第10話「名前」
六月の終わり。
梅雨はまだ続いていた。
晴れ間が来るたびに射場に出て、雨が来るたびに体育館の隅で素引きをした。
三上先生が、「今月のお前は安定してる」と言った。
褒め言葉の少ない人だから、これは相当に良い評価だった。
安定している。
弓が安定しているということは、内側が安定しているということだ。
安定していると、自分では思っていなかった。
でも弓はそう言っていた。
弓の方が、たぶん正直だ。
その日の昼休みに、咲良が珍しいものを持ってきた。
学校新聞の試し刷りだった。
まだ正式発行前の、確認用のものだ。
「見てもいい?」と私は聞いた。
「だから持ってきた」
広げた。
一面は体育祭の告知だった。来月に迫っている。
二面は進路関係の記事。
三面に、転入生特集があった。
短い記事だった。
朝比奈蒼、という名前が、活字になっていた。
『今年度、本校高二に転入した朝比奈蒼さんは、帰国子女として海外での経験を持ちながら、わずか数週間で学校生活に溶け込んだ。穏やかな人柄と高い学力で、すでにクラスの中心的存在となっている』
「どう思う」と咲良が聞いた。
「記事として、は?」
「全部含めて」
私は記事を読み返した。
正確な文章だった。
事実だけが書いてある。
でも何かが足りなかった。
足りないものが何か、私には分かった。
咲良にも分かっているはずだ。
「事実しか書いてない」
「うん」
「咲良が感じた違和感は、一行もない」
「証拠がないから」
咲良は試し刷りを受け取った。
「証拠のないことは書けない」
「それが正しい判断だね」
「正しいけど」
咲良は少し間を置いた。
「気持ち悪い」
気持ち悪い、という言葉を、咲良は感情的に使わない。
分析として使っている。
証拠がないのに違和感がある、という状態そのものを、気持ち悪いと言っている。
「続けるの、調査」
「やめる理由がない」
咲良は新聞を鞄にしまった。
「リアさんは、何か気になることある? 蒼くんのこと」
私はおにぎりを食べながら、少し考えた。
「一つだけ」
「何」
「灯ちゃん」
咲良が少し首を傾けた。
「妹さん?」
「蒼くんの。幼い頃、よく知ってた。再会したとき、元気かと聞いたら、元気だよと言った」
「それの何が」
「答えるまでに、半拍あった」
咲良は黙った。
ノートを出した。
何かを書いた。
私には見せなかった。
「それだけ?」と咲良が聞いた。
「それだけ」
嘘だった。
それだけではなかった。
父の仕事を聞いてきたこと。
隼の父親の仕事を聞いたこと。
神経科学の本のこと。
行動が先に来ると言ったこと。
全部、言わなかった。
言わなかった理由が、自分でも分からなかった。
咲良に話せば、咲良は調べる。
調べれば、何かが出てくるかもしれない。
何かが出てくることを、私は望んでいるのか。
望んでいなかった。
だから言わなかった。
聞かなければ知らないままでいられる。
知らないことを、意識的に選んでいた。
その選択を、今日も続けた。
七時間目が終わった後、委員会があった。
私は図書委員だった。
月に一度の整理当番で、閉館後に本の返却処理と書架の整理をする。
一時間ほどの作業だ。
一人でやるのが好きだった。
図書室に誰もいない時間は、朝とは別の静けさがある。
返却された本を棚に戻しながら、背表紙を読んだ。
心理学、哲学、文学。
この学校の生徒は、わりと本を読む。
司書の村上さんが、選書にこだわっているからだと思う。
一冊、手が止まった。
神経科学の棚だった。
一冊だけ、微妙に位置がずれていた。
最近誰かが手に取った跡がある。
背表紙を確認した。
脳と行動の関係を扱った専門書だった。
蒼が図書室で読んでいた本と、同じ著者だった。
同じ著者の、別の一冊だった。
私はその本を手に取った。
重かった。
専門書の重さだった。
パラパラとページをめくった。
内容の七割は理解できなかった。
残り三割だけ、かろうじて意味を取れた。
その三割の中に、一文があった。
『感情の発生より行動の開始が先行するケースは、通常の神経回路では稀である。しかしトラウマや極度のストレス下における再配線によって、この順序が逆転することがある』
行動が先に来る。
蒼が言った言葉だった。
トラウマ、という言葉が、そのページの中で光って見えた。
私は本を棚に戻した。
正確な位置に戻した。
手が、少しだけ動くのが遅かった。
図書室を出たのは、六時を過ぎていた。
廊下は暗かった。
日が長い季節だが、曇りの日は早く暗くなる。
階段を降りながら、考えていた。
トラウマによって、行動が先に来るようになることがある。
蒼は、何かを経験した。
その何かが、蒼の神経回路を変えた。
だから蒼は「行動が先に来る」と言った。
自分のことを言っていた。
分かっていた、うっすらと。
でも今日、少しだけはっきりした。
蒼には、私の知らない時間がある。
小四の秋にいなくなって、高二の春に戻ってくるまでの、七年間。
その七年間に、何かがあった。
灯の返答の半拍も、そこにある。
知りたいのか、と自分に問うた。
今日初めて、答えが出た。
知りたい。
知ることが怖くても、知りたい。
怖いと思っている自分がいることに、今日初めて気づいた。
気になる、ではなく、怖い、という感情が私の中にあった。
それを認めたのは、今日が初めてだった。
昇降口を出たところで、人とぶつかりそうになった。
「あ、ごめん」
女子の声だった。
顔を見た。
同じクラスの御堂千景だった。
「ごめんなさい」と私も言った。
千景は私を見た。
一秒だけ、何かが走った。
千景の目の中で。
敵意、とは少し違った。
もっと複雑な何かだった。
「瀬戸川さん、委員会?」
「図書委員」
「そう」
それだけだった。
千景は先に歩いていった。
私は昇降口で靴を履き替えながら、千景の背中を一瞬だけ見た。
中学から桜渓に外部入学してきた子だ。
成績が良く、要領も良い。
内部進学組と上手くやっているように見えるが、どこか力が入っている。
ずっとそう思っていた。
目の中に走ったものが、何だったのか。
考えかけて、やめた。
今日は考えることが多すぎた。
これ以上処理できる余裕が、今夜の私にはなかった。
帰り道、駅のホームで電車を待った。
雨はまだ降っていた。
ホームの屋根に当たる雨音だけがある。
スマートフォンを出した。
何をするつもりもなかった。
ただ出した。
画面を見た。
蒼からのメッセージが一件来ていた。
『今日、図書委員の当番だった?』
見ていた、ということだ。
廊下ですれ違ったか、誰かから聞いたか、あるいは別の方法で知ったか。
どれか分からなかった。
『そう』
と返した。
すぐに既読がついた。
『遅くまでお疲れ』
それだけだった。
私はスマートフォンを見ていた。
遅くまでお疲れ。
どうやって知ったのか、聞こうとした。
聞くのをやめた。
やめた理由を、今日は少しだけはっきり言語化できた。
知ることが怖い、という感情が、私の中にある。
蒼への怖さは、蒼が危険だからではない。
今の時点で、私はそう思っていない。
怖いのは別のことだ。
蒼のことを知れば知るほど、知りたくなる。
知りたくなれば、もっと近づく。
近づけば、もっと知りたくなる。
その先に何があるのか。
弓道に似ている、と思った。
引けば引くほど、的がはっきり見える。
見えれば見えるほど、当てたくなる。
当てれば、また引きたくなる。
終わりがない。
電車が来た。
乗り込んだ。
窓の外で、雨が続いていた。
七年間の空白が、蒼の中にある。
その空白に何があるのか、今日から私は知りたいと思っている。
知ることが怖くても。
その怖さの正体が何か、まだ分からなかった。
分からないまま、第一章が終わった。
次の章で、何かが動く気がした。
その予感だけを持って、今夜は目を閉じた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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また、歴史ものである本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
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王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!




