第24話 ゼクセン帝国軍本陣
◇ゼクセン帝国軍・本陣
日が完全に落ち、大縁崖が黒々とした絶望の壁となって闇に沈むころ。
ゼクセン帝国軍の本陣に張られた天幕の中は、重苦しい沈黙と血のにおいに包まれていた。
「申し上げます……っ!」
天幕にかけ込んできた士官の顔は、松明に照らされてなお蒼白だった。その声はかすかにふるえている。
「第四、第五、および第六部隊、事実上の全滅! 各谷からの撤退は完了しましたが……生還できた者はごくわずかです!」
天幕の外からは、負傷兵たちの絶えまないうめき声がもれ聞こえ、冷たい夜風がむせ返るような血と汚物のにおいを運んでくる。
天幕の中、ゆれるロウソクの炎がゴラン将軍の横顔を照らしだしていた。
「――本日の被害報告を申し上げます」
副官が、ふるえる手で羊皮紙を広げた。その顔は恐怖と疲労、そしてぬぐいきれない屈辱で蒼白に染まっている。
「死者、および行方不明者は約三千。さらに重傷者および恐怖により戦意を喪失した者、約二千。
我が軍はこの二日で、全軍の三分の一にあたる約一万の兵を失いました。
……対して、崖上のホッホブルク軍の損害はきわめて軽く、死傷者合わせても、わ、わずか百名ほどと思われ......」
幕僚たちの間に、絶望にまみれたざわめきが走った。
一万対百。それはもはや戦闘ですらなく、ただの一方的な屠殺であった。
ガシャンッ!!
突如、耳をつんざく破壊音が響いた。ゴラン将軍の手から力まかせに放たれた純銀の杯が天幕の支柱に叩きつけられ、無残にひしゃげて転がったのだ。
「一万だと……ッ!? あの小ざかしい田舎貴族の総兵力が五千! 対する我らが、倍の兵を一方的にけずり取られたと言うのか!!」
顔を朱に染め、額に青筋を浮かべて怒りくるう将軍に、幕僚たちは肩をびくんとふるわせ、一様に首をすくめた。
「しかも敵の被害は百名!? こちらがひきつぶすはずが、手玉にとられて泥を塗られたではないか! 帝国の恥さらしめがッ!」
机を蹴り飛ばさんばかりの怒気に、天幕の空気は凍りつく。圧倒的な物量と采配を完璧に叩きつぶされて、ゴランのプライドはずたずたになっていた。
荒い息を吐きながら、ゴランは血ばしった目で机上の地形図をにらみつける。やがて、その煮えたぎる怒りは、冷酷でどす黒い殺意へと形を変えていった。
「……次なる作戦を伝える。兵力二万のうち、一万を大峡谷へ向かわせろ」
「い、一万!? あのような狭い道に、それほどの大軍を一度に押し込めば、今日以上の将棋倒しが……」
「だまって聞け! 大峡谷へむかう部隊には全員に大盾を持たせよ。頭上を完全に覆いかくす密集陣形を組ませ、巨大な甲羅となって進ませるのだ。上から岩が降ろうが矢が降ろうが、這ってでも進めと伝えろ」
ゴランの太い指が、地形図の『大縁崖』をなぞり、大峡谷から左右にそれぞれ離れた、中規模の谷ふたつへと移動する。
「そして残る一万は、こちらとこちらの谷へ五千づつだ。この部隊は、すべての重甲冑をはずせ。金属音を鳴らさぬよう、革鎧のみで登らせるのだ」
幕僚たちの間にざわめきが走った。ゼクセン帝国の誇りであるぶ厚い重装甲を捨てさせるなど、ありえない命令だったからだ。
「敵はたかだか五千。一万のぶ厚い軍勢が大峡谷から這い上がってくれば、奴らはかならず全戦力をそそぎ込む。その裏で、軽装となった精鋭たちが静かに、かつ同時に谷を登りきり、敵の背後をとる。これが次の一手だ」
理にかなった、冷徹きわまりない分断戦術。しかし、問題は「おとり」となる一万の部隊である。
副官が、引きつった顔で口をひらいた。
「……将軍。今日あれほどの地獄を見せられ、敵に傷を負わせられなかったと知っている兵たちです。
いくら盾を持たせようとも、すなおに大峡谷へ足を踏み入れるでしょうか。死地に向かえと言うも同然です」
ゴランの目から、わずかに残っていた人間らしい怒りすら消え失せて、底しれない残酷な光だけが残った。
「だからこそ、軍律という名の鎖でしばり上げるのだ。大峡谷へ向かう一万の殿に、我が直属の督戦隊を配せ」
ゴランは軍刀の柄に手をかけ、幕僚たちを見すえて冷酷に命じた。
「前進をためらう者、足をとめる者、そして少しでもうしろへ退こうとする者は、階級を問わずその場で首をはねろ。
『進めば生き残れるやもしれんが、退けば確実に味方に殺される』。その逃げ場のない絶望を、兵どもに骨の髄まで叩き込め」
天幕の中は、水を打ったような静寂に包まれた。
それは、敵の刃よりも味方からの処刑を恐れさせるという、まさに悪魔の采配。
将軍の胸にあるのは失った兵への哀悼ではなく、己の顔に泥をぬったホッホブルク軍へのすさまじい憎悪だけだ。
「兵どもの悲鳴など、崖を登るための踏み石にすぎん。ホッホブルクの防衛線など、我が軍の巨大なアギトで完全に食い破ってくれる」
ゴランの低くしゃがれた声だけが、不気味に響きわたった。




