第28話 鏖殺
前線から一キロほど離れた、大赤岩と呼ばれる小高い丘の上。私は父上とカリンと共に、ふるえながら高平原を凝視していた。
丘の向こうに広がるのは、完全なる絶望だった。荒涼たる高平原を黒々と埋めつくす、一万超の軍勢。
それが吐きだす土煙と殺気は、遠く離れたここにまで肌が粟立つほどの重圧となって伝わってくる。
その巨大な暴力の波の前に、たった一人で立つ者がいた。青と銀が入り交じる自称『バトルドレス』をまとい、ホッホブルクの旗を掲げたケイ殿だ。
一歩も引かぬその気高い立ち姿は、さながら『勝利を導く女神』といった様相だった。
「……無茶です。ケイ殿、いったい何を……」
隣でカリンがかすれる声で呻く。
一人対一万人。それは戦いではなく、ただの蹂躙のはずだった。
敵がケイ殿を飲みこみ、我々本隊へと雪崩れこんでくる恐怖に、私の歯の根はガチガチと鳴り続けていた。
◇
天を衝くような怒号と金属がこすれ合う殺伐とした音が、ぶ厚い壁となって迫る。
だが、風を孕んではためく旗を掲げるケイは、紫に光る冷たい眼差しを周囲に向けたあと、右手を静かに敵陣へとかざした。
掌を握りこむ。
瞬間――世界から「音」が消え去った。
否、音が消えたのではない。
一万の兵士たちが発する怒号や足音を伝えるための「媒質」――すなわち平野を満たしていた精霊たちが、一瞬にしてケイの周囲へと強制的に吸い寄せられたのだ。
敵軍を覆っていた1013ヘクトパスカルの標準大気圧は、瞬く間に6ヘクトパスカル以下へと急降下を始めた。
◇
その時、私は世界から一切の『音』が消え失せたような、異様な錯覚に陥った。
いや、空気が、風が、空間そのものが、ケイ殿に向かってものすごい速度で引きずり込まれていくのが「視えた」のだ。
「な、なんだ……!? 敵兵が……!」
突撃の姿勢のまま、敵の最前列が馬ごと次々に泥へ塗れて倒れ伏していく。
彼らは自らの喉を掻きむしり、声なき絶叫を上げているようだった。
◇
敵兵を襲った未知の恐怖。無音の空間で喉の奥の叫びが掻き消え、肺から空気が暴力的に抜き取られる。
6ヘクトパスカルという気圧は、人体における体液の沸点が体温を下回る「アームストロング限界(約63ヘクトパスカル)」すらも大きく割りこむ。
ほぼ真空にたたき落とされたことで、彼らの露出した汗、涙や唾液などが体液沸騰をはじめる。
体組織内では水蒸気が発生し、身体が異様な膨張を引き起こす。
それと同時だった。大気が急激に失われたことによる激しい断熱膨張が、ケイを取り囲む半径500メートル圏内の温度を一気にマイナス200度以下まで引き下げる。
三重点を下回る絶対的な低圧と極低温により、気化した体液は氷晶へと凝華する。
敵兵の身体から吹き出した水蒸気が急冷され、微細な氷晶――死のダイヤモンドダストとなって無音の地獄に降り注いだ。
◇
真夏のような日差しが降り注いでいたはずの平野に、すさまじい速度で真っ白な波が広がった。
倒れ伏す兵士たちの身体を、大地を、白い氷晶が覆っていく。
「ひっ……! こんなこと、あり得ない!」
頭を抱えて悲鳴を上げるカリン。だが、恐怖はそれだけでは終わらなかった。
◇
敵軍から大気を根こそぎ奪い取ったケイの周囲は、まったく別の悪夢のような様相を呈していた。
本来なら半径500メートル、高さ100メートルの円柱状に存在していた約8000万立方メートルもの莫大な大気が、直径40メートルの球状空間に超高密度で圧縮されていたのだ。
極限まで押しつぶされた大気の圧力は数万気圧に達し、励起された内部エネルギーが太陽の表面温度と同等の6000度を突破。
球状空間は、青白く発光した巨大なプラズマの檻へと変貌する。
その巨大な光の底に立つケイは、自身の周囲にごく薄く「精霊の運動を強制停止させる精霊式」を張りめぐらせることで、髪一本焦がすことなく立っていた。
約5000万ヘクトパスカルの超高圧と、6ヘクトパスカルの真空。
両者の間に生まれた絶望的なまでの気圧差――さらには「マクスウェルの悪魔」の熱交換よろしく、精霊式で奪い取った熱運動エネルギーを一方向への強烈な推進力へと変換して叩きこみ、ケイは握ったままの拳を開き――
敵陣へと解き放った。
◇
凍てつく無音の地獄の中心で、ケイ殿から巨大な「光球」が顕現した。
青白く、おぞましいほどの輝きを放つ死の太陽。
それが現れた瞬間、私の全身の細胞が警鐘を鳴らした。
致死の危機。逃げろ。今すぐこの場から離れろ、と。
「伏せろォッ!!」
父上が叫び、私が地面に顔を押し付けたのと、世界が真っ白に染まったのは同時だった。
◇
――ドォォォォォォォォンッ!!
世界の終わりを思わせる轟音。
一方向に凝縮された6000度の巨大なプラズマの奔流が敵陣へ放たれ、マイナス200度の真空の底へとなだれ込む。
生み出されたのは、音速の10倍――秒速3400メートルを超える白熱した極超音速の噴流と、その先端に形成された暴虐の物理衝撃波だった。
マイナス200度の希薄大気と氷晶に覆われていた一万の軍勢が、その不可視の断頭台に触れた瞬間。
超音速の烈風に粉々に砕かれ、直後に襲い来る熱風によって肉片すらも一瞬で炭化し、蒸発していく。
ただ圧倒的なエネルギーの解放が、平野を蹂躙した。
◇
大地を粉砕するような轟音と、全身の骨を軋ませるほどの衝撃。離れているこの丘でさえ、私たちの身体は木の葉のように宙に舞い、地面に叩きつけられた。
「がはっ……、ごほっ……! な、何が……」
耳鳴りが止まない中、泥だらけになりながら這いずって状況を確認しようとする。
ほんの数秒の出来事だった。
爆風が通り過ぎた世界には、赤黒く淀んだ暗褐色の空が広がっている。
再び高平原を見下ろした私の思考は、完全に停止した。
いない。
平原を埋めつくしていた黒い波が。馬の死骸も、折れた槍も、何一つ残っていない。
そこにあったのは、超高熱によってドロドロに融解し、不気味な赤黒い光を放ちながらガラス化した巨大なすり鉢状の大穴だけだった。
外周部には白い氷の帯が不気味な輪を描いており、この世のものとは思えない地獄の光景を創り出している。
冷静なはずのカリンは完全に正気を失い、涙を流しながら祈りの言葉を繰り返したのち、意識を失った。
私もその場にへたり込み、大穴の中心で巻き上がる風に旗をたなびかせている、ケイ殿の姿を見つめることしかできなかった。
「父上……あれは……、いったい……」
ふるえる声でたずねる私に、父上は極熱の残り香がただよう高平原を静かに見つめたまま、厳かに口を開いた。
「私がホッホブルクの守護者の伝承に基づき、迷いの森の奥深くへ向かったことを覚えているか。そしてあの方に出会い、我が城へお連れしたのだ」
「……はい。お連れした当初、あの方は確か……」
私の脳裏に、初めてお会いしたときの彼女の笑顔がよみがえる。
『愛称でヴィナと呼ばれていたこともあるわ』、と。
父上は振り返り、泥にまみれた私をまっすぐに見すえた。
「あの方は私に、自らを『ケイ』と名乗られた。……我がホッホブルクの主神がどなたか、知っているな?」
「……はい。天候と豊穣の女神、レヴィナ様です」
「ホッホブルクの直系にのみ代々口伝される、絶対の秘密がある。よい機会だ、次代を担うお前にも伝えておこう」
「……『ケイ』とは、女神様の生まれ育った世界での……真名なのだ」
「え……」
「屋敷の宝物庫の奥深くに、二百年以上保管されている肖像画がある。……今のケイ殿と、寸分違わぬ絵姿であった」
――心臓が、大きく跳ねた。
バラバラだった符合が、一つの巨大な真実として結びつく。
『ヴィナ』という愛称。三導師への慈愛のこもった眼差し。『吹き抜ける風の軌跡の意匠』の髪留め。気象予測。白銀の翼。人知を超えた圧倒的な力。宝物庫の肖像画。そして、真名。
ケイ殿は、神の御使いなどではなかった。
私たちの信仰する、神そのものだったのだ。
気づけば、私は泥だらけの地面に深く跪いていた。頭を垂れ、ふるえる両手を胸の前で固く握り合わせる。
神の降臨。
極限の恐怖は、すでに魂の底からわき上がるような絶対なる畏怖へと変わっていた。
「語り継げ」
父上は、眼下の大穴に佇むあのお方――女神レヴィナの姿を、万感の思いをこめて見下ろしながら言った。
「我々は今、神話を目撃しているのだ」
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