第8話 冷たくて激しい西風
◇フリッツ視点
潮の香りと、ツンと鼻を突くタールや木屑の匂い。
活気にあふれる造船所のドックで、俺は腕組みをしながら、海面に浮かぶ黒塗りの船体を見上げていた。
「おい、そこの大砲、固定を急げ! 三日以内に仕上げねえと親方に殺されるぞ!」
職人たちの怒号が飛び交う中、俺たちが手に入れた中型キャラック船は、猛スピードで武装と整備が進められている。
自分たちの船が形になっていく様を眺めていると、腹の底から高揚感が湧き上がってくるのを感じた。
「おーい、フリッツ! 待たせたな!」
背後からの声に振り返ると、ザンクが数人の屈強な男たちを引き連れて歩いてくるところだった。
いずれも日焼けした肌に無数の古傷を持つ、一筋縄ではいかない面構えの船乗りたちに見える。
「こいつらは今の海に嫌気がさして、陸に上がってた連中だ。腕は確かだから、今の仕事から引き抜いてきた」
「助かる。よろしく頼む」
ザンクが連れてきた男たちは、軽く会釈をした後、すぐに背後のドックで整備されている黒い船体へと視線が釘付けになった。
「おいおい、嘘だろ……。あんな立派なキャラベル船、どこからくすねてきやがった?」
「馬鹿野郎、買ったに決まってるだろ! 大砲の数を見ろよ、あれなら商船の護衛艦だって黙らせられるぜ!」
男たちが興奮気味に声を上げる中、ザンクも口笛を吹いて船を見上げた。
「へぇ……こいつはいい船だ。船体も頑丈そうだし、大砲の配置も申し分ねえ。これならガンナーも腕が鳴るってもんだ」
その時、脇に積まれた木箱の影から音もなく一つの影がスッと進み出てきた。
「……悪くない」
「うおっ!? お前いつの間に……」
ザンクが素っ頓狂な声を上げる。そこに立っていたのは、港の偵察に出ていた操舵手のルカだった。
彼は目深に被ったフードと白いマスクで顔の上半分を完全に隠しており、その口元だけが影の中から薄くのぞいている。
相変わらず、気配を消すのが異常に上手い男だ。
フードの奥の瞳から、船の帆柱や舵の形状を静かに見定めているらしい。
「風を受けやすい構造だ。船体のバランスもいい。……これなら、軍のガレオン船だろうが最高速でブチ抜ける」
「ルカも来たか。船は気に入ったみたいだな。あとはレヴィが……」
「待たせたわね!」
ドックの入り口から、能天気な明るい声が響く。
声のした方を見た俺は、思わず目を丸くして固まってしまった。隣にいたザンクも、「ありゃあ……」と口を半開きにしている。
そこに現れたのは、間違いなくレヴィだった。
だがその服装は闘技場にいた時のドレス姿とは似ても似つかない。
漆黒のリネンシャツは胸元が大きく開けられ、裾は腰の位置で無造作に結ばれている。
すらっとした脚のラインが際立つ暗い色のパンツに、濃い赤の革ブーツ。太い革ベルトには銀のバックルが鈍く光っていた。
何より目を引くのは、頭に被った奇妙な形の赤い帽子だった。
広いツバが三箇所で折り曲げられている。知っている限り、どこを探してもあんな異様な迫力を持つ帽子は見たことがない。
銀色の三つ編みを揺らし、腰に手を当てて意気揚々と歩いてくる彼女。その奇抜な出で立ちがやけに似合っている。
「どう、似合うかしら?」
くるりと一回転し、レヴィが得意げな笑みを浮かべる。
「あ、ああ……。なんか、すごく強そうというか……悪党っぽくなったな」
「でしょ? これから海賊をやるんだから、形から入らないとね!」
歯切れの悪い感想をほめ言葉として受け取ったのか、レヴィは満足げにうなずいた。
その背後で、荒くれ者の船乗りたちが、とまどったように顔を見合わせる。
「ザンクの兄貴から、バルバロスに喧嘩を売るイカれた奴らがいるって聞いて飛んできたんだ。だが……まさか、この姉ちゃんが俺たちの雇い主なのか?」
男が値踏みするようにレヴィを見下ろす。
次の瞬間、レヴィの雰囲気がスッと冷ややかなものに変わった。
「そうよ。わたしと、そこにいるフリッツがあの船の持ち主。……何か不満でも?」
ただ静かに見すえただけだったが、闘技場の時と同じような圧倒的なプレッシャーで周囲の空気がピンと張り詰めた。
男は一瞬で顔色を変え、あわてて首を横に振る。
「い、いや! 兄貴が惚れ込むだけのことはある……よろしく頼む、姐さん!」
「ええ、よろしくね」
レヴィが再び人なつっこい笑顔に戻ると、男たちは揃って胸を撫で下ろした。
どうやら、乗組員の統率に不安はないらしい。
◇
「さて、集まったなら今後の話をしよう。親方の話じゃ、あの船の武装と整備が終わるまで三日かかる。出航は完了した次の日の夜明けだ」
「その間に、食料や水の積み込みを済ませておく必要があるな」
ザンクの言葉にうなずき、地面に広げた古い海図の前へ全員を呼び寄せる。
「いきなり護衛艦隊を襲うのはリスクが高すぎる。最初に狙うなら、バルバロスの本拠地へ向かう中型の輸送船がいいと思う。ルカ、直近でこの海域を通る船の予定はわかるか?」
ルカの細い指が、海図の一点――バルバロスの商船が頻繁に通る重要な航路をなぞった。
「……五日後だ。バルバロスの息がかかった、教会への『特別献金』を運ぶ船がここを通る。
偽装しているが、中身は間違いなく金塊と宝飾品だ。……奴の資金源を断つには、絶好の獲物だろう」
「教会の裏金か。初めての獲物としては申し分ないな」
腹の底で、暗い炎が静かに燃え上がる。
親父の命を奪った奴らの資金源を、根こそぎ奪い取ってやる。
「決まりね。三日後に船を出し、その偽装船を待ち伏せするわ」
赤い三角帽子を被ったレヴィが楽しげに笑い、それから背後の黒い船体へと振り返った。
「ねえ、フリッツ。この船の名前、もう決めてるの?」
「いや……まだだ。レヴィが決めてくれ」
そう言うと、レヴィは風の匂いを嗅ぐように目を閉じたあと、まっすぐにこちらを見た。
「それじゃあ、『ミストラル』なんてどうかしら?」
「ミストラル……?」
聞き慣れない響きに、皆が首を傾げる。
「ええ。『冷たくて激しい西風』って意味の言葉よ。海を荒れ狂わせる猛烈な嵐の風なんだけど……
その風が吹き抜けた後には雲が全部吹き飛んで、きれいな『青空』が広がるの」
レヴィの澄んだ青い瞳が、俺をまっすぐに射抜いた。
「海運ギルドの連中を容赦なく吹き飛ばして、きれいな青空を取り戻す。……わたしたちにぴったりじゃない?」
「ミストラル……雲を吹き飛ばす、激しい西風」
口の中でその響きを転がしてみた。
派手な装飾はないが、頑丈で機動力のありそうな黒塗りの船体にその名はよく似合っている気がした。
何より、彼女の込めた意味が心に深く突き刺さる。
「いいっすね! 嵐を呼ぶ西風、いかにも海賊船っぽくて最高じゃねえか! 」
ザンクが快活に笑い、集まった荒くれ者の船乗りたちも「ミストラル号か!」「強そうな響きだぜ!」と口々に声を上げる。ルカも無言のまま、賛同するように静かにうなずいていた。
「決まりだな。今日からこの船は『ミストラル』だ」
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