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桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第1章「孤星、輝く」

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9/11

第9話「隼という男」

 六月の体育は、週に一度だけ屋外に出られる。


 梅雨の晴れ間を狙って、先生が「今日は外」と言う。生徒たちがわずかに顔を上げる。その顔の上げ方が、季節によって違う。六月のそれは、少し切実だ。曇った教室に閉じ込められていた日数が、顔に出る。


 今日は晴れていた。


 種目はバスケットボールだった。先月に続いて、また男女合同だった。


 チーム分けが終わった。今日は蒼と同じチームになった。


「よろしく」と蒼が言った。


「うん」と私は答えた。


 それだけだった。恋人同士のような距離感でも、ただのクラスメートのような距離感でもない。この二人の間にある距離感には、まだ名前がついていない。


 試合が始まった。


 蒼の動きを見ていた。


 先月気づいたことが、今日また確認できた。蒼は手を抜いている。抜いているが、それが周囲には分からない。全力に見える手加減だ。常に周囲の水準より少しだけ上にいる。突出しない。ただ、確実に上にいる。


 その調整の精度が、不自然なほど正確だった。


 隼が蒼のそばに来た。


「蒼、もっと本気出せって」


「出してるよ」


「嘘つけ。リアさんと一対一になったときだけ、目が変わってる」


 蒼が少し笑った。


「そう見える?」


「見える。俺、そういうの分かるから」


 隼の言葉を、私は聞いていた。


 目が変わる。


 一対一になったときだけ。


 試合の流れで、蒼と正面から向き合う場面が来た。


 私がボールを持ち、蒼がディフェンスに来た。


 先月と同じ場面だった。


 違ったのは、先月より蒼が近かったことだ。距離が、半歩分、詰まっていた。


 二秒、動かなかった。


 蒼の目が、確かに変わっていた。隼の言った通りだった。試合中の目ではなかった。もっと別の、静かで、少し暗い目だった。


 私はドリブルで抜いた。


 抜きながら、その目の意味を処理しようとした。


 シュートは入った。


 蒼が「うまい」と言った。今日は声に出した。先月は口の端だけだった。


 違いを意識しているのか、していないのか、判断できなかった。


 試合の合間の休憩に、隼が水筒を持って蒼の隣に来た。


 私はその少し離れたところに座っていた。


 二人の会話が、風向きによって聞こえてきた。


「蒼ってさ」と隼が言った。「バスケ、どこでやってたの」


「中学のとき少し」


「クラブ?」


「そう」


「どこの」


「アメリカにいたから、向こうの学校で」


 隼が「マジで? アメリカ?」と声を上げた。蒼が「うん」と答えた。


「どのくらいいたの」


「小学校の途中から中学まで」


「それ、英語ペラペラじゃん」


「まあ」


「かっこい……いや、くやしい」


 蒼が笑った。


 その笑い方が、今日も違った。教室での笑い方でも、図書室での笑い方でも、射場での笑い方でもない。もっと力が抜けていた。何も考えていない、という笑い方に近かった。


 隼と話すときだけ、蒼はこの顔になる。


 なぜか。


 隼は裏表がない。思ったことが、そのまま口から出る。計算がない。戦略がない。蒼を観察していない。ただ、蒼に話しかけている。


 その無防備さが、蒼の何かを緩ませているのかもしれなかった。


「隼って、ずっとバスケやってたの」と蒼が聞いた。


「小二から。もうずっと」


「楽しいの」


「楽しいっていうか、やめる理由がない感じ」


「それが楽しいってことじゃないの」


「そうかも」


 隼は少し考えた。


「蒼はバスケ続けなかったの」


「縁がなかった」


「縁ってなんだよ」


 隼が笑った。


「やめたんでしょ、普通に」


「やめた、とも少し違う」


 蒼の声のトーンが、わずかに変わった。変わったことに、隼は気づいていなかった。私は気づいた。


 やめた、とも少し違う。


 続けられなくなった、という意味なのか。続ける場所がなくなった、という意味なのか。


 どちらとも取れる言い方だった。


 隼は「まあ、今からでも部活入れるんじゃない?」と言って、水筒に口をつけた。


 蒼は「そうだね」と答えた。


 答えたが、その声には何もなかった。


 同意でも、否定でも、感情でもない。ただ会話を続けるための言葉だった。


 放課後、射場に行った。


 今日は蒼が来なかった。


 珍しかった。来ない日もある。来ると決まっているわけではない。でも来ない日は、射場が少し広く感じた。


 一人で十本引いた。


 七本入った。


 昨日より二本多かった。昨夜、颯太と話した後、少し整った。弓は正直だ。


 片付けをしながら、今日の体育を思い返した。


 蒼と隼が笑っている場面が、頭に残っていた。


 蒼は隼と話すとき、別の顔になる。一番力が抜けている。一番、演じていない。


 演じていない、という表現を、私は最初から使っている。


 ということは、他の場面では演じている、と私は思っている。


 では、私と話すときの蒼は。


 射場の床に、夕方の光が伸びていた。


 私と話すときの蒼は、演じているのか。


 答えが出なかった。


 出ないまま、弓のケースを閉めた。


 演じていないことと、本物であることは、同じではないかもしれない。


 その考えが、どこから来たのか分からなかった。


 分からないまま、射場を出た。


 帰り道、蒼から短いメッセージが来た。


『今日、来られなくて。ごめん』


 来られなかった理由を書かなかった。謝るだけで、説明しなかった。


 私は少しの間、画面を見た。


 来られなかった理由を、聞こうとした。


 聞くのをやめた。


 聞かないことが習慣になりつつあった。聞かなければ、知らないままでいられる。知らないままでいることを、意識的に選んでいた。


 意識的に選んでいる、という自覚が、最近少しずつはっきりしてきていた。


 それが何を意味するのか。


『大丈夫』


 と返した。


 既読がついた。


 返信は来なかった。


 来なかったことが、来たときと同じくらい、頭に残った。


 夜、颯太が部屋に来た。


「姉ちゃん、今日の弓は」


「七本」


「昨日より増えた」


「うん」


「よかった」


 颯太は満足そうに言った。それだけ言いに来たらしかった。


「颯太」


「ん」


「友達って、どうやってできると思う」


 颯太は少し考えた。


「なんで急に」


「体育で、蒼くんと隼くんが話してるのを見た」


「それで?」


「二人が話してるときの蒼くんの顔が、他のときと違った」


 颯太はドアにもたれたまま、少し首を傾けた。


「どう違うの」


「力が抜けてた」


「それって、友達だからじゃないの」


「でも」と私は言いかけた。


 言いかけて、止まった。


 でも、なんだ。


 でも、蒼は計算して動く人間だ。友達を作ることにも、意味を持たせているかもしれない。隼との友情も、設計されたものかもしれない。


 そう思いかけて、止まった。


 今日の蒼の笑い方を思い出した。


 あの笑い方は、設計できない。


 設計できないものが、蒼の中にある。


 それが隼の前でだけ、出てきていた。


「……なんでもない」と私は言った。


 颯太は「そう」と言って、部屋を出た。


 一人になった。


 窓の外で、雨が降り始めていた。梅雨の夜の雨だった。音が小さくて、気づかなければ気づかないくらいの雨だった。


 設計できないものが、蒼の中にある。


 それを、私は今日初めてはっきりと思った。


 設計できないものが何か。


 それを知りたいのか、知りたくないのか。


 雨の音を聞きながら、まだ答えが出なかった。


 出ないまま、今夜は終わりにした。

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