第5話 黒い帆船
◇レヴィ視点
「……ガレー船はダメだ。あれは漕ぎ手が多すぎる」
潮の香りとタールの匂いが混ざり合う、活気に満ちた巨大港の造船所。
係留されている大小様々な船を眺めながら、隣を歩くフリッツがつぶやいた。
「海賊船として運用するなら、機動力は必要不可欠だ。でも、今の俺たちにはガレー船みたいな人力に頼る船に必要な数の乗組員を集められない。すぐに身動きが取れなくなる」
「なるほど……じゃあ、どんな船がいいの?」
わたしが尋ねると、フリッツは痛む右腕を庇いながらも、真剣な眼差しで船の列を見つめた。闘技場で手に入れた大金が入った重い革袋を、しっかりと左腕に抱え込んでいる。
「バルバロスの商船や護衛艦を襲うなら、ある程度の武装は必要だ。……狙うなら、大砲も積めるキャラベル船の改良型だな。機動力が抜群だし、少人数でも動かせる」
「キャラベル船?」
「ああ。三本の帆柱を持つ、外洋向けの丈夫な帆船だ。
後部の三角帆のおかげで風を掴んで小回りが利くし、小さめのサイズなら少人数でもなんとか動かせる」
なるほど、頼もしい。彼の解説を頭に入れながら、造船所をぐるりと見渡した。
「じゃあ……あの船なんてどう?」
指差したのは、ドックの隅で整備を受けている、黒塗りの頑丈そうな中型キャラベル船。
装飾は少ないけれど、大砲も乗りそうに見えるし、実用性を重視した引き締まった船体をしている。
フリッツが目を輝かせた。
「悪くない。……いや、かなりいい船だ。だが、あれは高そうだぞ」
「大丈夫よ。あの興行主が気前よく提供してくれた『軍資金』がたっぷりあるんだから」
フリッツの抱える革袋をポンと叩き、近くで職人たちに大声で指示を出していた、恰幅の良い造船所の親方のもとへ歩み寄った。
「親方。あの黒い船、売り物かしら?」
親方は汗を拭いながら振り返った。銀髪の女と、薄汚れた身なりの少年という組み合わせを見て、訝しげに眉をひそめる。
「ああん? 冷やかしなら他を当たんな。あの船は、どっかの金持ちが特注で造らせたもんだ。
そいつが急に夜逃げしちまって、代金が未払いで浮いてる厄介な代物でね。
大砲まで積める仕様になってる本格派だ、お前さんたちみたいなのが買える値段じゃねえよ」
「未払いで浮いているのなら、すぐに現金で払える客は大歓迎のはずよね」
わたしは淡々と告げ、フリッツに顎で合図をした。
フリッツが無言で親方の足元の木箱に革袋を置き、無造作に紐を解く。
ジャラッ……!
陽の光を受けて、まばゆい黄金の輝きがこぼれ落ちた。
「なっ……!?」
親方の目が見開かれ、口にくわえていた葉巻がポトリと落ちた。
「これでも足りないかしら?」
「い、いや……だが、お前さんたち、一体どうやってこんな大金を……」
「出所を詮索するのは、商売の邪魔になるんじゃない?」
冷ややかに見すえると、親方はビクッと肩を震わせ、すぐに愛想の良い商人の顔に切り替えた。
「へ、へへっ! そりゃあそうだ。金は金だ、どこの誰が出そうが関係ねえ! ……だが、大砲や弾薬、帆の予備まで揃えるとなると、これでもそんなに余らないぜ?」
「いいわ。その代わり、三日以内にすべての整備と武装の積み込みを終わらせてちょうだい。なるべく早く出航したいの」
「三日だと!? そりゃあ無茶だ、いくらなんでも人手が……」
「そう。じゃあ、他を当たるわ。フリッツ、行くわよ」
「あ、あっ、待て待て! わかった、なんとかする! 職人を総動員して、三日で完璧な状態にしてやるよ!」
親方は慌てて金貨の袋を抱え込み、必死にうなずいた。
「交渉成立ね」
わたしはフリッツの方を向き、彼にだけ見えるように小さくウィンクをした。
「……信じられないな。本当に船が手に入っちまった」
親方が職人たちを怒鳴り散らして作業を急がせているのを横目に、フリッツが呆然とつぶやいた。
◇
「そうと決まれば、契約書にサインをしないとね」
金貨の袋を抱えて落ち着かない親方を急かす。
「あ、ああ!こっちだ」
案内されて造船所の事務所に入ると、中は丸まった古い海図や工具、塗料の壺などが所狭しと積まれ、ひどく雑然としていた。
親方は机の上のガラクタを乱暴に払い除けると、引き出しから羊皮紙の契約書とインク壺、それに先がすり減った羽ペンを取り出す。
「ここに、船主になる人の署名を」
親方に促され、わたしは羽ペンをフリッツへと差し出した。
「ほら、あなたが船長になるんだから、あなたが書きなさい」
「あ、ああ……」
フリッツはまだどこか夢心地のままペンを受け取り、羊皮紙へ向かった。少し拙いながらも、しっかりとした筆致で自らの名を綴っていく。
やがて、日付の欄でペンの手が止まった。
「ええと……今年は……五百八十二年だったっけ」
「そうだ。坊主、そんな薄汚れたなりをしてるが、文字も暦もちゃんと書けるとはな。どこかで勉強したのか?」
そのつぶやきに、親方が感心したように声をかけた。フリッツは「まあな」と短く返し、ペン先にインクを足す。
(五百八十二年……?)
隣でその数字を聞き、ピクリと眉を動かした。
ホッホブルクの血を引くのだから教育を受けていて当然だけど、それよりもその『年号』が引っかかる。
わたしがパレスを作ったり、髪色を何とかしていた間に、何やら聞き慣れない暦が使われているみたい。
「ねえ、フリッツ。その五百八十二年って何の暦なの?」
「ん? お前、そんなことも知らないのか。……『レヴィナ聖歴』だよ」
……はあ?
思わず素っ頓狂な声が出そうになるのを、わたしは必死に飲み込んだ。
レヴィナ、聖、歴!?
「……それって、どういう基準の暦なの?」
顔が引きつりそうになるのを必死にこらえながら尋ねると、フリッツはペンを動かしながら当然のように答えた。
「大昔、女神レヴィナ様がとんでもない嵐から世界をお守りくださる奇跡を起こして、そのまま天へ帰られた年……それがレヴィナ聖歴一年だと、教会の司祭から習った」
「…………そう」
わたしは無表情を保ったまま、内心で頭を抱えた。
あの教会の奴ら、そんな暦を作っていたの? しかもなんだか尾ひれがついてる気がするし。
ともかく、大嵐……あのスーパーセルを吹き飛ばして迷いの森へ引きこもった年が元年(一年)ということは。
あれが確か、私が二十四、五歳の頃だったはずだから……。
(今の年号五百八十二年に、引きこもる前の年齢を足すと……実年齢、六百六歳か六百七歳ってことかぁ)
わたしはなんとも言えない複雑な感情を抱きつつ、契約書にインクが吸い込まれていくのを見つめていた。
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