幕間1 必ずや
「お待たせー」
ガラスで出来たワゴンを押しながら部屋に戻ってきたケイ殿。
そこには、湯気を立てる大きな鉄鍋と、焼きたてのパンが盛られたバスケット、小さな皿には四角いバターらしきものが置かれていた。
漂ってきた香りに、思わず唾を飲み込んだ。今まで嗅いだことのない、濃厚で食欲をそそる芳醇な香り。
ケイ殿は慣れた手つきで二つの深皿にたっぷりと、何かを煮込んだ液体を注ぎ分け、テーブルに並べた。
「ビーフシチューだよ。誰かを呼ぶ予定はなかったから、あまり凝ったものはなくて。ごめんね」
「ビーフ……シチュー?」
聞き慣れない料理名に首を傾げていると、彼女はパンのバスケットを差し出した。
こんがりと焼き色がつき、外側はパリッとしていながらも、中はふんわりと柔らかそうな、とても白いパン。
「まずはバターをつけてそのまま一口食べてみて。あとはね、シチューにつけて食べるのがおすすめかな」
勧められるままにパンを手にする。びっくりするほど柔らかく、普段食べているパンとは色も硬さも段違いだ。
バターを少し塗り、口へ運ぶと、噛むほどに滑らかなバターと小麦の素朴な甘みが広がり、焼きたての香ばしさが鼻を抜ける。
……おいしい。ただのパンなのに、なぜこんなに深い味わいがあるのだろう。
次に、銀のスプーンで『シチュー』なるものを掬った。
深い褐色に輝くその汁は、とろりとした艶を放ち、すくうだけで複雑に絡み合った香草と肉の香りが立ち上ってくる。
大きく切られた肉の塊にスプーンの先を当てると、驚くべきことに、まったく力を入れていないのに雪が解けるようにホロリと崩れた。
恐る恐る口に運ぶ。
「……っ!」
瞬間、頭の芯が痺れるような衝撃が走った。
ただ肉を塩で煮込んだだけの、普段口にするような食事とは全く違う。
何種類もの野菜が溶け込み、未知の調味料と合わさって生み出される、果てしなく深くまろやかなコク。
口の中で肉の繊維がほどけると同時に、閉じ込められていた野性味あふれる旨味が溢れ出し、舌の上を完全に支配していく。
無意識のうちに、ケイ殿の勧めに従ってちぎったパンを、その褐色のソースにたっぷりと浸して口に入れた。
パリッとしたパンの皮が濃厚な汁を吸い込み、小麦の素朴な甘みと、シチューの暴力的なまでの旨味が完璧な調和となって溶け合う。
噛み締めるたびに、至福の味わいが脳を揺らした。
「これが、聖餐……。 なんという……」
言葉を失う私を見て、ケイ殿は目を細めた。
◇
夢のような至福の食事を終え、温かいハーブティーをいただいている最中だった。
四十年間ずっと大切にしまっていた『あの約束』を思い出し、口を開く。
「ケイ殿。あのゼクセン帝国との防衛戦の最中……あの夜の歌を聴かせていただけると、そう約束してくださいましたね」
「あ、あれ? たしか『機会があれば』くらいの話じゃなかったかなぁ」
「いいえ。『必ずや』とお伝えしました」
ケイ殿はため息をつき、しぶしぶ立ち上がった。隣の部屋から、かつて兵士の心を慰めたという小さな弦楽器を持ってくる。
「……じゃあ、せっかくだし外の風に当たりながらにしようか」
促されるまま、部屋に併設された広いバルコニーへ出る。眼下には、星空を映す透き通った湖が広がっていた。
ふと視線を落とし、目を見開く。
澄み切った湖の底。極熱でガラス化した大地の中に、ホッホブルクの旗がまるで永遠の時を刻む化石のように封じ込められていたのだ。
それは鏡のような湖面に反射して映るこのクリスタル・パレスの、ちょうど屋根の頂点に高々とたなびいているかのように見える位置にある。
息を呑むほど計算し尽くされた、美しい設計。
「ケイ殿、あの旗は……」
「……」
「まさか、あの死地で御手に翻っていた我々の誇りを、永遠の景色として飾られたのですか?」
ふるえる声で尋ねると、ケイ殿は少しだけ視線を泳がせ、照れくさそうに頬を掻いた。
「みんなで守り抜いた証だからね。綺麗な形で残しておきたかったの。
……まあ、最初はただ回収し忘れただけだったんだけど。どうせならって、ちょっと凝りすぎちゃった」
「なんという……」
「さ、さてと! あんまりジッと見ないでよ。恥ずかしいから! ほら、歌うから!ね!」
一人で感極まる私から逃げるように、ケイ殿はバルコニーの手すりに軽く腰掛け、そっぽを向いて静かに弦を弾き始めた。
始まったのは、優しくて、どこか切ないアルペジオだった。
紡がれる旋律は、過ぎ去った過去の温かさや、胸の奥底に居続ける大切な人たちの記憶を歌い上げるものだった。
最愛の地を守るため、ひたすらに剣を振るい続けた日々。心の支えとなっていた彼女が今、私一人のためだけに、ホッホブルクのたなびく旗を背にして歌ってくれている。
奇跡のような事実に、視界が涙でにじんだ。
だが、曲は静かなだけでは終わらない。
――劇的な転調のコードが鳴り響く。
ケイ殿が感情をぶつけるように力強く弦をかき鳴らし、思い切り感情を爆発させるように高らかに歌声を夜空へ響かせる。
穏やかな前半からは想像もつかない圧倒的な情熱。永遠の凪の中を生きる彼女の胸の奥底に秘められた、人間としての確かな『熱』だった。
やがて最後の一音が夜風に溶け、深い余韻が降りてくる。
「……はい、おしまい。もう、これで約束は果たしたからね」
ケイ殿は楽器を下ろし、少し顔を赤くしてそっぽを向いた。
その少女らしい仕草がたまらなく愛おしくて。
胸がいっぱいになりながら、深く、深く頭を下げた。
「……ええ。本当に、素晴らしいものでした。……長生きして、良かったです」
「もう、大げさなんだから」
ケイ殿は苦笑いしながらも、優しく微笑み返してくれた。
その温かい笑顔はどんな聖画よりも美しく、永遠に胸に焼き付けておきたい宝物だった。




