第7話「善意の手」
六月になった。
梅雨入り前の一週間は、妙に空気が澄んでいる。
雨が来る前の、最後の晴れだ。
射場の的がよく見える季節だ。距離が変わるわけではないが、光の具合で的がはっきりする。
この一週間で、私は蒼について三つのことを知った。
一つ。蒼は左利きだが、箸だけは右で持つ。
二つ。本を読み終わっても、すぐに次を開かない。しばらく表紙を見ている。
三つ。誰かに礼を言われたとき、笑わない。
最初の二つは、ただの観察だ。
三つ目が、少し引っかかっていた。
咲良の募金活動の日から、二週間が経っていた。
あの日のことを、咲良はまだ覚えていた。
昼休みに弁当を広げながら、唐突に言った。
「朝比奈くんってさ、お礼言われると顔が変わるよね」
「変わる、って」
「固まる、っていうか。笑わない」
「見てたの」
「新聞部だから」
咲良はから揚げを一口食べた。
「感謝されるのが苦手な人って、自己評価が低いか、逆に高すぎるかのどっちかなんだって。心理学の本に書いてあった」
「どっちだと思う、蒼くんは」
咲良は少し考えた。
「分かんない。どっちでもない気がする」
「じゃあ何」
「感謝される行為として、やってないんじゃないかな」
咲良はノートに何かを書き留めた。
「お礼を期待してないんじゃなくて、最初からお礼の存在を計算に入れてない。だからお礼が来ると、処理できない」
私はおにぎりを食べながら、その分析を聞いた。
正確だと思った。
正確すぎて、少し怖かった。
怖い、という感情が自分の中にあったことに、後から気づいた。
その時点では処理していなかった。
放課後の射場に、蒼が来た。
最近、週に二度ほど来るようになっていた。
来ると言ったわけではない。来ないと言ったわけでもない。ただ来る。
射場の入り口にもたれて、練習が終わるまでいる。
その日も、来た。
私は練習の続きをした。
蒼がいることを意識しないことにした。
意識しないことを、以前ほど意識しなくなっていた。
慣れ、だと思った。
慣れていいのかどうかは、別の問題だった。
十本放った。
八本入った。二本外れた。
外れた理由は分かっていた。
引き分けの途中で、蒼の視線を感じた二本だった。
視線のせいで外れたのか、外れた瞬間に視線を意識したのか、どちらか判断できなかった。
片付けをしながら、蒼に言った。
「今日は八本」
「二本、外れた理由は?」
「引き分けの途中で何か考えた」
「何を?」
答えなかった。
蒼は聞き返さなかった。
この人はいつもそうだ。
答えなければ引かない。
引かないことで、答えたくなる隙間を作る。
「蒼くん」と私は言った。
「うん」
「感謝されるのが苦手?」
蒼が少しだけ止まった。
弓具の片付けを続けながら、横目で見た。
蒼は射場の壁にもたれたまま、表情を動かしていなかった。
動かしていない、のではなく、動かし方を選んでいる途中、という感じがした。
「苦手、とは違う」
「じゃあ?」
「お礼を言われると、何かが合わない感じがする」
「何と何が」
「やったこととお礼の間に、ズレがある」
咲良と似た答えだったが、中身が違った。
「僕がやることは、やるべきだからやる。お礼の対象じゃない」
「やるべきだから、やる」
「そう」
私は弓のケースを閉めた。
「それは誰が決めるの、やるべきかどうか」
蒼は少し考えた。
「僕が」
短い答えだった。
短すぎて、その先が見えなかった。
僕が決める。
何をやるべきかを、自分で決める。
お礼は要らない。感謝は計算に入れない。
ただ、やるべきことをやる。
その論理の構造自体は、間違っていない。
でも。
何をやるべきか、の基準が、どこにあるのか。
それを聞けなかった。
聞けなかったのは、答えが怖かったからではない。
答えを聞く準備が、まだできていなかった。
その夜、私は小学校の卒業アルバムを出した。
理由は分からない。
気づいたら本棚の奥を探していた。
アルバムは二冊あった。
小学校低学年用と、高学年用だ。
低学年用を開いた。
一年生のページ。
集合写真の中に、七歳の私がいた。
長身で、表情がなく、今と大して変わらない顔をしていた。
その隣に、蒼がいた。
見つけた瞬間、手が止まった。
七歳の蒼は、今より顔が幼かった。当然だ。
でも目が同じだった。
穏やかで、まっすぐで、ただそこにいる目。
その目が、今日の射場で「僕が決める」と言ったときの目と、重なった。
重なって、ずれた。
七歳の目と今の目は、同じようで、何かが違う。
何が違うのか。
ページをめくった。
二年生、三年生。
蒼の顔が少しずつ変わっていく。
変わっていくのに、目だけが変わらない。
いや、変わっている。
少しずつ、何かが加わっていく。
何が加わっているのか、言語化できなかった。
五年生のページで、アルバムを閉じた。
蒼の家族が引っ越した年だ。
このページに、蒼の写真は少ない。
秋の運動会の前に、いなくなった。
本棚に戻した。
灯は元気だよ。
あの半拍が、また浮かんだ。
私はスマートフォンを取り出した。
検索アプリを開いた。
「朝比奈」と入力した。
止まった。
何を検索しようとしていたのか、自分でも分からなかった。
調べる権利が、私にあるのか。
調べたいのか。
調べることで、何を知りたいのか。
知りたいことが何か、まだ言語化できていなかった。
言語化できないものを、検索する言葉を持っていなかった。
アプリを閉じた。
スマートフォンを伏せた。
窓の外は曇っていた。
梅雨前の最後の澄んだ空気は、今夜はもう感じなかった。
明日、雨が来るかもしれない、と思った。
射場が濡れる。
午後の練習は、体育館での射礼になる。
それだけを考えた。
それだけにした。
翌朝、図書室に行った。
蒼は来ていた。
今日は本を開いていた。
カミュではなかった。
背表紙が見えた。
神経科学の専門書だった。
高校生が読む本ではない。
「それ、読めるの」と私は言った。
「だいたい」
「だいたい、ってどのくらい」
「七割くらいは分かる。三割は調べながら」
向かいに座った。
「なんで神経科学」
蒼は少し間を置いた。
「人間がなぜそう動くか、知りたくて」
「人間、って」
「感情と行動の間に何があるか」
蒼は本から目を離さずに言った。
「感情が先に来るのか、行動が先に来るのか」
「どっちだと思う」
「どちらでもある、とは思ってる」
蒼がページをめくった。
「でも自分の場合は、行動が先に来ることがある。それが何なのか、知りたい」
行動が先に来る。
感情より先に、体が動く。
私は本を開いた。
昨日の夜のことを思い出した。
スマートフォンに「朝比奈」と入力して、止まったこと。
調べようとして、調べなかった。
蒼は今、自分の行動と感情のズレを、神経科学で調べようとしている。
その方向が、どこを向いているのか。
ページをめくった。
活字が目に入ってきたが、意味として処理されなかった。
図書室は静かだった。
蒼がページをめくる音がした。
その音が今日は、いつもより少しだけ遠く聞こえた。
同じ距離にいる。
でも遠い。
遠い、という感覚の正体を、私はまだ名前で呼べなかった。
呼べないまま、梅雨前の最後の朝が、静かに過ぎていった。




