第20話 巨悪の犠牲者
◇ルカ視点
冷たい海水の感覚と肺を焼くような痛みに咳き込んで、オレは目を覚ました。
「ゲホッ、ゴホッ……!」
潮の香りと、ひんやりとした苔の匂い。
薄暗い視界の中で身体を起こすと、そこはゴツゴツとした岩肌に囲まれた洞窟だった。
遠くで波の音が反響している。どうやら、孤島の修道院の地下にぽっかりと開いた自然の海蝕洞に流れ着いたらしい。
ミストラル号から海へ放り出されたあと、荒波に飲まれ、無我夢中で泳いだ記憶がある。レヴィが助けに飛び込んでくれたようだが、はぐれてしまったようだ。
(心配はいらないだろうが……オレも早く合流しないと)
濡れて重くなった服の水をしぼり、オレはかすかな明かりを頼りに洞窟の奥へと足を引きずった。
岩の階段を登っていくと、やがて人工的な石造りの空間に出た。
木箱や麻袋、ワインの樽が整然と積まれている。コンクラーヴェの期間中、外部との接触を断たれた枢機卿たちのための食糧庫のようだ。
「……ちょうどいい。ここから上へ抜けられるはずだ」
息を殺して進み出ようとした、その時。
ギィィ……と、重い木扉が開く音がする。
オレはとっさに巨大なワイン樽の陰へと身を潜めた。
足音を忍ばせて入ってきたのは、地味なローブを着た若い男だった。身なりからして、枢機卿の身の回りの世話をする従者だろう。
従者は周囲を警戒するように見回した後、配膳用のテーブルに置かれた銀の盆へと近づいた。そこには、水の入ったカップが置かれているようだ。
従者は震える手を懐に入れ、小さなガラスの小瓶を取り出した。
小瓶の栓を抜き、カップへと注ぐ。
(毒か……!)
バルバロスの息のかかった者たちが、対立する枢機卿を暗殺しようとしているのだ。
母がバルバロスの手下によって無惨に殺された記憶が、頭の中でフラッシュバックする。
あの時、オレは物陰で震えていることしかできなかった。
(また、見過ごすのか……? 暗闇で、ただ震えているだけか?)
「……ふざけんな!」
オレは樽の陰から弾かれたように飛び出した。
「何をしている!」
「ひっ!?」
驚いて小瓶を取り落としそうになった従者の手首を、オレは全力で掴み上げた。
「だ、誰だお前は! はなせっ!」
「これを誰に飲ませるつもりだった! バルバロスの犬め!」
必死に振り払おうとする従者ともみ合いになる。
オレは彼の足を払い、床に押さえつけようとした。
だが相手も必死だ。ガコンッ! と、積まれていた木箱が派手な音を立てて崩れ落ちた。
「何事だ!」
その大きな物音を聞きつけ、奥の階段から一人の初老の男性が足早に下りてきた。
仕立ての良い赤い祭服。その顔には、深い知性と悲哀が刻まれている。
「ク、クレメンス枢機卿猊下……!」
顔面を蒼白にして震え上がる。
オレは相手の手首をひねり上げ、その手に握られたままの小瓶をクレメンスに見せつけた。
「こいつ、あんたに毒を盛ろうとしてたんだよ!」
クレメンス枢機卿は目を見張り、信じられないという顔で従者を見下ろした。
「……本当なのか? お前は、数日前に私の世話を命じられたばかりだというのに……」
「違っ、わ、私は! 私は……っ!」
従者はオレの手を振りほどき、床に泣き崩れた。
「……申し訳ありませんっ! バルバロスの手先に、故郷の祖父を人質に取られたのです……。
猊下を毒殺しなければ、祖父の命はないと脅されて……!」
大粒の涙をこぼし、従者は懺悔するように床へと頭をこすりつけた。
クレメンス枢機卿は痛ましそうに目を伏せる。
「……なんという卑劣な。彼らは、純朴な若者の家族まで盾にとるのか」
だが、泣き崩れていた従者はふらふらと立ち上がると、銀の盆に置かれていた毒入りのカップを自ら手に取った。
「猊下、聖教をお救いください……どうか、お許しを」
「おい、やめろ!」
オレが止める間もなく、従者はカップを一気に呷った。
カラン、と銀のカップが床に転がる。
従者は苦悶の表情を浮かべ、喉をかきむしりながら床に倒れ伏した。その身体は何度か激しく痙攣した後、二度と動かなくなった。
「ああ……なんという悲劇だ。神よ……」
クレメンス枢機卿は遺体の傍らに跪き、震える手で祈りを捧げた。
オレは唇を噛み締め、倒れた従者を見下ろす。
誰も彼も、バルバロスという巨悪の犠牲者だ。力を持たない者は、こうして理不尽に命を散らすしかない。
「……これが、バルバロスのやり口だ」
オレは静かに、だが確かな怒りを込めて言った。
クレメンス枢機卿が、悲痛な面持ちでオレを見上げる。
「見知らぬ若者よ。君はなぜ、ここにいるのだ? 命を救ってくれたことには感謝するが……」
オレはまっすぐクレメンス枢機卿の目を見すえた。
この人は確か、腐りきった聖教の中で数少ない、正しい信仰を取り戻そうと足掻いている人だ。
「オレは……いや、私は」
オレはマスクを取り払い、フードをめくって赤銅色の髪を肩に下ろした。
本来の少女としての声で、真実を告げる。
「私の本当の名前は、ミレイユ・フォン・バルバロス。……あの海運を牛耳る男の、娘です」
「なんと……! バルバロスの娘が、なぜ男装してこのような場所に?」
私は訥々と過去を話した。
父バルバロスは母の実家の財産と海運利権だけが目当てであり、財産を奪い尽くした後、用済みとなった母を事故に見せかけて手下に暗殺させたこと。
「母は事故死した」と嘘をつかれ、厄介払いのように孤児院へ入れられたこと。
十四歳の時に孤児院を抜け出し、男装をして復讐の旅を始めてから一年になること。
私の告白にクレメンス枢機卿は驚愕しながらも、決して折れない復讐の意志と覚悟を感じ取ってくれたのだろう。
彼は静かに立ち上がり、深く息を吐き出した。
「君の覚悟は本物だ。……だが、このままでは今日にも教皇選挙は決着し、聖教は完全にバルバロスの手に落ちてしまう」
クレメンス枢機卿は、床に倒れた従者の遺体と、その身を包むローブを見つめ、そして私に向き直った。
「ミレイユ殿。……君の言う『仲間』とやらが外で動いているのなら、私は内部からあの男の悪行を告発しなければならない。共に来て、証人となってくれないか?」
「証人……私が?」
「そうだ。この哀れな少年のローブをまとい、私の従者に成り代わって教皇選挙の会場へ同席してほしい。バルバロスの血を引く君の告発があれば、買収された枢機卿たちの目も覚めるかもしれない」
それは敵のど真ん中へ飛び込む、死と隣り合わせの危険な賭けだった。
でも、私が望んでいたのは、奴のすべてを奪い、その悪行を白日の下に晒すこと。
「……わかりました」
私は決意を込めてうなずき、床に倒れた従者のローブへ手を伸ばした。
(レヴィ、フリッツ、ザンク……。私は、私の戦いをする)




