↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/97

第25話 決壊

◇ケイ視点


 三日目の朝。大縁崖には、肌を刺すような冷たい風が吹きぬけていた。


 わたしは崖の縁に立ち、眼下に広がる薄暗い谷底をじっと見つめていた。

 昨日までであれば、夜明けと同時に無策な突撃が始まり、下から怒号と悲鳴が響いてきたはずだ。

 しかし今日、ゼクセン帝国軍の陣地からは奇妙なほど兵が押し寄せてこない。


「……来ない。どういうことだ?」


 かたわらに立つ武官が、いらだちと不安のまじった声でつぶやく。エドマンドさんも腕を組み、険しい表情で崖下をにらみつけていた。


「不気味ですね。昨日あれほどの犠牲を出したのです、さすがにこりて撤退の準備でもしているのでしょうか……」


「いや、あの将軍がそんなに簡単に引き下がるとは思えない。なにか、とてつもなくイヤな予感がする……」


 重くるしい沈黙が本陣を包む。誰もが息をひそめ、崖下の暗がりを注視していた。


 その予感は、まもなく最悪の形で的中することになる。


 朝もやの向こう、大峡谷の底から金属がこすれ合うような重く鈍い音が響きはじめた。

 地響きとともにゆっくりと姿を現したのは、昨日までの無謀な突撃兵たちとは全く異なる集団だった。


「なんだ……あれは。盾……か?」


 エドマンドさんが絶句する。

 それは、巨大な大盾を天高くかまえ、頭上を完全に覆いかくした重装歩兵の大軍だった。

 何千という兵士が隙間なく密集陣形を組み、まるで巨大な鋼の甲羅のごとく大峡谷を埋めつくしている。


 彼らは声を上げることもなく、不気味なほどの沈黙を保ったまま、ゆっくりと斜面を登りはじめていた。


「あんな密集陣形で登ってくるとは……! 弓は効かん、丸太と岩を用意しろ!」


 レオニー団長の指示が飛ぶ。


 異様な光景から目を離せなくなっていたとき。

 重装備でけわしい崖を登る過酷さに耐えきれなかったのか、先頭を歩いていた十数人が突如として足をもつれさせて重い盾ごと倒れた。


 そのまま後続を足止めするかと思われた、次の瞬間。信じられない光景を目の当たりにする。


「なっ……あいつら、正気か!?」


 後続の重装歩兵たちは、倒れた味方を助けおこすことも、避けることすらもしなかった。


 うめき声を上げる味方の背中を、顔面を、重い軍靴で容赦なくふみつけ、文字通り「生きた踏み石」にして登りつづけてきたのだ。


 血ヘドを吐きながらつぶされていく味方を意に介さず、ただ前へ、前へとうごめく鋼の群れ。


「味方を……踏みつぶして進んでいるというのか……!」


 レオニー団長が戦慄に声をふるわせ、精霊騎士団の面々もあまりの狂気に青ざめた顔をしている。


 目的達成のためなら敵味方問わず死地へ追いやる敵将のどす黒い殺意が、崖の上までひしひしと伝わってきた。


 重装歩兵の歩みは恐ろしく緩やかだった。


 だから崖上では迎撃の準備をととのえる猶予があったけれど、こちらの陣営はすでに深刻な問題を抱えていた。


「ケイさん、もう射る矢がありません! 残っているのは折れた矢柄だけです!」


 弓兵を率いるディアンさんが、カラになった矢筒を見て悲痛な声を上げる。

 

 悲鳴を上げているのは弓兵だけではなかった。


 前線の兵士たちからは「剣の刃がこぼれて肉を斬れない」「槍の柄がゆがんで、突いてもはじかれる」といった報告が次々と上がってきている。


 二日間の激戦で酷使された武器は、もう使い物にならなくなっていた。


 何より深刻なのは、彼ら自身の肉体だ。

 休息を取らせたとはいえ、蓄積された疲労は限界をとうに超えている。


「矢がないなら岩を落とせ! 丸太を転がすんだ! 絶対に上へあげるな!」


 遊撃本隊の兵たちが、力をふりしぼって丸太や大岩を大峡谷へ向けて次々と蹴り落とす。

 巨大な質量が盾ごと重装歩兵をたたきつぶし、谷底には大量の死体が積み上がっていく。


 かなりの数を討ちとっているはずだった。しかし、彼らは死体の山を乗りこえ、じりじりと、確実に崖上への距離をつめてくる。


 その時だった。


――ピイィィィィッ!!


 戦場に、東の中規模の谷からエレナさんの悲痛な笛の音が響きわたった。


「報告します! 東の谷より敵襲、軽装の兵団です! その数、およそ五千!」


「なんだと!? 軽装……ゼクセンの誇る重装甲を捨てさせたというのか!」


 レオニー団長が顔を引きつらせる。エドマンドさんは血の気の引いた顔で、即座に状況を分析している。


 大峡谷の重装歩兵は動きこそ鈍いが、岩を落とし続けなければたちまち崖を登りきられてしまう。遊撃本隊は完全に大峡谷にクギ付けにされていた。


「くそっ……! 重装歩兵を無視するわけにはいかん。だが、軽装の部隊を放置すれば背後を突かれる。

 ……やむを得ん、部隊を分けるぞ!」


 エドマンドさんの苦渋の決断だった。これまで「局地的な数的有利」を作ることで一万の敵を退けてきたホッホブルクの部隊が、ここへ来て初めて引きさかれることになった。


「東の谷は私がもらう! 本隊の千騎を連れて、奴らが崖上に顔を出した瞬間にたたき落とす!」


 レオニー団長が声を張り上げ、東の谷へと疾走していく。防具を持たない軽装兵は、馬の蹴りや槍の一撃でたやすく命を散らしていった。


 しかし、相手の数が多すぎた。いくら倒してもアリの群れのように次から次へと斜面を這い上がってくる敵の波は、いっこうに減る気配を見せない。


――ピイィィィィッ!!


 無情にも、今度は西の谷筋から笛の音が鳴り響いた。


「西の谷からも敵兵! 同じく軽装、数は五千!」

「西だと……!? まだそんな兵力が残っていたのか!」


 絶望的な報告に、本陣の空気が凍りつく。これ以上レオニー団長に負担はかけられない。本隊も大峡谷の重装歩兵への対応で一歩も動けなかった。


「……わたしが行きます!」


 声を上げて、本隊から五百の兵を借りうける。それに西側で目を光らせていたクロエさんやイルザさんが率いる軽騎兵隊四百を合流させ、合計九百の部隊を編成して西の谷へと急いだ。


 そこからの戦いは、まさに泥沼だった。


 西の谷に到着したわたしは最前線で剣を掲げて、声を枯らして味方を鼓舞した。


「陣形を崩すな! 狭い崖道を上がってくる敵を確実に突け!」


 上からという地の利を活かし、すでに千人近い敵を谷底へたたき落としたはずだった。

 だけど重い防具を捨てて身軽になり、死に物ぐるいで這い上がってくる敵の圧力はすさまじい。


 こちらの防衛線は少しずつ削られ、いまにも決壊しそうだった。


「ケイ殿! 左翼が押しこまれています! もう……兵たちの体力がもちません!」


 顔の半分を血で染めたイルザさんが悲痛な叫びを上げる。

 目の前で疲労がピークに達した軽騎兵や騎士たちが、次々と敵の凶刃に倒れていく。


「押し返せ!  絶対に上にあげないで!」

 喉が張りさけんばかりに叫ぶけれど、状況は好転しない。


 また一人、味方の軽騎兵が力つきて泥に倒れこんだ。


――大峡谷。

「支えろ! 岩を落とせ!」

 エドマンドさんの怒号がむなしく響く。兵士が振り下ろした剣はにぶい音を立てて根元から折れた。

 ぶ厚い甲羅をかぶった重装歩兵たちが、無表情のまま、一歩、また一歩と崖上へとその重い足を踏み入れていく。


――東の谷。

「ここは通さん!」

 レオニー団長が馬上で剣を振るう。しかし敵の軽装兵たちは死体の山を乗りこえ、彼女の馬の脚にすがりつこうと無数の手を伸ばしてくる。

 馬の嘶《いなな》きが悲鳴のようにとどろいた。


――そして。

 三つの谷が同時に限界を迎えた、その時。


「大峡谷、突破されましたッッ!!!」


 伝令の絶叫が、戦場の喧騒を切り裂いた。


 見れば、本隊の防衛線を力まかせに食いやぶり、ひしゃげた大盾を持った血まみれの重装歩兵たちが、次々と大縁崖の上にその重厚な姿を現しはじめていた。


「東の谷も抜かれました! レオニー団長の防衛線が突破されました!」


 時を同じくして、レオニー団長が守る東の谷からも軽装兵たちが崖上へとなだれこんでくるのが見えた。


(……ここまでだ)


 血を吐くような思いで両手を強く握りしめ、冷たい汗が背中を流れるのを感じながら大きく息を吸いこんだ。ここで意地を張れば、残された味方は全滅する。


「全軍、後退!! 崖を放棄します! 本陣まで撤退しなさい!!」


 わたしの声が、悲劇のような響きをもって戦場にこだまする。


 三日目の昼。ホッホブルク軍は大縁崖という最大の防衛線をゼクセン帝国軍に明け渡し、泥と血にまみれた絶望の撤退戦を開始した。


 重装甲を捨てるという狂気の分断戦術を用いたゴラン将軍の執念が、防衛線を完全に粉砕したのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。