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第1話 港湾都市の夕暮

「おいフリッツ、 手を休めるな! 次の荷下ろしが待ってんだぞ!」


 照りつけていた太陽が西の水平線へと傾き、海面を赤銅色に染め上げている。

 活気と欲望が渦巻く巨大港湾都市の波止場は、夕刻を迎えてなお、多くの荒くれ者たちの怒号に満ちていた。


「……ああ、わかってる」


 親方の粗野な声に短く応えた少年は、巨大なガレオン船から降ろされた重い木箱を担ぎ上げた。


 十代半ばあたりの背格好。過酷な肉体労働で鍛え上げられた精悍な上半身は衣服をまとっておらず、首元に何かのアクセサリーが革紐でぶら下がっているだけだ。


 潮風に乱れる亜麻色の髪の奥で、彼の灰色の瞳だけが周囲の様子を鋭く観察していた。


「聞いたか? 海運ギルドの奴ら、また新しい船を造ってるらしいぜ」

「こないだのガレオン船が積んでたすごい数のお宝よ、あれぜんぶ北に運んだって話だ。やばい取引って噂もある」


(……情報を集めるにはやはり港だ)


 すれ違う荷役や船乗りたちの会話を耳に挟みながら、フリッツと呼ばれた少年は黙々と木箱を運んでいた。



◇


 夜。港の裏手にある廃倉庫の地下は、むせ返るような熱気と猥雑な歓声、そして安酒と血の匂いに満ちている。

 中央に設けられた粗末なリング。そこは、行き場のない荒くれ者たちがその日の金と命を賭けて殴り合う、非合法の地下闘技場だった。


「殺せェッ! そのガキを引き裂いちまえ!」


 観客の血走った視線と怒号が飛び交う中、フリッツはリングの中央で低く身を構えていた。

 対峙しているのは、痩せぎすの身体に不気味な細い入れ墨をびっしりと刻み込んだ、狂気を孕んだ目つきの男だ。


「ヒャハハハッ! 綺麗な顔しやがって……グチャグチャに潰してやるよ!」


 男が奇声を上げ、長い腕を振り回して突進してくる。大振りで、体重の乗った殺傷力のある拳だ。


 だが、遅い。


 身体に染み付いた洗練されたステップと、この港町の喧嘩で培った実戦の勘。

 彼は上半身をわずかに逸らし、男の剛腕を紙一重でかわした。


「チィッ、ちょこまかと!」


 いら立った男が体勢を立て直すより早く、相手の踏み込みの外側へ回り込む。死角に潜り込んだ瞬間、男の脇腹のガードが完全に空いた。


(ここだ……っ!)


 回り込んだ体重移動の反発力を右の拳に集約し、下から突き上げるような強烈なカウンターフックを男の鳩尾へと叩き込む。


「ガ、ハッ……!」


 肺の空気を吐き出し、男が白目をむく。

 完全に意識を刈り取られた入れ墨の男は、糸の切れた傀儡のようにリングの床へと崩れ落ちた。


「勝者、フリッツゥゥゥッ!!」


 熱狂の歓声が地下室を揺らす中、フリッツは荒い息を吐きながら拳についた血を無造作にぬぐった。



◇


「ほらよ、今日の分だ。いい見世物だったぜ」


 胴元の男からずっしりと重い革袋を受け取った彼は、汗と血を粗末なシャツで拭ってから袖を通し、無言で闘技場を後にする。


 外に出ると、いつの間にか激しい雨が降り出していた。

 彼は用意していたボロボロのマントを深くかぶり、ひび割れた掌で革袋の重みを確かめながら、裏路地を歩き出す。


「……まだまだ、金が足りねえ……」


 雨音に紛れさせるようにつぶやく。


 暗い波止場に高く積まれた貨物の間を抜け、足早に街の方向へと急いだ。


――貨物の上から、冷酷な二つの影が彼を見下ろしていることには、まだ気づいていなかった。



◇


 入り組んだ貨物の迷路を抜け、開けた場所に出た瞬間。頭上の死角から、音もなく黒い影が二つ、鷹が舞い降りるかのごとく彼に襲いかかった。


「……っ!?」


 とっさに身をひねったものの、激しい雨でぬかるんだ地面に足を取られて無様に転倒してしまう。

 だが、泥水の中を転がりながら受け身を取り、体勢を立て直した。


「ちっ、悪運の強いガキだ」


 立ち上がった二人の男は、雨を弾く黒装束に身を包んでいる。その手にはギラリと光る暗殺用のナイフが逆手に握られていた。闘技場のゴロツキとは違う、本物の「殺し屋」の気配。


「抵抗するなよ。苦しまないようにしてやる」


 二人が左右に分かれ、同時にナイフで襲いかかってきた。

 フリッツはマントの裾を、重い泥水ごと左の男の顔へ跳ね上げる。だが、右の男の踏み込みが想定以上に速かった。


「ぐっ……!」


 殺意に満ちた鋭い刃がフリッツの右腕を深く突き刺し、引き裂く。 激痛が走り、生温かい鮮血が冷たい雨水に混じって飛び散った。


 だが歯を食いしばって堪え、すかさず右側の男の手首を掴んで捻り上げると、その勢いを利用して男の顔面に肘を叩き込んだ。


 ゴキッ、という骨の折れる鈍い音が響き、一人が血飛沫を上げて崩れ落ちる。


 しかし、右腕を負傷したことによる一瞬の体勢の崩れが命取りだった。


「もらったァッ!」


 背後に回り込んでいたもう一人に足をすくわれ、フリッツは再び泥水の中へ激しく倒れ込んだ。


 すかさず男が馬乗りになって彼を押さえつけ、殺意に満ちたナイフが首元へと迫る。


「――お前らの血族は、もう逃げられない」

「貴様……っ」


 必死に男の腕を抑え込もうとするが、切り裂かれた右腕に力が入らず、体勢も悪すぎる。刃先がじりじりと首の皮膚に食い込み、死の予感が背筋を駆け抜けた。


 その時。


 パァンッッッ!!


 すさまじい破裂音が響く。彼にのしかかっていた男の体が、まるで突風に吹き飛ばされた枯れ葉のように、真横へと勢いよく弾け飛んだ。

 男は五メートル先の木箱の山に激突し、ピクリとも動かない。


「……は?」


 首元への圧迫が消える。フリッツは呆然としたまま上体を起こした。


 男が吹き飛ばされ、めり込んだ木箱の山の前。

 深いフード付きのローブをまとった、小柄な人影が静かに佇んでいる。


「ありがとよ。……新手かい?」


 状況が読めない中、血と泥にまみれながらもよろよろと立ち上がり、すぐさま構えをとって相手を睨みつけた。


 人影はフードをバサリと取り払う。雲の切れ間から差し込んだわずかな月明かりが、その人物を照らし出す。


 そこにいたのは、夜空に浮かぶ月のような、銀色の髪を持つ美しい女性だった。


 激しい雨は、いつの間にかすっかり止んでいた。


第三章開幕です!!


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