第26話 白銀の翼
「辺境伯! 事前の打ち合わせ通りに!」
戦場の喧騒に負けないよう大声を張り上げる。
「前方に見える『大赤岩』まで後退! 全軍、ただちにあの赤い岩肌まで走って!」
エドマンドさんが血にまみれた剣を振りかざし、大きくうなずく。それを合図に、ボロボロになったホッホブルク軍の悲壮な撤退戦が始まった。
崖を登りきった重装歩兵たちは、ひしゃげた盾を引きずりながらゆっくりと地面を踏みしめてこちらへ歩を進めてくる。
その左右の谷からは、軽装の騎士たちがアリの群れのようにわき出し続けていた。
「急げ! 振り返るな、前だけを見て走れ!」
殿を務めるレオニー団長の怒号が飛ぶ。
でも、退けと言われてすぐに動けるほど、兵たちの体には力が残っていなかった。二日半もの間、極限状態での戦いを強いられていたのだから。
足がおぼつかずに硬い岩の上に倒れこむ者、自分の足で歩けず仲間に肩を貸してもらう者。
無理をかさねてきた馬たちも限界を迎え、口から泡を吹いて次々とその場に崩れ落ちる。
本陣の兵や精霊騎士たちも、満身創痍だった。迫り来る敵をなんとか押し返し、傷を負いながらも少しずつ後退していく。
その最後尾で、馬上のレオニー団長は鬼神のごとく剣を振るい続けていた。彼女のすぐ近くでは、セリアさんが団長の死角をカバーしながら、撤退を援護している。
一方、わたしはレオニー団長とは逆側の右翼で、クロエさんやイルザさんたち軽騎兵隊の撤退を助けていた。
戦況は、敵も味方も極限まで消耗しきった、文字通りの泥沼状態だった。
「はあ、はあ……」
疲れきった声とともに、ミーナさんが体勢を崩して片膝をつく。柄頭に蝶の紋章が入った愛剣を杖がわりに、なんとか立ち上がろうとする。
体力自慢の彼女でも、ずっと戦い続けて身体が限界をむかえていることは明らかだった。
そこへ崖を登ってきたばかりの重装歩兵が迫る。巨大なウォーハンマーがゆらりと振り上げられた。
下敷きになれば、まちがいなく命はない。
「ミーナさん!」
馬上から身を乗り出し、重装歩兵へ渾身の突きを叩きこむ。
間一髪で横っ腹に命中する。重たい金属音が響き、鋼の鎧に包まれた敵は土ぼこりを上げて横倒しに転がっていった。
「立てますか! ここで止まれば死にますよ!」
「……! 恩に着ます、ケイ殿!」
ミーナさんは折れかけた心をつなぎ止め、精神力だけでなんとか立ち上がると、再び本隊を追って撤退していった。
彼女の背中を見送りながら、馬上から槍で周囲の敵を牽制し続ける。
◇大縁崖・ホッホブルク軍 中央
最後尾で敵を食い止めていたレオニー団長は、セリア副官が無事に本隊へ合流すべく下がっていったのを確認し、ようやく馬首を返そうとしていた。
だが、限界は唐突に訪れる。
「――っ!?」
悲鳴のような嘶きとともに、乗騎が口から大量の泡を吹き、前脚から崩れ落ちたのだ。
もんどりうって硬い地面へ投げ出されるレオニー団長。
(しまった……っ!)
受け身を取る間もなく叩きつけられた。
左腕に構えていた誇り高い赤き盾が、無惨にも弾き飛ばされて泥の中に転がっていく。
打ち所が悪かったのか、身体がしびれて動かない。
彼女の上に、巨大な盾を持った二人の重装歩兵が、押さえつけるようによろよろと倒れこんでくる。
動けない。
ぶ厚い鋼鉄の塊が、完全に彼女の自由を奪う。
ただでさえ全身の筋肉が悲鳴を上げているうえに、落馬の衝撃と、大の男二人の重装備の下敷きになっている。
鍛え抜かれたレオニー団長であっても身動き一つ取れなかった。
そこへ剣を引きずりながら、薄汚れた皮鎧を着た帝国騎士が現れた。感情をなくしたような顔でふらふらと歩みよる。
高く振り上げられる、血塗られた長剣。
(死ぬ……ここで、殺される……!)
無敵を誇った精霊騎士団長の顔が、生まれて初めて恐怖に引きつった。
身をよじるが、重装歩兵の重みがずしりとのしかかっている。指一本動かせない。
凶刃が鈍く光る。
意識がぼんやりとした瞬間、
ふいに、今までのことが脳裏を流れた。
幼き日のこと。精霊騎士になったときのこと。
団長になったあとの、過酷だが充実した日々。
厳しくも優しい父上。騎士団の面々。ケイ殿。
……ああ、そうだ。ケイ殿の歌を聴いてみたかった。
歌のことなどさっぱりわからないが、あいつらが褒めていたのだから、素晴らしいものなのだろう。
本人は気乗りがしないようだった……が……
……
……
……あれ?
あのとき、ケイ殿がなにか言っていたような。
いつか聞いた少女のやわらかな声が蘇った。
『――もし戦場で危険に陥ったら、わたしの名前を呼んでくださいね』
半開きになっていた目が、大きく開いた。
すがるような思いで、彼女は叫んだ。
「ケイ殿ぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!」
――風が、吹きぬけた。
◇大縁崖・ホッホブルク軍 右翼
その悲痛な叫びは戦場の喧騒を突き抜け、右翼にいるわたしの耳へ確かに届いた。
「……レオニー団長!!」
視線をするどく巡らせた先。敵の剣が今まさに振り下ろされようとしているレオニー団長の姿が瞳に映る。
間に合わない。走って届く距離じゃない。
わたしは迷うことなく、硬い鞍を水泳のターンのように思いきり蹴り放ち、団長の方向へ弾かれたバネのごとく飛び出した。
『精霊式』
『飛行ッ!』
直後、背中からまばゆい光を放つ翼が勢いよく広がる。
「とどけえぇぇぇぇぇッ!」
一条の白い軌跡を残しながら、わたしは弾丸のごとくレオニー団長のもとへ突進した。
◇大縁崖・ホッホブルク軍 本隊
その叫びは、退却中のホッホブルク軍にも届いた。
「 !!! 」
撤退していたセリアが、カリンが、ミーナが、エレナが、フレイヤが、精霊騎士の皆が、エドマンド辺境伯が。
振りむき、その光景を目にして顔面蒼白になる。
――時間が引き延ばされたような感覚。
敵の肘が上がる、剣が鈍く光る。
やめろ。声が出ない。音が聞こえない。
心音だけが、やけにうるさく聞こえる。
遠い。走っても間に合わない。
セリアは身体を投げ出すように手を伸ばしていた。
薄汚れた騎士の剣が振り下ろされる。
やめてくれ。だれか。
――刹那。
白銀の突風が帝国騎士を吹きぬけた。
立ちこめる白い霧。
霧が晴れる。
セリアは目を見ひらき、声を失った。
そこには、団長を横抱きにしたケイが立っていた。
白銀の翼を煌めかせながら。




