第29話 みんな、帰ろう
夕日の差す大赤岩には、静寂だけが残されていた。
小さく息を吐き、足元の岩肌からゆっくりと視線を下ろす。
そこには、絶望的な防衛戦を生き延び、泥と血にまみれながらも命をつないだホッホブルク軍の姿があった。
折れた槍を杖代わりにかろうじて立っている者。傷ついた仲間をかばうように抱えている者。極限の疲労と安堵で、その場にへたりこんでいる者。
満身創痍だけれど、エドマンドさんも、レオニー団長も、精霊騎士団の面々も、みんな無事だ。
岩肌をふわりと蹴って、彼らの元へと歩み寄る。
わたしの足音が近づくにつれ、彼らの間にざわめきのような緊張が走った。
「ケイ殿……いや……」
エドマンドさんがふるえる声でつぶやき、泥だらけの膝をついた。
それに続いて、レオニー団長が、精霊騎士たちが、そして周囲の兵士たちが次々と武器を置き、地に平伏していく。
彼らの目にあるのは、敵に対するそれとは違う、圧倒的な力への「畏怖」。自分たちとは異なる次元の、人智を超えた存在を見上げる瞳。
それは、あの時――二百五十年前に人間としての居場所を失った時と全く同じ、恐怖に近い感情だった。
あの時を思い出す。
結局わたしは、寂しかったんだと思う。
家族と違う砂時計。永遠の凪。
人と違う自分が怖くて、辛くて、一人が寂しくて。
今までのわたしなら、この反応にひどく傷つき、悲しみに暮れてまた森の奥へと逃げこんでいたかもしれない。
けれど今のわたしには、二百五十年の孤独を癒やしてくれた、確かなつながりがある。
あの子たちが遺してくれた知恵と想いと、家族の皆が懸命に守り、子孫たちが引き継ぎ、この時代を生きる彼らまで発展させてきた「ホッホブルク」がある。
みんなが残してくれた絆が、勇気をくれた。
だから、もう寂しくはない。
血と汗と泥にまみれて平伏する彼らの背中は、大切なものを守ろうと必死に足掻いた、かつての愛おしい仲間たちの姿そのものだった。
わたしは畏れおののく彼らの前で立ち止まると、ゆっくりと膝をそろえてちょこんと座り、同じ高さで視線を合わせる。
そして家族に向けていたような、人間としての柔らかなほほえみを浮かべた。
「みんな、帰ろう」
そのたった一言が、張り詰めていた空気を春風のように、優しく溶かしていった。
◇帰路・ホッホブルク軍
街道を、負傷者を乗せた荷馬車が列をなして進んでいく。
エドマンドは自身の乗る馬車の中で、深く息を吐き出した。
先に送った伝令たちの早馬が、勝利の報を届けている頃合いだろう。街は今頃大騒ぎになっているはずだ。
向かいの席に視線を向ける。
そこにいるのは、一万の敵軍を瞬時に消し去るという神話の奇跡を体現した、ホッホブルクの守護神。
今はただの外見相応の少女のように、窓枠に頬杖をついて穏やかに空を眺めていた。
「エドマンドさん。やるべきことは終わりましたが、まだ一つだけ気がかりなことがあるんです」
ガタゴトと車輪が鳴る中、ケイが視線を戻し、静かに口を開いた。
エドマンドは居住まいを正し、深く頭を下げる。
「大縁崖の周辺……一応の対処はしたものの、プラズマの熱と極端な冷却のせいで、土壌も生態系もボロボロになってしまいました」
ケイは困ったように眉を下げた。
「あのまま放置すれば、気象の乱れを引き起こして、いずれ領地に悪影響を及ぼしかねません。
しばらくあそこに留まって荒れた土地を回復させますから、人が立ち入らないようにしてもらえませんか?」
その言葉は、エドマンドを深く驚かせた。
あれほどの奇跡を行った直後だというのに、彼女が気にかけているのは傷ついた土地や生態の回復なのだ。
その横顔には破壊神のような恐ろしさは微塵もなく、この地を、民を愛する底知れぬ慈愛だけがあった。
彼は胸の奥から込み上げる熱いものを感じながら、深く頭を下げる。
「……何から何まで、本当に……。畏まりました。ただちにあの地を『神域』と定め、何人たりとも立ち入らぬよう厳命を下しましょう」




