第15話 聖教のゆくえ
◇ホッホブルク領・シュテルンフェルス大聖堂
「クレメンス・フォン・ヴァルト枢機卿猊下。お茶をお持ちいたしました」
控えめなノックの音とともに、数日前に私の世話を命じられたばかりの若い従者が執務室へと入ってきた。
「……ありがとう。そこに置いてくれ」
窓から眼下の街を見下ろしたまま、短く応えた。
かつて女神レヴィナ様が降臨されたこの聖地は、今や大陸有数の巨大都市へと変貌を遂げている。
しかし都市の発展とは裏腹に、淀んだ空気が街を覆い尽くそうとしていた。
従者はテーブルに盆を置くと、心配そうな顔をする。
「……やはり、教皇猊下がお隠れになったことで、御心を痛めておられるのですね。公式には急なご病気とのことですが……」
「病、だと?」
自嘲気味に鼻を鳴らし、振り返る。
「……猊下の死に顔は黒く変色しておられた。海運ギルドを牛耳る『バルバロス派』による毒殺……決して、ただの噂などではないだろう」
「ど、毒殺……!」
若い従者は息を呑み、怯えたように周囲を見回した。
「長年お仕えしてきた者としては身を切られる思いだ。しかし、これが今の聖教の現実なのだよ」
窓枠に手を当て、無力感と共に強く握りしめる。
「巨大化しすぎた聖教は、いつしか信仰を騙る『ビジネス』に成り下がった。
大貴族や王族との癒着が常態化し、上に立つ者は政治の駆け引きと私腹を肥やすことにしか興味がない」
「……はい。先日、街でも『異端審問』と称して無実の商人が財産を奪われました」
従者の沈痛な言葉に、深くうなずいた。
「あれこそ最悪のシステムだ。『邪教からの改宗』などと謳っているが、実態はただの略奪に過ぎん。
都合の悪い者に異端のレッテルを貼り、合法的に財産を奪っているだけだ。……女神様がほかの宗教を弾圧するなど、あり得ないというのに」
「ええ……女神様は、民を第一に考える、気さくで優しいお方だったと伝えられています」
「ああ。亡き教皇猊下は、この目に余る腐敗がいつか神の逆鱗に触れる、と怯えておられた。そして、聖教を正そうと動かれた矢先に消されたのだ」
重苦しい沈黙が部屋を満たした。やがて、従者が祈るように両手を組み、すがるような視線を向けてきた。
「ですが、二週間後には教皇選挙があります! どうかクレメンス様が正しい信仰を……」
「そう簡単な話ではないよ」
若者の純粋な希望を打ち砕くのは酷だったが、静かに首を横に振った。
「今、聖教の上層部は三つに割れている。資金力で裏から操る『バルバロス派』、古い利権にしがみつく『マイス派』、そして王室と結託した『王族派』。
……猊下という後ろ盾を失った我々『穏健派』は、もはや無力な少数派にすぎん」
「そんな……。もし、他の派閥が勝てばどうなってしまうのですか?」
「彼らの息のかかった者が新教皇になれば、教皇座は王都へ移され、このホッホブルクはただの地方都市に没落するだろう。
奴らは、女神様が遺されたものすら壊そうとしているのだ」
「気象研究庁の方々や、精霊騎士団がもっと力を持ってくだされば……!」
「彼らも孤立させられているよ」
冷えてしまった茶のカップを見つめる。
「気象研究庁はあくまで学術機関で、政治的な力を持たない。かつてこの地を護った『精霊騎士団』の精鋭たちも、反乱を恐れた上層部によって解体、地方へ左遷されてしまった」
今、大聖堂の周囲を我が物顔で闊歩しているのは、教会の権力者たちに仕える『聖堂騎士団』というただの私兵集団だ。
「頼みの綱であるホッホブルク公爵も、半年前の事故でご子息を亡くされ、未だ面会謝絶の療養中だ。
……我々は完全に孤立しているのだよ」
私はかぶりを振って、ため息をついた。
「……下がってよい。少し一人にさせてくれ」
「はっ……失礼いたしました」
悲しげに一礼して従者が執務室を出て行くと、私は誰もいない部屋で、再び静かに祈りの言葉をこぼした。
「……猊下。どうかお守りください」
このレヴィナ聖教は、一体どこへ向かうのだろうか。




