第8話「颯太のこと」
その夜、父が女を連れて帰ってきた。
気配で分かった。
玄関の開く音が、一人のときと違う。
鍵の回し方が、誰かに見られているときの回し方だ。ゆっくりで、少し気取っている。
私はリビングのソファで本を読んでいた。
颯太は自室にいた。
ドアが開いた。
「あ、リアいたの」
父は少し驚いた顔をした。
驚いてほしくなかったのだろう。
私がいない時間を選んで帰ってきたはずだったのかもしれない。
計算が外れた顔だった。
「いる」
「こちら、仕事の関係の方で」
女性だった。
三十代くらい。きれいな人だった。
きれいな人が、きれいな笑顔で「はじめまして」と言った。
「はじめまして」
私は本を閉じた。立ち上がった。
「颯太、夕飯食べたから先に寝る」
廊下に出た。
颯太の部屋のドアをノックする。
「ん」という声がした。
「今夜、父さんが人を連れてきてる。気にしなくていい」
少しの間があった。
「……うん」
それだけだった。
颯太は賢い。
余分なことを聞かない。
余分なことを言わない。
その賢さが、今夜だけは少し痛かった。
自室に戻った。
ドアを閉めた。
本を開いた。
読めなかった。
読もうとしなかった。
リビングから声が聞こえた。
父の笑い方が、家族といるときと違った。
軽くて、少し若作りで、私が知らない父の声だった。
八歳のとき、母に連れられて駅前のカフェに行った。
窓際の席に座っていた父を見つけた。
父は気づいていなかった。
向かいに誰かがいた。
女の人だった。
父は笑っていた。
今夜と同じ笑い方で。
母はそのカフェに入らなかった。
私の手を引いて、黙って帰った。
帰り道、母は一度だけ私の手を強く握った。
それだけだった。
泣かなかった。怒らなかった。
ただ一度だけ、強く握った。
その感触を、私は今も覚えている。
翌朝、いつもより早く家を出た。
射場に着いたのは六時半だった。
弓を出した。
射位に立った。
息を吐いた。
引いた。
一本目は外れた。
分かっていた。
整っていない。
昨夜から、整っていない。
放つものは何もないのに、何かを手放せない感覚がある。
弓道を始めて四年になるが、この感覚だけは毎回正直に出る。
誤魔化しが効かない。
二本目。
また外れた。
三上先生の声が頭の中で聞こえた。
「乱れているときは、引くな。乱れの原因が何か、先に片付けろ」
片付けられない乱れが、世の中にはある。
三本目を引こうとして、やめた。
弓を下ろした。
射場の床に光が差し込んでいた。
六月の朝の光は、梅雨の合間だけ、やけにはっきりしている。
的がよく見えた。
見えているのに、当てられない。
しばらくそのまま立っていた。
足音がした。
振り返らなかった。
「当たってない」
蒼の声だった。
「見てたの」
「今来たところ。でも分かった」
私は的を見たまま言った。
「分かるの」
「リアが外したときの静けさと、当てたときの静けさは違う」
「どう違う」
「外したときの方が、長い」
正確だと思った。
外れたとき、私は一瞬だけ的を見続ける。
当たったときより、長く見る。
認めたくなくて、見ているのかもしれない。
「何かあった?」と蒼が聞いた。
「別に」
蒼は何も言わなかった。
しばらく、射場に二人でいた。
蒼は入り口にもたれていた。
私は射位に立ったまま動かなかった。
「父が、人を連れてきた」
気づいたら、口から出ていた。
言うつもりはなかった。
言葉が、整っていないとこぼれる。
弓と同じだ。
「そう」
蒼は短く言った。
それだけだった。
聞いてこなかった。
どんな人か。
どういう関係か。
母はどう思っているか。
何も聞かなかった。
ただ「そう」と言って、黙った。
その黙り方が、八歳の母が私の手を握ったことを思い出させた。
言葉ではない。
でも確かにそこにいる、という重さ。
「弓、もう一本引いて」と蒼が言った。
「外れると思う」
「それでもいい」
私は弓を構えた。
引いた。
外れた。
「やっぱり」と私は言った。
「うん」と蒼は言った。
責めなかった。
残念がらなかった。
ただ、確認した。
それでいい、と言った言葉の意味が、少しだけ分かった気がした。
外れてもいい、という意味ではなかった。
外れた事実を、一緒にいる、という意味だったのかもしれなかった。
その日の昼、咲良が珍しく静かだった。
弁当を広げながら、ノートを出さなかった。
スマートフォンも見なかった。
ただ食べていた。
「どうしたの」と私は言った。
「ん、なんでもない」
「珍しい」
「何が」
「喋ってない」
咲良は少し笑った。
力のない笑い方だった。
「リアさんこそ、今日顔色悪くない?」
「そう見える?」
「見える。いつもより目が遠い」
目が遠い、という表現を、咲良は使った。
正確だと思った。
今日の私の視線は、手前のものを見ていない。
もう少し奥の、形のないものを見ている。
「父のこと」と私は言った。
咲良は黙って聞く顔になった。
「また、連れてきた」
「……何回目?」
「数えてない。数える意味がない」
咲良はしばらく何も言わなかった。
言葉を選んでいる、という間ではなかった。
言葉にならないことを、そのまま置いている、という間だった。
「颯太くんは」
「気にしないようにしてる。たぶん」
「リアさんは?」
「気にしない、とは違う」
それだけ言った。
それ以上は言えなかった。
気にしていないのではなく、気にする価値を認めていない。
そのはずだった。
でも今朝、弓が二本続けて外れた。
整っていなかった。
整っていないのは、乱れているからだ。
乱れているのは、何かが片付いていないからだ。
片付けられない乱れが、世の中にはある。
「蒼くんには話した?」と咲良が聞いた。
「少し」
「どうだった」
「黙ってた」
咲良はそれを聞いて、少し何かを考えた顔をした。
ノートを出さずに、ただ考えていた。
「そっか」とだけ言った。
それ以上、聞かなかった。
今日の咲良は、いつもより輪郭が柔らかかった。
調査モードではなく、ただここにいる人間だった。
放課後、昇降口を出たところで、隼に呼び止められた。
「リアさん、ちょっといい?」
「何」
「蒼のことなんだけど」
隼は少し声を落とした。
「なんか最近、蒼が父さんについて聞いてきた」
「父さん、って」
「俺の親父。仕事何してるとか、どこの会社とか」
私は隼を見た。
「珍しいね、そういうこと聞くの」
「そう思って。蒼ってそういうこと聞いてくるタイプじゃないじゃん。だからなんか引っかかって」
隼は頭を掻いた。
「リアさんのこと、親父の会社の話とか聞いてきた?」
「……聞いてきた」
記憶を探った。
あった。
先週、帰り道で。
「お父さんの仕事って何してるの」と蒼が聞いた。
私は「商社系」とだけ答えた。
蒼はそれ以上聞かなかった。
そのとき、特に引っかからなかった。
今、少し引っかかった。
「なんで気になったの、蒼くんに」
「なんとなく」
隼は言いにくそうにした。
「いや、気にしすぎかもしれないんだけど。蒼って、聞くことが全部、意味がある感じするじゃん。無駄な質問をしない。だから、なんで俺の親父の仕事を聞くのかな、って」
無駄な質問をしない。
隼の言葉が、頭の中に残った。
意味がある、ということは、目的がある、ということだ。
目的が何か。
「気にしすぎだと思う」と私は言った。
「そうかな」
「そうだよ」
隼は少し安心した顔をした。
「リアさんがそう言うなら、そうかな。じゃあいいや」
隼は部活に戻っていった。
私は昇降口の前に、少しだけ立ち止まった。
無駄な質問をしない。
父の仕事を聞いてきた。
整っていない、と今朝の弓が言っていた。
整っていない原因が、昨夜の父だと思っていた。
でも今、別の引っかかりが生まれていた。
引っかかりに、名前をつけられなかった。
名前をつける前に、私はそれを保留にした。
保留にすることと、見ないようにすることは違う。
今日のところは、保留だった。
夜、颯太がリビングに来た。
私はソファで本を読んでいた。
今夜は父はいなかった。
静かな夜だった。
颯太は何も言わずに隣に座った。
スマートフォンも持っていなかった。
ただ隣に座った。
しばらく、黙っていた。
「姉ちゃん」
「うん」
「俺さ、父さんのこと、別にそんなに好きじゃない」
「そう」
「でも姉ちゃんのこと、好きだから」
颯太はまっすぐ前を見たまま言った。
「姉ちゃんが傷ついてるの、嫌だ」
私は本のページを見たまま、答えを探した。
答えが見つからなかった。
「傷ついてない」
「嘘つかなくていいよ」
颯太の声は、責めていなかった。
ただ、事実を言っていた。
私は本を閉じた。
「颯太」
「うん」
「弓が今朝、二本外れた」
「そっか」
「外れた理由が分かってた」
「そっか」
「でも片付けられなかった」
颯太は少しの間、黙った。
「明日は入る?」
「たぶん」
「じゃあいい」
颯太は立ち上がった。
「俺、寝る。おやすみ」
「おやすみ」
颯太が自室に戻った。
リビングに一人になった。
窓の外は曇っていた。
梅雨の夜だった。
雨はまだ降っていなかったが、空気が重かった。
明日は入る、と颯太に言った。
入るかどうかは、明日の私の内側が決める。
今夜の私にはまだ、答えが出せなかった。
隼の声が、頭の中にあった。
――無駄な質問をしない。
父の仕事を聞いてきた、蒼が。
保留にした引っかかりが、夜の静けさの中で少しだけ輪郭を持ち始めていた。
輪郭を持ち始めたまま、今夜はここまでにした。
目を閉じた。
雨は、まだ降っていなかった。




