↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/97

第18話 教皇選挙

◇クレメンス視点


 絶海の孤島に建てられた大修道院の礼拝堂は、潮の匂いと息が詰まるような重苦しい空気に満ちていた。


 外界との接触を完全に断たれた「鍵のかかった密室」。

 窓はすべて板で塞がれ、食事を搬入するための鉄格子のついた小窓《ハッチ》だけが、唯一外界と通じる穴。


 四十名の枢機卿たちが集うこの神聖なる空間は、初日こそ「嵐の前の静けさ」を保っていた。


 昨日の午前・午後の投票では、マイス派、王族派、そして海運ギルドを牛耳るバルバロス派が、それぞれ牽制し合うように十二票ずつを分け合った。


 私を含む穏健派の四票を合わせても、当選ラインである「三分の二以上=二十七票」には遠く及ばず、誰もが腹の探り合いを続けているように見える。


 だが、昨夜。

 外界と通じる唯一のハッチ越しに、何やら不穏な気配と、かすかな金属音が響いていたのを、私は確かに聞いた。


 コンクラーヴェの絶対の掟である「密室」など、所詮は建前に過ぎない。


 外の海に停泊する巨大なガレオン船――バルバロスから放たれた金塊の袋や土地の権利書、あるいは家族を盾にとった脅迫状。

 それがあのハッチからが密かに手渡されていたのだ。


 そして迎えた、二日目の午前。


 祭壇の前に置かれた大きな銀の杯から、集計係の枢機卿が投票用紙を一枚ずつ取り出し、大声で読み上げていく。

 その声が礼拝堂に反響するたび、私の背筋を冷たい汗が流れ落ちた。


「……ギード枢機卿に一票」

「ギード枢機卿」

「ギード枢機卿」


 読み上げられる名前の偏りは、明らかに昨日とは違っていた。

 強硬な姿勢を崩さなかったはずの王族派の枢機卿たちが、次々とバルバロス派の息がかかった候補であるギードへと票を投じているのだ。


 彼らの顔は青ざめているか、あるいは不自然に伏せられている。

 脅迫か、買収か。理由は火を見るより明らかだった。


 結果は、凄惨なものだった。

 マイス派十二票、王族派は激減して四票。我々穏健派が四票。

 そして、バルバロス派――二十票。


「な、なんということだ……」


 隣に座る穏健派の同志が、震える声で呻いた。


「たった一晩で、王族派の票を食い荒らして五割に達するとは……。悪魔め、どれだけ金と暴力を使えば、これほどまでの寝返りを打たせることができるのだ……!」


「静粛に。……まだです。当選ラインの二十七票には届いていません」


 私は必死に自分に言い聞かせるように、同志をたしなめた。


 だが、その細い希望すらも、午後の「移譲投票《アクセサス》」によって無残に打ち砕かれることとなる。


 移譲投票。それは、午前中の投票結果を見た上で「先ほど投じた自分の票を、別の候補者に移り譲ってもよい」というコンクラーヴェ特有のルール。


 バルバロス派の圧倒的な勢いと、王族派の崩壊。

 それを目の当たりにした枢機卿たちの間に、ある感情が伝染病のように広がっていくのを肌で感じた。


(このままでは間違いなく、明日の朝にはバルバロス派の教皇が誕生する。……ならば、今のうちに勝ち馬に乗って恩を売っておくべきだ)


 自らの保身と権力への執着が生み出した、あまりにも浅ましく醜い打算。


 午後の移譲投票の集計が始まった。


「私の票を、ギード枢機卿へ移譲《アクセサス》する」

「私も、ギード枢機卿へ移譲する」


 王族派の中から、次々と寝返りの声が上がる。

 財貨の誘惑ではない。強きになびき、少しでも甘い汁を吸おうとする、醜悪な手のひら返し。


 祭壇の前で読み上げられる移譲票の数は、私の心臓を直接握りつぶすような絶望感をもたらした。


「……ギード枢機卿、計二十五票」


 集計が終わり、重苦しい静寂が礼拝堂を支配する。


 決定には至らなかった。

 今日使われた投票用紙は不成立の合図として、湿った藁と共にストーブに投げ込まれ、黒く濃い煙となって煙突から外へ吐き出されていく。


 だが、状況はもはや絶望的だった。


「当選の二十七票まで……あと、たったの『二票』」


 私の口から、ひび割れた乾いた声が漏れた。


 明日の朝、三日目の投票が始まれば、バルバロス派は残るマイス派や王族派から容易く二票をもぎ取り、教皇の座を手に入れるだろう。


 そうなれば、聖教は終わりだ。


 神聖なる信仰の場は、バルバロスという冷酷な悪党の完全な私物と化し、罪なき人々を「異端」として蹂躙し、財産を奪うための道具へと完全に堕ちてしまう。


「神よ……」


 自分に割り当てられた壁際の椅子に深く沈み込みながら、ギュッと両手を組み合わせた。


「大いなるレヴィナ様。どうか、この腐りきった密室に、一筋の光を……」


 切実な祈りの声は、ストーブで燃える投票用紙の煙と共に、虚しく密室の天井へと吸い込まれていった。


 明日の朝には、聖教は悪魔の手に落ちる。

 絶望の足音がすぐそこまで迫っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。