第10話 海賊、海へ
東の空が、ほんのりと白みを帯び始めた頃。
海を覆っていた薄暗い靄が晴れていく中、俺たちの乗る『ミストラル号』は静かに波止場を離れた。
「帆を張れ! まずはメインマストの横帆からだ!」
「あいよッ! 野郎ども、ロープを引けェ!」
俺の号令に甲板長のザンクが怒鳴り声を上げ、荒くれ者の船員たちが一斉に帆綱を引く。バサァッ、という重い音を立てて巨大な帆布が広がり、冷たい海風を孕んで大きく膨らんだ。
続いて、後部のマストにミストラル号の機動力の要である三角帆が展開される。
ギリギリと船体が軋み、木材が波を切る確かな振動が足の裏から伝わってきた。
予定している作戦は、二日後にこの海域を通過するバルバロスの輸送船への襲撃。
それまでの間は、この新しい船の癖を掴むための慣らし航行と、それぞれの役割への慣れ、そしていざという時の砲撃準備に専念する時間だ。
船尾楼甲板に上がると、操舵手のルカが、太い舵柄を両手で握りしめていた。彼は時折、風の向きや波の抵抗を確かめるように舵を左右に捌き、船の反応を細かくチェックしている。
「どうだ、ルカ。ミストラルの舵の感触は」
「……悪くない。いや……最高だ」
ルカは前を向いたまま、普段の彼からは想像もつかないほど恍惚とした、熱っぽい声で答えた。
「帆のバランスがいい……思った以上に小回りが利く。これなら、商船の死角にも……いつでも潜り込めるな」
頼もしい答えにうなずき、下の甲板へ視線を移す。
大砲が並ぶ砲列甲板では、ザンクが砲門の固定具を点検している。部下たちに弾薬の運び方を叩き込んでいて忙しそうだ。
甲板上にレヴィの姿はない。
出港の直前までは、甲板の先頭に立って真剣な顔で風の向きや潮の流れを確認しているようだったが……
問題がないとわかったのか、少し前から船底にある厨房にこもっているようだ。
やがて、太陽が真上近くまで昇った頃。
「あーっ、腹減った! 姐さん、メシはまだかい!」
力仕事を終えたザンクたちが、甲板に座り込んで空腹を訴え始める。
すると、甲板のハッチから、家庭的なエプロン姿のレヴィがひょっこりと顔を出した。
「ちょうどいい頃ね。みんな、ご飯できたよー!」
その朗らかな声に釣られ、俺とザンク、それに手の空いた船員たちがぞろぞろと厨房へ降りていく。
レンガで囲まれた竈には、買ったばかりの大鍋が火にかけられている。湯気と共に、食欲を猛烈に刺激する芳醇な匂いが漂っていた。
「船出の最初のメニューは、『ハードタックと干し魚のクラムチャウダー風』よ。どうかな?」
レヴィがお玉で鍋の中身をかき混ぜながら、自信満々に笑う。
木の椀にたっぷりと注がれたそれは、とろみのある白いスープだった。中には、細かく砕かれたハードタックと、ほぐされた干し魚、それに乾燥豆が煮込まれている。
「クラムチャウ……? なんだそりゃ」
聞き慣れない料理名に首を傾げながら、俺は恐る恐るスプーンで白いスープを口に運ぶ。
口にした瞬間、目を見開いた。
「……うまっ!?」
思わず声が出る。
そのままかじれば石のように硬く、歯が折れそうになるはずのハードタック。
それがスープの旨味をたっぷりと吸い込んで、口の中でホロホロとほどけるように溶けていく。
干し魚から出た塩気と出汁が、濃厚でクリーミーなスープと完璧に絡み合い、冷えた身体の芯まで温めてくれるような、とんでもなく深く優しい味がした。
「うおおおおッ! なんだこれ、メチャクチャ美味え!」
隣でザンクが、大きな椀を両手で抱え込んでガツガツと喉に流し込んでいる。
「干し魚の臭みが全然ねえし、この白い汁……コクがあって最高じゃねえか! 船の上でこんな温けえモンが食えるなんて、オレは夢でも見てんのか!?」
他の野郎どもも、「姐さんすげえ!」「もう一杯!」と夢中で鍋に群がっている。
船の保存食といえば、虫の湧いた堅パンを水で流し込むか、塩辛いだけの肉をかじるのが当たり前。そんな彼らにとって、この味はまさに革命だった。
「ふふっ、岩塩とハーブで臭みを消して、買い込んだ油と小麦粉でとろみをつけたのよ。付け合わせに、ザワークラウトも食べてね」
レヴィはドヤ顔で、キャベツの酸っぱい漬物を小皿に取り分けていく。
濃厚なスープの合間に食べるその酸味は、驚くほど口の中をさっぱりとさせてくれた。これが病気を防ぐというのだから、言うことなしだ。
只者ではないとは思っていたが、まさかこれほど料理が上手いとは。
「たくさんあるし、もし余ったら、夜はこれを『アレンジ』するから」
「……アレンジ?」
俺が聞き返すと、レヴィは「そう、味変よ!」とウィンクしてきた。……相変わらず、時々よくわからない言葉を使う女だ。
たらふく食って完全に胃袋を掴まれた俺は、「ちょっとルカと操舵を代わってくる」と言って厨房を出た。
潮風の吹き抜ける船尾楼甲板へ上がると、ルカが一人で黙々と海を睨んでいる。
「ルカ、飯だ。レヴィがとんでもなく美味いスープを作ったぞ。冷める前に食ってこい」
「……ああ。……助かる」
ルカはボソリとつぶやいて舵柄を俺に譲ると、厨房へと静かに降りていった。
一人になった甲板で、両手でしっかりと舵柄を握りしめる。
風の動きが、帆の震えが、そして波を割って進む船の鼓動が、木製の舵を通して俺の手のひらへとダイレクトに伝わってくる。
しばらくは進路を変更する必要もなく、ただまっすぐに進むだけだ。
それでも。
自分の船の舵を握り、広大な海原を自らの意志で切り開いているという事実が、俺の胸を熱く焦がした。
ミストラル号は、太陽の光を浴びて煌めく波を蹴立てながら、力強く大海原へと進んでいった。
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