第18話 教皇選挙
◇クレメンス視点
絶海の孤島に建てられた大修道院の礼拝堂は、潮の匂いと息が詰まるような重苦しい空気に満ちていた。
外界との接触を完全に断たれた「鍵のかかった密室」。
窓はすべて板で塞がれ、食事を搬入するための鉄格子のついた小窓だけが、唯一外界と通じる穴。
四十名の枢機卿たちが集うこの神聖なる空間は、初日こそ「嵐の前の静けさ」を保っていた。
昨日の午前・午後の投票では、マイス派、王族派、そして海運ギルドを牛耳るバルバロス派が、それぞれ牽制し合うように十二票ずつを分け合った。
私を含む穏健派の四票を合わせても、当選ラインである「三分の二以上=二十七票」には遠く及ばず、誰もが腹の探り合いを続けているように見える。
だが、昨夜。
外界と通じる唯一のハッチ越しに、何やら不穏な気配と、かすかな金属音が響いていたのを、私は確かに聞いた。
コンクラーヴェの絶対の掟である「密室」など、所詮は建前に過ぎない。
外の海に停泊する巨大なガレオン船――バルバロスから放たれた金塊の袋や土地の権利書、あるいは家族を盾にとった脅迫状。
それがあのハッチからが密かに手渡されていたのだ。
そして迎えた、二日目の午前。
祭壇の前に置かれた大きな銀の杯から、集計係の枢機卿が投票用紙を一枚ずつ取り出し、大声で読み上げていく。
その声が礼拝堂に反響するたび、私の背筋を冷たい汗が流れ落ちた。
「……ギード枢機卿に一票」
「ギード枢機卿」
「ギード枢機卿」
読み上げられる名前の偏りは、明らかに昨日とは違っていた。
強硬な姿勢を崩さなかったはずの王族派の枢機卿たちが、次々とバルバロス派の息がかかった候補であるギードへと票を投じているのだ。
彼らの顔は青ざめているか、あるいは不自然に伏せられている。
脅迫か、買収か。理由は火を見るより明らかだった。
結果は、凄惨なものだった。
マイス派十二票、王族派は激減して四票。我々穏健派が四票。
そして、バルバロス派――二十票。
「な、なんということだ……」
隣に座る穏健派の同志が、震える声で呻いた。
「たった一晩で、王族派の票を食い荒らして五割に達するとは……。悪魔め、どれだけ金と暴力を使えば、これほどまでの寝返りを打たせることができるのだ……!」
「静粛に。……まだです。当選ラインの二十七票には届いていません」
私は必死に自分に言い聞かせるように、同志をたしなめた。
だが、その細い希望すらも、午後の「移譲投票」によって無残に打ち砕かれることとなる。
移譲投票。それは、午前中の投票結果を見た上で「先ほど投じた自分の票を、別の候補者に移り譲ってもよい」というコンクラーヴェ特有のルール。
バルバロス派の圧倒的な勢いと、王族派の崩壊。
それを目の当たりにした枢機卿たちの間に、ある感情が伝染病のように広がっていくのを肌で感じた。
(このままでは間違いなく、明日の朝にはバルバロス派の教皇が誕生する。……ならば、今のうちに勝ち馬に乗って恩を売っておくべきだ)
自らの保身と権力への執着が生み出した、あまりにも浅ましく醜い打算。
午後の移譲投票の集計が始まった。
「私の票を、ギード枢機卿へ移譲する」
「私も、ギード枢機卿へ移譲する」
王族派の中から、次々と寝返りの声が上がる。
財貨の誘惑ではない。強きになびき、少しでも甘い汁を吸おうとする、醜悪な手のひら返し。
祭壇の前で読み上げられる移譲票の数は、私の心臓を直接握りつぶすような絶望感をもたらした。
「……ギード枢機卿、計二十五票」
集計が終わり、重苦しい静寂が礼拝堂を支配する。
決定には至らなかった。
今日使われた投票用紙は不成立の合図として、湿った藁と共にストーブに投げ込まれ、黒く濃い煙となって煙突から外へ吐き出されていく。
だが、状況はもはや絶望的だった。
「当選の二十七票まで……あと、たったの『二票』」
私の口から、ひび割れた乾いた声が漏れた。
明日の朝、三日目の投票が始まれば、バルバロス派は残るマイス派や王族派から容易く二票をもぎ取り、教皇の座を手に入れるだろう。
そうなれば、聖教は終わりだ。
神聖なる信仰の場は、バルバロスという冷酷な悪党の完全な私物と化し、罪なき人々を「異端」として蹂躙し、財産を奪うための道具へと完全に堕ちてしまう。
「神よ……」
自分に割り当てられた壁際の椅子に深く沈み込みながら、ギュッと両手を組み合わせた。
「大いなるレヴィナ様。どうか、この腐りきった密室に、一筋の光を……」
切実な祈りの声は、ストーブで燃える投票用紙の煙と共に、虚しく密室の天井へと吸い込まれていった。
明日の朝には、聖教は悪魔の手に落ちる。
絶望の足音がすぐそこまで迫っていた。




