幕間3 サイコロ勝負
潮の香りと酒の匂いが混ざって淀んでいる、薄暗い酒場。その片隅で、一人の男が頭を抱えて唸っていた。
「くそっ……! 計算盤を使えば答えは出せる。だが旧大陸の数字(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ……)では、桁が大きくなると途中の計算を書き残すだけで羊皮紙が埋まってしまう!」
学匠ロジャー。
幾何学をこよなく愛するこの博士は、テーブルに広げたぶ厚い数学書と羊皮紙を前に、真鍮定規をペシペシといら立たしげに叩いていた。
彼は今、女神が遺したとされる大気の図形や渦の構造を、実際の大気の重さと風の勢いの「数字の法則」に落とし込む作業に挑んでいる。
しかし旧大陸の数字の概念では限界があった。
だから彼は最新の数学文献を求めて、はるばる南の海を越えた知識が集まるという、この港湾都市の港町まで一人でやってきたのだ。
「おい、またお前の勝ちかよ! イカサマだろ!」
ふいに、隣のテーブルから荒っぽい怒声が上がる。
ロジャーがうっとうしそうにジト目を向けると、異国風の服を着た若い男が、船乗り相手のサイコロ博打でテーブル上の銀貨を巻き上げているところだった。
「イカサマじゃねえよ」
男は左指をテーブルの上でせわしなく滑らせている。人差し指でトントンと六つ、それをずらして中指と薬指を重ねる、奇妙な動きだった。
「自然界に存在する現象の偶然は、すべて『美しい数字』に収束する。俺にはそれが読めるだけさ」
ニヤリと笑い、テーブルにこぼれた酒へ指を浸す。そして木の板に奇妙な記号をすらすらと書き殴った。
「1、2、3……そして『0(ゼフィルム)』。九つの数字と、何もないことを表す魔法の記号だ。これを使えば、お前らのサイコロの出目なんか一瞬で計算できる」
その記号を見た瞬間。
ガタッ! と椅子が倒れるのも構わず、ロジャーは隣のテーブルへ身を乗り出す。
「お前、何者だ! ……その計算の速さ、もしや南の海を越えてきたという『南方の算法』を極めているのか!?」
真鍮定規を突きつけて叫ぶロジャー。
男の持つ木の板が視界に入り、目を見開く。
「なんだこれは……。たった十個の記号をズラすだけで、どんな巨大な数も表せるというのか!?」
ロジャーは震える手で木の板をひったくった。
「信じられん……計算盤を使わずに紙の上だけで答えが出るだけでなく、『計算の過程』までがすべてこの一枚に記録されている……!
これなら、後からいくらでも他人の計算を検証できるではないか!」
板を取り上げられた男は驚いたように目を丸くしていたが、やがて面白そうに口角を上げた。
「……学者か? 冗談キツいぜ。俺はただの商人さ。親父の呼び名から『ボナッチ』とでも呼んでくれ」
「商人だろうが何だろうが構わん! お前のその知識があれば……。頼む、私の計算を手伝ってくれ!」
「俺は商人だ。タダ働きはごめんだね。
……どうだい、学者さん。俺と『ザーラ』で勝負しないか? 三つのサイコロを振り、出目の合計を宣言して当てる。東の都市じゃあ定番の博打だ」
ロジャーの必死の懇願に、ボナッチはニヤリと笑って手元の木杯を揺らした。
「あんたが勝てば、いくらでも手伝ってやる。だが俺が勝ったら、そうだな⋯⋯あんたの持ってるその高そうな真鍮定規をいただくぜ」
「……よかろう。幾何学の徒である私に、サイコロの動きと重心の計算で挑もうとはな」
◇
――二人の天才による、異次元の博打が始まった。
ロジャーは真鍮定規を取り出し、真剣な顔でテーブルの傾斜とサイコロの重心を測りはじめる。
「木杯の振り幅、サイコロの重量、卓の傾き……すべて重学で導き出せる。私の宣言は『十四』だ!」
自信満々に木杯をひっくり返す。
だが、三つのサイコロは互いに激しくぶつかり合い、予測不能なバウンドを見せて『九』で止まった。
「なっ……馬鹿な! 計算では十四になるはずだったのに!」
「学者さん、あんたの計算は綺麗だが、『不確実の波』ってやつを分かっちゃいねえ。いくら自然哲学で計算しようが、大自然の巡り合わせは人間の手をすり抜ける」
ボナッチは木杯を受け取ると、全く力むことなく、ただ適当にサイコロを放り投げた。
「だが、その波の裏には『決まった組み合わせの数』が隠れてるのさ。サイコロを一つ増やすたびに、手前の数をずらしながら足し重ねていく……
俺の『ゼフィルムの計算』で弾き出せば、もっとも多く数が重なるのは十と十一だ」
カラカラと転がったサイコロは、ボナッチの宣言通り「三」「三」「四」の『十』でピタリと止まった。
「な……偶然だ! もう一度!」
しかし、何度やっても結果は同じだった。ロジャーの自然哲学による計算はことごとく外れ、ボナッチは出目を予測して幾度も勝った。
またしてもテーブルの上で奇妙にスライドしているボナッチの左指。
(あの指の動き……! こいつ、サイコロの物理的な軌道ではなく、ただ『数の重なりの波』を指先で追いかけているというのか!?)
「俺の勝ちだ。……さて、商売に戻るかな」
ボナッチは不敵に笑い、テーブル上の真鍮定規を引き寄せた。
「待て!」
ロジャーは自分のテーブルから羊皮紙をひったくり、ボナッチの目の前にバァン! と叩きつけた。
「定規はどうでもいい! だが、私の全財産を賭けても構わん、この図形だけは解き明かさねばならないのだ! 頼む、これを見てくれ!」
「負けず嫌いな学者だねえ。だから、俺は金にならない仕事は……」
あきれたようにため息をつきながら、ボナッチは素人が見ればただの渦巻きの落書きにしか見えないその図形を、訝しげな目で見下ろした。
だが――次の瞬間。
ボナッチの顔から余裕の笑みが消え失せ、その両目が大きく見開かれた。
「なんだ……この、美しすぎる渦は……!?」
ボナッチの身体がガタガタとふるえ始める。彼は何かに取り憑かれたように酒場のテーブルに指を走らせ、数字を猛烈な速度で書き殴り始めた。
「1、1、2、3、5、8、13、21……! 隣り合う数の比が……外へ行くほど、この螺旋の広がりと同じ値へ近づいていく!?
まさか、俺が考えていた『兎の増える数』の完璧な数列と、まったく同じ比で渦を巻いているのか!?
中心から外側へ向かう螺旋の広がりが、恐ろしいまでに『外中比』と一致している!」
「なんだと!?」
「大気は……風のうねりは! 『数字の法則』でできているのか!!」
ボナッチは歓喜のあまり発狂したように叫び、そのまま計算に没頭した。
ロジャーが構築した大気の幾何学図形と、ボナッチが操る『ゼフィルムの計算』。
二人の天才の知識がかみ合った瞬間、複雑怪奇だった大気の重さの変化と風の勢いの計算が、ウソのようにスルスルと一本の線に解きほぐされていく。
「……解けたぜ」
数分後。ボナッチが息を弾ませながら示した数字を見て、今度はロジャーの顔から血の気が引いた。
「おい……お前のこの計算が正しいなら、明日の朝、この港に『とんでもない暴風雨』が来るぞ!?」
ロジャーの叫びに、酒場の客たちがドッと吹き出した。
「おいおい、学者の旦那が頭をおかしくしたぜ! 外を見てみろ、雲ひとつない満天の星空だぞ!」
「嵐が来るなら、俺の船ごとくれてやるよ!」
荒くれ者たちが嘲笑する中、ロジャーとボナッチだけは、真剣な顔でお互いの目を見つめ合っていた。
◇
翌朝。
港町の空は真っ黒に染まり、バケツをひっくり返したような猛烈な暴風雨に包まれていた。
港に停泊していた船が波に揉まれて悲鳴を上げ、昨夜ロジャーを笑っていた船乗りたちが半泣きで荷物を固定しようと走り回っている。
酒場の窓から、その荒れ狂う嵐の光景を食い入るように見つめている二人の男がいた。
「嵐が……本当に計算通りの時間、計算通りの風の強さで来た……!」
ボナッチが、信じられないものを見るようにふるえる声でつぶやいた。
「あんたの持ってきた図形と、俺の数字があれば……神の気まぐれ(未来の天気)すら、計算で導き出せるのか……!」
「ああ。大自然の理は、図形と数字で完全に読み解ける!」
ロジャーは新しい真鍮定規を強く握りしめ、不敵な笑みを浮かべた。
ボナッチもまた、狂気に満ちた歓喜の笑みを浮かべる。
「おい、学者! あんたの持ってるその『図形』、もっと見せてくれ! 全部俺が数字にしてやる!」
「言われずともこき使ってやる! さあ、次は大気の熱と重さがどう関わっているかの計算だ!」
二人の天才は、窓を叩きつける嵐の音も忘れたように、固い握手を交わすのであった。




