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桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第2章「鏡合わせの悪意」

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第12話「裏アカウント」

七月の第二週、体育祭が終わった。


クラスは三位だった。


私は二種目に出た。個人種目の走り幅跳びと、担任から頼まれた百メートル走だ。どちらも一位だった。


クラスへの貢献という意味では、十分だったと思う。


ただ、リレーには出なかった。


それだけのことだった。


体育祭が終わった翌日、教室の空気が少し変わった。


変わった、というより、薄くなった。


イベントが終わった後の、目標を失った集団特有の弛緩だ。


毎年同じだった。一週間もすれば戻る。


私はその変化を、窓際の席から眺めていた。


最初の投稿は、体育祭の翌々日だった。


昼休み、咲良がスマートフォンを持ってきた。


「リアさん、これ見た?」


画面を差し出された。


匿名の投稿サイトだった。


学校名のハッシュタグがついた投稿が並んでいる。その中の一つを、咲良が開いた。


『桜渓の瀬戸川って、体育祭でクラスリレー断ったらしい。自分だけ勝てる種目しか出ない。チームワークゼロの自己中。あんな人が学院の顔とか笑える』


私は画面を読んだ。


読み終わった。


「そう」と言った。


「怒らないの」と咲良が聞いた。


「怒る理由がない」


「傷つかないの」


「傷つく内容ではない」


事実と違うことが書いてあれば、訂正する必要がある。


でもこの内容は、ほぼ事実だった。


リレーを断ったのは本当だ。勝てる種目を選んだのも、ある意味では本当だ。


それを自己中と呼ぶかどうかは、書いた人間の解釈だった。


「でも、広がるかもしれない」


「広がっても、事実は変わらない」


咲良は少し困った顔をした。


「リアさんって、本当にそう思ってるんだよね。ポーズじゃなくて」


「ポーズで言うほど、器用じゃない」


咲良はスマートフォンをしまった。


「私は気になる」


「調査するの」


「する」


咲良は短く言った。


「投稿のパターンが、一つじゃないから」


「一つじゃない?」


「これだけじゃない。似たようなアカウントが、いくつかある。全部リアさんへの言及がある」


咲良はノートを開いた。


「投稿時間が規則的すぎる」


「規則的?」


「夜の八時から十時の間に集中してる。アカウントごとに口調を変えてるけど、単語の選び方に癖がある」


私は弁当に目を戻した。


怒っていない、というのは本当だった。


傷ついていない、というのも、今この瞬間は本当だった。


ただ、咲良の言葉が少し引っかかった。


手間をかけている。


複数のアカウントを管理して、投稿時間をずらして、文体を変えて。


そこまでして、誰かを悪く書く。


そこまでさせる感情が、誰かの中にある。


その根がどこにあるのか、私は少しだけ分かる気がした。


放課後、射場に行った。


蒼が来た。


いつもより少し早かった。


私が弓を出す前に、もう壁にもたれていた。


「今日は早いね」


「来る途中で会ったから」


「誰に」


「千景さん」


私は弓のケースを開けながら、その言葉を処理した。


「何か話したの」


「少し。体育祭の話」


「体育祭」


「千景さん、リレーのアンカーだったらしい。クラスは四位だった」


四位。


私のクラスより下だった。


「それを蒼くんに話したの」


「うん。悔しかったって」


蒼の声に感情はなかった。


ただ事実を報告しているだけの声だった。


「蒼くんは何て言ったの」


「来年があるって」


「それだけ?」


「それだけ」


私は射位に立った。


弓を構えた。


千景がアンカーだった。


クラスは四位だった。


悔しかった。


それを、蒼に話した。


蒼は「来年がある」と言った。


蒼が千景と話す場面を、私はあまり想像したことがなかった。


蒼は誰に対しても、同じ温度で接する。


千景も例外ではない。


それは分かっていた。


分かっていたが、今日少しだけ、その事実が別の重さを持った。


引いた。


一本目は入った。


「千景さんって」


蒼が言った。


「うん」


「リアのこと、よく見てるね」


私は弓を下ろした。


振り向いた。


蒼は壁にもたれたまま、こちらを見ていた。


「どういう意味」


「体育祭の話の中で、リアのことを詳しく話してた。リレーを断ったこととか、走り幅跳びで一位だったこととか」


よく見てる。


その言葉が、昼の咲良の話と重なった。


手間をかけてる。


よく見てる。


「それで蒼くんは、何か言ったの」


「何も」


蒼は少し間を置いた。


「言う必要がなかったから」


その言葉が、どこかに引っかかった。


必要がなかった、のか。


あるいは、言葉の代わりに別の何かを考えていたのか。


聞けなかった。


私はもう一本引いた。


今度も入った。


「続けて」と蒼が言った。


「うん」


それだけで会話は終わった。


終わったが、蒼が射場を出るまで、私は「言う必要がなかった」という言葉を、ずっと頭の中に持っていた。


その夜、咲良からメッセージが来た。


『アカウント、三つになってた。今日だけで』


『パターンは?』


『投稿時間が夜の八時から十時の間。感情的に見えるけど、単語の選び方が計算されてる』


計算されてる。


『誰だと思う?』


少し間が空いた。


『まだ言えない。でも学校の中の人間だと思う』


『分かった』


『リアさん、本当に気にしてないの?』


私は少し考えた。


『気にしてない、とは言えなくなってきた』


正直に返した。


最初は、本当に気にしていなかった。


事実と解釈の問題だと思っていた。


でも今夜は違った。


手間をかけてる。


よく見てる。


計算されてる。


その労力の根にある感情を、私は今夜初めて、重いものとして受け取っていた。


蒼に話すべきか、と考えた。


考えて、やめた。


話せば、蒼は動く。


蒼が動けば、何かが起きる。


それが怖かった。


怖い、という感情が、自分の中にあることを、今夜また一つ認識した。


怖いものが、少しずつ増えていた。


蒼の七年間が怖い。


蒼が動くことが怖い。


怖いものが増えているのに、蒼から離れようとは思わなかった。


その矛盾を、今夜は処理しないことにした。


処理できる気がしなかった。


スマートフォンを伏せた。


窓の外で、七月の夜が蒸していた。


梅雨は、まだ明けていなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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また、歴史ものである本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。


『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』

https://ncode.syosetu.com/novelview/infotop/ncode/n9418lx/

王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!


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