第11話「千景という存在」
七月になった。
体育祭まで、あと二週間だった。
教室の空気が少しざわついていた。
クラス対抗の種目の話し合い、応援団の練習、色々なことが同時に動き始めていた。
私はその騒めきを、いつもより少し遠くから眺めていた。
いつもより遠い、というのは正確ではない。
いつもと同じ場所にいる。
でも視線が、少し内側に向いていた。
七年間の空白が、蒼の中にある。
その言葉が、十話から頭の中に居座っていた。
御堂千景のことを、私はあまり考えたことがなかった。
同じクラスで、成績が良くて、外部入学組の中では目立つ存在だ。
それ以上のことを、意識したことがなかった。
昨日の昇降口での一秒が、少し引っかかっていた。
千景の目の中に走ったもの。
敵意、とは少し違うと思った。
でも何かがあった。
その何かを、今日は少しだけ考えた。
昼休み、咲良が話しかけてきた。
「千景ちゃんのこと、知ってる?」
タイミングが良すぎた。
「少し」と私は答えた。
「中学から外部入学で、成績が良い」
「それだけ?」
「それだけ」
咲良は弁当を広げながら、声を少し落とした。
「昨日、ちょっとした話を聞いて」
「何を」
「千景ちゃんって、入学当初から内部進学組に入り込もうとしてたらしくて。でも一人だけ、最初から壁があった」
「誰」
咲良は私を見た。
「リアさん」
私は卵焼きを食べた。
「私は壁を作ってない」
「リアさんはそう思ってなくても、向こうはそう感じたんじゃないかな」
咲良は慎重な言い方をした。
「千景ちゃん、入学してすぐリアさんに話しかけようとしたことがあるらしい。でもリアさんが気づかなくて、そのまま通り過ぎた」
「覚えてない」
「覚えてないよね、リアさんは」
それが問題だ、と咲良の声は言っていなかった。
でも言っていることの中に、それが含まれていた。
リアさんは覚えていない。
千景は覚えている。
その非対称が、何かを作った。
「それで、敵意を持つの」
「敵意かどうかは分からない」
咲良はから揚げを一口食べた。
「でも、何かはあると思う」
何かはある。
昨日の一秒で見たものが、少し形を持った。
午後の授業の合間、私はトイレに立った。
廊下を歩いていると、前方に千景がいた。
一人だった。
窓の外を見ていた。
こちらには気づいていなかった。
私は歩みを緩めなかった。
千景の横を通り過ぎようとしたとき、千景が振り向いた。
目が合った。
昨日と同じだった。
一秒だけ、何かが走った。
今日は昨日より長く、その一秒を見ていた。
敵意、ではない。
もっと根の深いものだった。
認めてほしい、という感情に近い何かだった。
ただし歪んだ形の。
認められなかったことへの、積み重なった応答のような。
「瀬戸川さん」
千景が口を開いた。
珍しかった。
千景から私に話しかけてくることは、ほとんどなかった。
「何」
「体育祭の種目、リレーに出るの?」
「出ない予定」
「そう」
千景は少し間を置いた。
「出た方が、クラスのためになると思うけど」
「そうかもね」
「でも出ないんだ」
「出ない理由がある」
「どんな」
「個人種目以外に興味がない」
千景はそれを聞いて、少しだけ口の端を動かした。
笑ったのか、呆れたのか、判断できなかった。
「リアさんって、いつもそう」
「いつも?」
「自分の基準だけで動く」
千景の声は、責めていなかった。
ただ、観察していた。
「クラスのためになるとか、みんなと一緒にとか、そういうの考えないじゃない」
「考えないわけじゃない」
「でも選ばない」
正確だった。
考えた上で、選ばない。
その通りだった。
「そうだね」と私は言った。
否定しなかった。
千景は私を見ていた。
何かを待っているような目だった。
反論を待っているのか、共感を待っているのか、あるいは別の何かを待っているのか。
私には分からなかった。
「体育祭、頑張ってね」と私は言った。
それだけ言って、歩き始めた。
その夜、自室で考えた。
千景という人間について。
中学から外部入学してきた。
成績が良い。
要領も良い。
内部進学組の中に入り込もうとした。
一人だけ、壁があった。
私だった。
壁を作ったつもりはなかった。
ただ、気づかなかった。
話しかけられたことにも、気づかなかった。
気づかなかったことと、無視したことは、違う。
でも受け取る側には、同じに見えたかもしれない。
廊下での千景の言葉を思い返した。
自分の基準だけで動く。
それは間違っていない。
私は自分の基準で動く。
他者の評価を判断材料にしない。
それが冷淡に見えることは知っている。
知っていて、変えようとしていない。
変える必要を感じていないからだ。
でも。
千景が入学当初に感じたことは、千景の中で何かを作った。
積み重なって、形になった。
その形が、昨日の一秒に滲んでいた。
私が気づかなかったことが、起点にある。
それを、私の責任と呼ぶべきなのか。
答えが出なかった。
出ないまま、窓の外を見た。
七月の夜は、蒸していた。
梅雨明けはまだだった。
スマートフォンに、蒼からメッセージが来た。
『明日、朝練ある?』
『ある』と返した。
『じゃあ図書室は少し遅くなるね』
『別に待ってない』
少しの間があった。
『そう?』
その返し方が、どこか可笑しかった。
可笑しい、という感情が自分の中にあったことに、送信してから気づいた。
『おやすみ』と送った。
『おやすみ、リア』
画面を閉じた。
千景のことを、もう少し考えようとした。
考えられなかった。
蒼の「そう?」という一言が、頭の中に残っていた。
そう? という問い返し。
別に待ってないと言ったのに、そう? と返してくる。
信じていない、というわけでもなさそうだった。
ただ、そう? と聞いた。
その問い返しの意味を、私はしばらく処理した。
処理しきれなかった。
それだけのことが、今夜の私には少し大きかった。
大きい、という事実を、今夜は認めることにした。
翌朝、図書室に行った。
朝練があると言っていたから、蒼は遅れてくるはずだった。
一人で座って、本を開いた。
ページをめくった。
七時二十分に、足音がした。
迷いのない足音だった。
ドアが開いた。
蒼が入ってきた。
道着のままだった。
着替える時間を惜しんで来たらしかった。
「剣道?」と私は聞いた。
「今日だけ体験入部してみた」
「どうだった」
「向いてないと思った」
蒼は向かいに座った。
「打ち込む、という動作が、僕には少し難しい」
「難しい、って」
「相手に向かって打つことが」
蒼は少し考えながら言った。
「目の前の人間に、直接向かっていくのが、うまくできない」
「弓道は?」と私は言った。
「弓道は向こうから打ってこない」
「的は動かないから」
「そう」
蒼は本を出した。
「リアが弓道を選んだ理由が、少し分かった気がした」
「どんな理由」
「相手が必要ない」
違う、と思った。
「的は、いる」
「でも的は、リアに何もしてこない」
「それは」
私は少し考えた。
「そうだね」
的は私に何もしてこない。
ただそこにある。
私が整っていれば入る。
私が乱れていれば外れる。
すべては私の内側の問題だ。
「蒼くんは」と私は聞いた。
「何かやってた、向こうにいたとき。スポーツ」
「水泳」
「向いてた?」
「向いてたと思う」
少し間があった。
「一人でできるから」
一人でできるから。
その理由が、私の弓道の理由と似ていた。
似ているようで、少し違った。
「続けてないの」
「続けられなくなった」
またその言葉だった。
やめた、ではなく、続けられなくなった。
昨日と同じ言い方だった。
昨日は剣道について言った。
今日は水泳について言った。
続けられなくなった。
その言葉の裏に、続けられなくなった理由がある。
七年間の空白が、そこにある。
私は本に目を戻した。
聞こうとした。
聞けなかった。
まだ、聞く準備ができていなかった。
でも今日は、聞けなかった、という事実を、はっきり認識した。
できない、ではなく、まだ、という言葉が自分の中にあった。
まだ。
それは、いつかは聞く、という意味を含んでいた。
そのことに気づいて、本のページを一枚めくった。
図書室は静かだった。
蒼が本を開く音がした。
その音を、今朝は少し遠くから聞いた気がした。
近くにいるのに、遠い。
遠い、という感覚の正体が、今日も分からなかった。
分からないまま、七月の朝が始まった。




