って何か知ってる?」
「わからない……。そんなおとぎ話みたいなこと言われても……」
彼女はずっと変わらない、穏やかな微笑みを向けている。
「じゃあ、ホッホブルクの神様は?」
「女神レヴィナ様だ。そんなこと、子供だって知ってる」
「そう」
短く応えると、レヴィは帽子を取って舳先からゆっくりと立ち上がった。
夕日に茜色の日暈――夕暈がかかっている。その幻想的な光の輪を背にして、彼女は柔らかい笑顔を見せていた。
優しい海風がミストラル号の甲板を吹き抜ける。
「お父様がそれを託したから――」
結われていた銀色の三つ編みが、風に煽られてハラリとほどけていく。
海風になびく髪から光の粒子が弾け、銀色からまばゆいばかりの黄金色へと変わっていった。
海賊の服までもが光の屈折を変え、キラキラと光る神々しい純白のドレスへと変貌していく。
「――わたしが来たのよ」
その背中から、神々しい光を放つ白銀の翼が生え広がった。
「な……っ」 「嘘、だろ……」
俺も、ザンクや荒くれ者の船員たちも、目の前で起きた奇跡を前に、ただ唖然として立ち尽くす。
その横でミレイユとクレメンス教皇が静かに跪き、頭を垂れている。
穏やかな海風が、黄金の髪と白銀の翼を揺らしている。
一面の海に反射するオレンジ色の夕暈が、ミストラル号の舳先に舞い降りた『神話』の姿を、どこまでも美しく照らし出していた。
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