第9話「隼という男」
六月の体育は、週に一度だけ屋外に出られる。
梅雨の晴れ間を狙って、先生が「今日は外」と言う。生徒たちがわずかに顔を上げる。その顔の上げ方が、季節によって違う。六月のそれは、少し切実だ。曇った教室に閉じ込められていた日数が、顔に出る。
今日は晴れていた。
種目はバスケットボールだった。先月に続いて、また男女合同だった。
チーム分けが終わった。今日は蒼と同じチームになった。
「よろしく」と蒼が言った。
「うん」と私は答えた。
それだけだった。恋人同士のような距離感でも、ただのクラスメートのような距離感でもない。この二人の間にある距離感には、まだ名前がついていない。
試合が始まった。
蒼の動きを見ていた。
先月気づいたことが、今日また確認できた。蒼は手を抜いている。抜いているが、それが周囲には分からない。全力に見える手加減だ。常に周囲の水準より少しだけ上にいる。突出しない。ただ、確実に上にいる。
その調整の精度が、不自然なほど正確だった。
隼が蒼のそばに来た。
「蒼、もっと本気出せって」
「出してるよ」
「嘘つけ。リアさんと一対一になったときだけ、目が変わってる」
蒼が少し笑った。
「そう見える?」
「見える。俺、そういうの分かるから」
隼の言葉を、私は聞いていた。
目が変わる。
一対一になったときだけ。
試合の流れで、蒼と正面から向き合う場面が来た。
私がボールを持ち、蒼がディフェンスに来た。
先月と同じ場面だった。
違ったのは、先月より蒼が近かったことだ。距離が、半歩分、詰まっていた。
二秒、動かなかった。
蒼の目が、確かに変わっていた。隼の言った通りだった。試合中の目ではなかった。もっと別の、静かで、少し暗い目だった。
私はドリブルで抜いた。
抜きながら、その目の意味を処理しようとした。
シュートは入った。
蒼が「うまい」と言った。今日は声に出した。先月は口の端だけだった。
違いを意識しているのか、していないのか、判断できなかった。
試合の合間の休憩に、隼が水筒を持って蒼の隣に来た。
私はその少し離れたところに座っていた。
二人の会話が、風向きによって聞こえてきた。
「蒼ってさ」と隼が言った。「バスケ、どこでやってたの」
「中学のとき少し」
「クラブ?」
「そう」
「どこの」
「アメリカにいたから、向こうの学校で」
隼が「マジで? アメリカ?」と声を上げた。蒼が「うん」と答えた。
「どのくらいいたの」
「小学校の途中から中学まで」
「それ、英語ペラペラじゃん」
「まあ」
「かっこい……いや、くやしい」
蒼が笑った。
その笑い方が、今日も違った。教室での笑い方でも、図書室での笑い方でも、射場での笑い方でもない。もっと力が抜けていた。何も考えていない、という笑い方に近かった。
隼と話すときだけ、蒼はこの顔になる。
なぜか。
隼は裏表がない。思ったことが、そのまま口から出る。計算がない。戦略がない。蒼を観察していない。ただ、蒼に話しかけている。
その無防備さが、蒼の何かを緩ませているのかもしれなかった。
「隼って、ずっとバスケやってたの」と蒼が聞いた。
「小二から。もうずっと」
「楽しいの」
「楽しいっていうか、やめる理由がない感じ」
「それが楽しいってことじゃないの」
「そうかも」
隼は少し考えた。
「蒼はバスケ続けなかったの」
「縁がなかった」
「縁ってなんだよ」
隼が笑った。
「やめたんでしょ、普通に」
「やめた、とも少し違う」
蒼の声のトーンが、わずかに変わった。変わったことに、隼は気づいていなかった。私は気づいた。
やめた、とも少し違う。
続けられなくなった、という意味なのか。続ける場所がなくなった、という意味なのか。
どちらとも取れる言い方だった。
隼は「まあ、今からでも部活入れるんじゃない?」と言って、水筒に口をつけた。
蒼は「そうだね」と答えた。
答えたが、その声には何もなかった。
同意でも、否定でも、感情でもない。ただ会話を続けるための言葉だった。
放課後、射場に行った。
今日は蒼が来なかった。
珍しかった。来ない日もある。来ると決まっているわけではない。でも来ない日は、射場が少し広く感じた。
一人で十本引いた。
七本入った。
昨日より二本多かった。昨夜、颯太と話した後、少し整った。弓は正直だ。
片付けをしながら、今日の体育を思い返した。
蒼と隼が笑っている場面が、頭に残っていた。
蒼は隼と話すとき、別の顔になる。一番力が抜けている。一番、演じていない。
演じていない、という表現を、私は最初から使っている。
ということは、他の場面では演じている、と私は思っている。
では、私と話すときの蒼は。
射場の床に、夕方の光が伸びていた。
私と話すときの蒼は、演じているのか。
答えが出なかった。
出ないまま、弓のケースを閉めた。
演じていないことと、本物であることは、同じではないかもしれない。
その考えが、どこから来たのか分からなかった。
分からないまま、射場を出た。
帰り道、蒼から短いメッセージが来た。
『今日、来られなくて。ごめん』
来られなかった理由を書かなかった。謝るだけで、説明しなかった。
私は少しの間、画面を見た。
来られなかった理由を、聞こうとした。
聞くのをやめた。
聞かないことが習慣になりつつあった。聞かなければ、知らないままでいられる。知らないままでいることを、意識的に選んでいた。
意識的に選んでいる、という自覚が、最近少しずつはっきりしてきていた。
それが何を意味するのか。
『大丈夫』
と返した。
既読がついた。
返信は来なかった。
来なかったことが、来たときと同じくらい、頭に残った。
夜、颯太が部屋に来た。
「姉ちゃん、今日の弓は」
「七本」
「昨日より増えた」
「うん」
「よかった」
颯太は満足そうに言った。それだけ言いに来たらしかった。
「颯太」
「ん」
「友達って、どうやってできると思う」
颯太は少し考えた。
「なんで急に」
「体育で、蒼くんと隼くんが話してるのを見た」
「それで?」
「二人が話してるときの蒼くんの顔が、他のときと違った」
颯太はドアにもたれたまま、少し首を傾けた。
「どう違うの」
「力が抜けてた」
「それって、友達だからじゃないの」
「でも」と私は言いかけた。
言いかけて、止まった。
でも、なんだ。
でも、蒼は計算して動く人間だ。友達を作ることにも、意味を持たせているかもしれない。隼との友情も、設計されたものかもしれない。
そう思いかけて、止まった。
今日の蒼の笑い方を思い出した。
あの笑い方は、設計できない。
設計できないものが、蒼の中にある。
それが隼の前でだけ、出てきていた。
「……なんでもない」と私は言った。
颯太は「そう」と言って、部屋を出た。
一人になった。
窓の外で、雨が降り始めていた。梅雨の夜の雨だった。音が小さくて、気づかなければ気づかないくらいの雨だった。
設計できないものが、蒼の中にある。
それを、私は今日初めてはっきりと思った。
設計できないものが何か。
それを知りたいのか、知りたくないのか。
雨の音を聞きながら、まだ答えが出なかった。
出ないまま、今夜は終わりにした。




