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桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第1章「孤星、輝く」

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第6話「隣、座っていい?」

 五月の第三週、咲良が新聞部の記事を書いていた。


 昼休みの教室で、私の隣に座りながら、ノートに何かを書き続けていた。


 弁当は半分しか食べていなかった。


 残りは蓋を閉めたまま脇に置かれている。


「食べないの」


 と私は言った。


「あ、食べる食べる」


 咲良はノートから目を離さずに答えた。


「後で」


「冷める」


「気にしない」


 私は自分の弁当の続きを食べた。


 今日は颯太が作った。


 昨夜、


「明日は俺の番」


 と宣言して聞かなかった。


 中身はご飯と、形の不揃いな卵焼きと、ウインナーだった。


 ウインナーに切り込みを入れてタコの形にしようとした形跡があった。


 失敗していた。


「何を書いてるの」


「転入生特集」


 咲良はノートのページを少しだけこちらに向けた。


「新入生と転入生の適応プロセスって、教育心理的に面白くて。転入生って最初の二週間の動き方で、その後の学校生活が決まるって言われてるんだよね」


「それで?」


「朝比奈くん、最初の二週間の動き方が、教科書通りすぎて」


 私は咲良を見た。


 咲良はノートを見たままだった。


「教科書通り、って」


「転入生が早期適応するパターンって、だいたい決まってるんだよ。まず話しかけやすい人間に近づく、次に目立つグループと接点を作る、最後に全体に存在を認知させる。朝比奈くん、その順番通りに動いてた」


「意識してやってるとは限らない」


「そうなんだよね」


 咲良がノートを閉じた。


 初めてこちらを見た。


「意識してやってるなら怖いし、無意識でやってるなら、それはそれで怖い」


 私は卵焼きを一口食べた。


 颯太の卵焼きは甘すぎた。


 砂糖の量を間違えたのだろう。


 でも食べられないほどではない。


「記事にするの」


「書けるか分からない。証拠がないから」


 咲良は弁当の蓋を開けた。


「観察と印象だけで人を書いたら、ただの悪口になる」


「新聞部らしい判断だね」


「そう?」


 咲良が少し笑った。


「リアさんはどう思ってるの、朝比奈くんのこと」


「何度も聞くね」


「何度聞いても同じ答えしか返ってこないから、聞き方を変えてる」


 私はタコの形になりかけたウインナーを見た。


「観察と印象は、持ってる」


「どんな」


「言語化できない」


 咲良はしばらく私を見ていた。


「リアさんが言語化できないって言うの、初めて聞いた」


「そう」


「それが答えな気がする」


 私は咲良を見た。


 咲良は弁当を食べ始めながら、もうこちらを見ていなかった。


 それ以上、聞いてこなかった。


 この人の引き際は、悪くない。


 午後の授業が終わった後、弓道部の練習があった。


 五月の午後の射場は明るい。


 夕方まで光がある。


 朝の素引きと違って、午後は矢をつがえる。


挿絵(By みてみん)


 的に向かって、放つ。


 私は射位に立った。


 弓を構えた。


 大三から引き分けに入る。


 左腕が伸び、右肘が後方に開く。


 会の形まで引き切る。


 体の中心から左右に張り合う力。


 その張力が均等になったとき、離れが来る。


 意識して放つのではない。


 整っていれば、勝手に離れる。


 矢が飛んだ。


 的の中心から、わずかに右にずれた。


 三上先生が後ろから見ていた。


「肩が入りかけてる。右肘の意識が弱い」


「はい」


「何か考えてたろ」


 答えなかった。


 三上先生は、


「まあいい」


 と言って離れた。


 私はもう一本、矢をつがえた。


 何も考えないようにした。


 考えないことを考えた。


 矛盾していた。


 灯は元気だよ、と蒼は言った。


 あの半拍が、また浮かんだ。


 射場に立っているのに、脳の一部が別のことを処理していた。


 矢を放った。


 今度は中心に入った。


 三上先生が何も言わなかった。


 何も言わないのが、合格の意味だ。


 的に当たるかどうかは、自分の内側の問題だ。


 蒼のことを考えると、外れた。


 考えるのをやめると、入った。


 それが何を意味するのか、今日の私には分かりかねた。


 分かりかねたまま、次の矢をつがえた。


 練習が終わって、弓具を片付けていると、射場の入り口に人影があった。


 蒼だった。


「いたんだ」


 と私は言った。


「少し前から」


「いつから」


「五本目くらいから」


 五本目。


 的の中心に入り始めた頃だ。


 外れた四本は見ていない。


 見ていないのか、見ていて言わないのか、どちらか分からなかった。


「何か用?」


「用はない」


 蒼は射場の入り口にもたれた。


「見たかっただけ」


「朝も見てた」


「朝は素引きだった。矢を放つのは見てなかった」


 私は弓のケースを閉めた。


「感想は?」


「きれいだった」


「それだけ?」


「それだけ」


 私は蒼を見た。


 まっすぐこちらを見ていた。


 感想を飾らない目だった。


 褒めようとしている目ではなく、見たものを正確に言葉にしただけの目だった。


「離れる瞬間が好きだった」


 と蒼は続けた。


「放とうとしてるわけじゃないのに、勝手に離れる感じがする」


「よく分かったね」


「そう見えたから」


 私は道着のまま、蒼の隣を通り過ぎて外に出た。


 蒼が並んで歩いた。


 夕方の校庭は、部活動の声で賑やかだった。


 サッカー部の掛け声、テニス部のボールの音。


 その中を、二人で歩いた。


「整っていると、勝手に離れるの?」


 と蒼が聞いた。


「そう」


「整っていないと?」


「外れる」


「今日は?」


「最初の四本は外れた」


 蒼は少しだけ間を置いた。


「原因は分かってた?」


「だいたい」


 それ以上は言わなかった。


 蒼も聞かなかった。


 聞かないことで、何かを察している。


 そういう間合いが、この人にはある。


 校舎に近づいたところで、蒼が立ち止まった。


「リア」


 振り向いた。


「弓道を見ていて、思ったんだけど」


「何」


「リアが弓を引いているとき、リアは誰かのことを考えていない。自分の内側だけを見てる」


「そうじゃないと当たらないから」


「うん」


 蒼は少し考えてから言った。


「僕の前でも、そういう顔をするときがある」


 私は蒼を見た。


 蒼は真剣な顔だった。


 からかっているわけではない。


「いつ」


「図書室で本を読んでるとき。射場で弓を引いてるとき。一人で何かを処理してるとき」


「それが何か?」


「好きだよ、その顔」


 さらっとした言い方だった。


 でも今日のそれは、先日図書室で、


「そういう正直さ、好きだよ」


 と言ったときより、少しだけ重かった。


 重い、と感じた自分を、私はすぐに処理しようとした。


「帰る」


 と私は言った。


「うん」


「また明日」


「また明日」


 蒼が踵を返した。


 私も歩き始めた。


 振り返らなかった。


 振り返らなかったが、蒼の足音が遠ざかっていくのを、最後まで聞いていた。


 帰り道、駅のホームで電車を待った。


 夕方の風は、五月でも少し涼しい。


 咲良の言葉を思い出した。


 意識してやってるなら怖いし、無意識でやってるなら、それはそれで怖い。


 観察と印象は持っている、と私は言った。


 言語化できない、とも言った。


 言語化できない、という状態が、私には珍しい。


 言葉にできないものは、まだ理解していないものだ。


 理解していないものを、理解しようとしていない。


 それが今の状態だった。


 灯は元気だよ。


 あの半拍。


 好きだよ、その顔。


 整っていると、勝手に離れる。


 今日の射場で外れた四本と、入った残りの本数。


 電車が来た。


 乗り込んだ。


 窓の外の景色が流れ始めた。


 私は弓道を十二年続けてきた。


 的に当たるかどうかは、自分の内側の問題だと知っている。


 乱れていれば外れる。


 整っていれば入る。


 ならば今の私の内側は、何が乱れているのか。


 答えは分かっていた。


 分かっていて、認めたくなかった。


 電車が次の駅に着いた。


 扉が開いた。


 人が乗ってきた。


 私はそちらを見なかった。


 窓の外を見続けた。


 流れていく景色の中に、答えは書いてなかった。


 当然だ。


 答えは内側にある。


 弓道が教えてくれたことだ。


 ただ、今夜だけは、外側に探したかった。


 そういう夜もある、と思った。


 それだけ思って、目を閉じた。

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