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幕間2 黒板の端の神話

「……あり得ん! この地表の南風と、上空の北西風。それらを『矢の長さと交角』で表した、この幾何学の三角形が美しすぎる!」


「落ち着け、ロジャー。お前の言う図形は、風の『結果』をなぞっているに過ぎん」


 激論を交わしているのは、はるばる大聖堂の紹介状を手に他国の大学からホッホブルク気象研究所へ押しかけてきた、二人の碩学《せきがく》だった。


「この日に予報を直前で修正できたのは、ただの経験則ではない、完璧な『数理の調和』だ!」


 一人はロジャー。三十代半ばの、針のようにとがった若い学匠だ。


 その指先はつねにインクとチョークで汚れ、手にした真鍮製の定規を黒石板にペシペシと叩きつけながら、血走った目で図形をにらみつけていた。


「大気がこれほど入り乱れるには、上空と地上の『熱の差』という原因がなくてはならぬ。

 まずはこの図面が囲む『面積』を観察し、秩序を体系化するのが先だと言っているだろう」


 もう一人はアルベルト。五十代半ばの、恰幅《かっぷく》がよく威厳に満ちた大博士。


 鼻を左右から挟む鋲《びょう》留めメガネがずり落ちそうになるのを太い指先でくいっと押し上げながら、静かに大気の観察記録をめくっている。


 二人が向き合っているのは、研究所の技官たちが日々の観測データを書き殴る、古びた大きな黒石板だった。


 中央には昨日の大気の重さや風向の数字が雑に書かれているが――彼らが凝視しているのは、その右下の端っこだ。


 そこには、技官の誰かがうっかり袖でこすったような、かすれた白亜《チョーク》の跡があった。


 縦軸を「高度」、横軸を「熱」に見立て、その二つの軸の中にかすれた三本の境界線が引かれた直線図《エマグラム》。


 そして、地表の風と上空の風を「二つの矢印」で描き、その先端同士を点線で結んだ幾何学図《ホドグラフ》。


「いままでの気象論では、雲はただ冷気によって一様に凝縮するとされた。だが、この図解は違う。

……この三本の線が囲む『面積』を見ろ」


 アルベルトが、太い指先で黒石板の端をそっとなぞる。


「下の暖かな気は上へ向かい、上の冷たい気は下へ降ろうとする。この互いに場所を争う運動の大きさが『面積』として設計されているのだ」


 彼は眼鏡の奥の目を丸くし、畏敬の念を込めて図形を見つめた。


 「この面積こそが、天を衝く嵐が持つ力《エネルギー》の総量と完全に一致する。……これこそ万物の、神の秩序そのものではないか」


「いや、アルベルト先生、あなたの『分類癖』はもういい!」


 ロジャーが真鍮の定規をシャキッと振りかざし、もう一つの図――二つの矢印が交わる三角形を激しく叩く。


「問題はこの『風の三角形』だ! 地上の風と上空の風の差を、ただ二つの矢印の先端を結ぶ『第三の辺(シアー)』として幾何学的に定義している」


 ロジャーは興奮に顔を紅潮させ、早口でまくし立てた。


「この両端をむすぶ線分の長さと傾きこそが、大気がねじれて局地的に嵐の黒雲を急発達させる『天の幾何学』の正体だ!

 なぜだ……なぜ大気の気まぐれな機嫌が、定規とコンパスだけで完璧に予言されているのだ!?」


 そこへ温かいハーブティーの盆を持ったクラウス主任が、苦笑いしながら近づいてきた。


「先生方、あまりその黒石板に近づきすぎないでください。そこ、油断すると本当に袖で消えちゃうんですよ。

 念のため、技官たちには『右下の白亜《チョーク》跡は絶対に消すな』と厳しく伝えてあるのですが、なにせ普通の作業用の黒石板ですので……」


 ロジャーがクラウスの襟首を掴まんばかりの勢いで身を乗り出した。


「クラウス主任! 私は毎日、この図形のことしか考えていない! これを書いたのは、一体どこの大学の変人だ!? 王都か? それとも東の都市の隠遁者か!?」


「いえ……」


 クラウスはお茶をテーブルに置きながら、控えめだが少々誇らしげに口を開いた。


「それを書かれたのは、あの大戦の数日前、この研究所をふらりと訪れた一人のご令嬢です。

 ……まあ今となっては、我らが三導師に天候の理《ラティオ》をお授けになった、気象を司る『女神レヴィナ様』であったと判明したのですが」


――しん、と。


 研究室の空気が、まるで真空にでもなったかのように静まり返った。


 ロジャーの手から真鍮の定規が床に落ち、カラン、と乾いた金属音を立てた。

 アルベルトは押し上げていた鋲留めメガネをずり落としたまま、完全に固まっている。


「……女神、様……?」


 アルベルトの声が、かすれた。


「女神が……自ら天から降り、この安っぽい、ホコリまみれの黒石板の端に……この『幾何学の理』を書き残したというのか?」


「はい。我々の見落とし――上空の冷たい北西風の存在を、これでサラサラと指摘してくださいまして。おかげで広範囲の豪雨予測を、局地的な通り雨へと修正することができました」


 クラウスは、彼らが呆然と見つめる「かすれた幾何学図」を、愛おしそうに見つめた。


「女神様は、我々に『素晴らしい研究施設を見せてくれてありがとう』とほほえんでくださいました。そしてこの図解だけを遺して、お帰りになったのです」


 ロジャーはふらふらと黒石板に歩み寄り、その白い粉の跡を、まるで世界で最も価値のある宝石を見るような目で見つめた。


「女神よ……」


 ロジャーの目から、涙がポロポロとこぼれ落ちた。


「あなたは……私たちに聖典に記された真理だけでなく、自然の謎を解き明かす『幾何学のコンパス』を遺してくださったのですね……。

 これほど複雑な現象にまで、我々の計算がたどれる自然的原因があったのか!」


「そうだ。観察し、図形で表すこと。神は我らに、ただ答えを待つのではなく、この世界の秩序を知るための理性を授けられたのだな……」


 アルベルトもまた、大聖堂の権威に満ちたどの祭壇よりも、この「黒石板の隅の汚れた図解」から圧倒的な神の慈愛と秩序を感じ取っていた。


(――急ぎ大学に戻らねば。これこそが、トマスが目指している『信仰の真理と哲学の真理との一致』を解き明かすための、最後のかけら(ピース)に違いない)


 アルベルトの脳裏に、本国に残してきた生真面目で、思索深い愛弟子の顔がよぎる。

 彼ならこの女神の図解が持つ真の価値を誰よりも理解し、我々の新たな体系へと完璧に統合してみせるはずだ。


 観察と分類(オントロジー)を重んじる大博士・アルベルト。

 数理と幾何学(ジオメトリー)を盲信する学匠・ロジャー。


 他の大学でバチバチにやり合っていたはずの二大巨頭は、お互いの顔を見合わせると、どちらからともなくがっしりとその手を握りしめた。


「ロジャー。お前の言う『幾何学』が、神の知恵の一端を明らかにするものであったことを、私は認めよう」


「アルベルト先生……! あなたの『観察』があったからこそ、この三角形が世界の秩序として結実したのだ!」


「「おおおおお……!!」」


 最高峰の二つの頭脳が、ついに一枚の黒石板の上で完璧に融合した瞬間だった。


 二人は涙を流しながら熱く抱き合い、クラウス主任が「いや、暑苦しいので離れてください!」と止めるのも聞かず、狂ったように自身のノートへその幾何学図を書き写し始めた。


 女神はすでにここにはいない。


 しかし、彼女が気まぐれに遺した黒石板の端の「幾何学の残り香(アーティファクト)」は――


 古き権威を学ぶだけでなく、自ら観察し、測り、論証しようとする人間たちがこの世界の秩序を解き明かそうとする、偉大なる探求の種火となったのである。



本作は皆さんからの応援をエネルギーに執筆しております。

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