第16話 欲望の競り市
付き従う若い従者が、向かいの席で窓の外に広がる強い日差しと青い海を不安げに見つめている。
シュテルンフェルスを出発した馬車は十日ほどかけて大陸を南下し、潮の香りが漂う沿岸の街道を進んでいた。
「猊下……今回の教皇選挙は、この先の港湾都市からさらに船で渡った『孤島』で行われるのですよね?」
「ああ。周囲を海に囲まれた小さな島だ。外部からの干渉や圧力を完全に遮断し、神の御声にのみ耳を傾けるため……という名目らしいがね」
私は小さく鼻を鳴らした。
完全に閉ざされた密室であれば、物理的な干渉は防げるかもしれない。だが、そこに入る者たちの心がすでに腐敗しているのだ。
どれほど強固な壁で外界と遮断しようと、どのみちその中が賄賂と脅迫のうず巻く空間になることは火を見るより明らかだった。
「……先の宿場町で、マイス派の枢機卿と少し言葉を交わしましたが」
従者が声をひそめる。
「現在、もっとも優勢なのは現王室と結託した『王族派』。そして、それに僅差で迫っているのが新興の『バルバロス派』のようです。穏健派は……」
「完全に蚊帳の外だ。彼らは我々を、決選投票の際の『移譲』のコマとしか見ていないだろうよ」
自嘲気味に息を吐き出す。
後ろ盾を亡くした我々穏健派は、権力者たちの間でゆれ動く天秤の重りにされるのが関の山だった。
せめて、療養されているホッホブルク公爵様がお元気であれば……
やがて馬車は巨大な港湾都市、ポルト・リヴァへと到着する。
活気に満ちた港の波止場。そこには私たちを待ち構えていたかのように、豪奢な服をまとった一団が並んでいた。
「よくぞお越しくださいました、クレメンス枢機卿猊下」
うやうやしく歩み出てきた男を見て、思わず眉をひそめた。
異常なまでに痩せており、背の高い男。
品の良い所作ではあるものの、落ちくぼんだ眼窩の奥にある瞳は、獲物を狙う蛇のようにギラギラと異様な光を放っている。
「海運ギルドを束ねる、バルバロスと申します」
「……あなたが」
亡き教皇猊下を毒殺したという、黒い噂の絶えない男。
バルバロスは薄い唇を吊り上げ、慇懃な笑みを浮かべた。
「神聖なる教皇選挙が無事に終わるよう、我々海運ギルドの船が全力で護衛させていただきますよ。どうか、用意した船で島までおくつろぎください」
口から出る言葉は極めて上品。しかし、男の全身から醸し出される雰囲気は――
まぎれもなく、冷酷な悪党のそれだった。
◇
港湾都市で一泊した後。バルバロス卿が手配した巨大なガレオン船に乗り込み、沖合に浮かぶ島を目指していた。
潮風の吹き抜ける甲板で、従者に教皇選挙について説く。
「選挙の期間中、投票は毎日、午前と午後の二回行われる。教皇となるには、出席者の三分の二以上の票を集めねばならない」
「では、一回の投票で決まらないことも多いのですね」
「ああ、ほとんどがそうだ。だが……午後の投票は『移譲投票』と呼ばれ、一度投じた自分の票を、別の候補者に乗り換えることが許されているのだ」
従者がハッとして息を呑んだ。
「つまり、そこで……」
「そうだ。一回目の投票で自分の派閥が不利だと悟った瞬間、
『ならば次に有力な派閥に寝返って恩を売っておこう』
『あの派閥を抱き込もう』
『相手を追い落とすために醜聞を流そう』
……といった汚い駆け引きが始まる。密室の中で、激しい裏工作が行われるのだ」
しばらく波に揺られると、やがて水平線の向こうに、端から端まで数キロほどの小さな島が姿を現す。
島の中央には、建物こそ大きめだが、古びて苔むした教会がぽつんと建っている。選挙が終わるまで、あの建物に寝泊まりしながら投票を繰り返すのだ。
だが、私の視線は教会の建物ではなく、島を取り囲むように停泊している無数の船団に向けられていた。
我々が乗っているようなガレオン船の軍艦をはじめ、さまざまな規模の帆船や豪華な商船まで。
まるで無数のアリが蜜に群がっているかのような、異様な光景。
「……見なさい。あの船の数を。すべてバルバロス派や王族派だ」
「どうしてこんな孤島の周りに、あれほど多くの船が……?」
純粋な従者の問い。
「……教会で清貧に寝泊まりし、祈りを捧げるなど、ただの建前だ。
夜になればあの豪華な船から小舟が渡り、教会の窓越しに莫大な金銀や土地の権利書が賄賂としてやり取りされるのだろう」
――重いため息をつく。
「ここは、信仰の場ではない。ただの欲望の競り市だよ」
空を覆う厚い雲が、孤島を不気味な影で包み込もうとしている。
私と従者は、重い足取りでガレオン船を降り、欲望のうず巻く密室へと向かって歩き出した。




