第6話「隣、座っていい?」
五月の第三週、咲良が新聞部の記事を書いていた。
昼休みの教室で、私の隣に座りながら、ノートに何かを書き続けていた。
弁当は半分しか食べていなかった。
残りは蓋を閉めたまま脇に置かれている。
「食べないの」
と私は言った。
「あ、食べる食べる」
咲良はノートから目を離さずに答えた。
「後で」
「冷める」
「気にしない」
私は自分の弁当の続きを食べた。
今日は颯太が作った。
昨夜、
「明日は俺の番」
と宣言して聞かなかった。
中身はご飯と、形の不揃いな卵焼きと、ウインナーだった。
ウインナーに切り込みを入れてタコの形にしようとした形跡があった。
失敗していた。
「何を書いてるの」
「転入生特集」
咲良はノートのページを少しだけこちらに向けた。
「新入生と転入生の適応プロセスって、教育心理的に面白くて。転入生って最初の二週間の動き方で、その後の学校生活が決まるって言われてるんだよね」
「それで?」
「朝比奈くん、最初の二週間の動き方が、教科書通りすぎて」
私は咲良を見た。
咲良はノートを見たままだった。
「教科書通り、って」
「転入生が早期適応するパターンって、だいたい決まってるんだよ。まず話しかけやすい人間に近づく、次に目立つグループと接点を作る、最後に全体に存在を認知させる。朝比奈くん、その順番通りに動いてた」
「意識してやってるとは限らない」
「そうなんだよね」
咲良がノートを閉じた。
初めてこちらを見た。
「意識してやってるなら怖いし、無意識でやってるなら、それはそれで怖い」
私は卵焼きを一口食べた。
颯太の卵焼きは甘すぎた。
砂糖の量を間違えたのだろう。
でも食べられないほどではない。
「記事にするの」
「書けるか分からない。証拠がないから」
咲良は弁当の蓋を開けた。
「観察と印象だけで人を書いたら、ただの悪口になる」
「新聞部らしい判断だね」
「そう?」
咲良が少し笑った。
「リアさんはどう思ってるの、朝比奈くんのこと」
「何度も聞くね」
「何度聞いても同じ答えしか返ってこないから、聞き方を変えてる」
私はタコの形になりかけたウインナーを見た。
「観察と印象は、持ってる」
「どんな」
「言語化できない」
咲良はしばらく私を見ていた。
「リアさんが言語化できないって言うの、初めて聞いた」
「そう」
「それが答えな気がする」
私は咲良を見た。
咲良は弁当を食べ始めながら、もうこちらを見ていなかった。
それ以上、聞いてこなかった。
この人の引き際は、悪くない。
午後の授業が終わった後、弓道部の練習があった。
五月の午後の射場は明るい。
夕方まで光がある。
朝の素引きと違って、午後は矢をつがえる。
的に向かって、放つ。
私は射位に立った。
弓を構えた。
大三から引き分けに入る。
左腕が伸び、右肘が後方に開く。
会の形まで引き切る。
体の中心から左右に張り合う力。
その張力が均等になったとき、離れが来る。
意識して放つのではない。
整っていれば、勝手に離れる。
矢が飛んだ。
的の中心から、わずかに右にずれた。
三上先生が後ろから見ていた。
「肩が入りかけてる。右肘の意識が弱い」
「はい」
「何か考えてたろ」
答えなかった。
三上先生は、
「まあいい」
と言って離れた。
私はもう一本、矢をつがえた。
何も考えないようにした。
考えないことを考えた。
矛盾していた。
灯は元気だよ、と蒼は言った。
あの半拍が、また浮かんだ。
射場に立っているのに、脳の一部が別のことを処理していた。
矢を放った。
今度は中心に入った。
三上先生が何も言わなかった。
何も言わないのが、合格の意味だ。
的に当たるかどうかは、自分の内側の問題だ。
蒼のことを考えると、外れた。
考えるのをやめると、入った。
それが何を意味するのか、今日の私には分かりかねた。
分かりかねたまま、次の矢をつがえた。
練習が終わって、弓具を片付けていると、射場の入り口に人影があった。
蒼だった。
「いたんだ」
と私は言った。
「少し前から」
「いつから」
「五本目くらいから」
五本目。
的の中心に入り始めた頃だ。
外れた四本は見ていない。
見ていないのか、見ていて言わないのか、どちらか分からなかった。
「何か用?」
「用はない」
蒼は射場の入り口にもたれた。
「見たかっただけ」
「朝も見てた」
「朝は素引きだった。矢を放つのは見てなかった」
私は弓のケースを閉めた。
「感想は?」
「きれいだった」
「それだけ?」
「それだけ」
私は蒼を見た。
まっすぐこちらを見ていた。
感想を飾らない目だった。
褒めようとしている目ではなく、見たものを正確に言葉にしただけの目だった。
「離れる瞬間が好きだった」
と蒼は続けた。
「放とうとしてるわけじゃないのに、勝手に離れる感じがする」
「よく分かったね」
「そう見えたから」
私は道着のまま、蒼の隣を通り過ぎて外に出た。
蒼が並んで歩いた。
夕方の校庭は、部活動の声で賑やかだった。
サッカー部の掛け声、テニス部のボールの音。
その中を、二人で歩いた。
「整っていると、勝手に離れるの?」
と蒼が聞いた。
「そう」
「整っていないと?」
「外れる」
「今日は?」
「最初の四本は外れた」
蒼は少しだけ間を置いた。
「原因は分かってた?」
「だいたい」
それ以上は言わなかった。
蒼も聞かなかった。
聞かないことで、何かを察している。
そういう間合いが、この人にはある。
校舎に近づいたところで、蒼が立ち止まった。
「リア」
振り向いた。
「弓道を見ていて、思ったんだけど」
「何」
「リアが弓を引いているとき、リアは誰かのことを考えていない。自分の内側だけを見てる」
「そうじゃないと当たらないから」
「うん」
蒼は少し考えてから言った。
「僕の前でも、そういう顔をするときがある」
私は蒼を見た。
蒼は真剣な顔だった。
からかっているわけではない。
「いつ」
「図書室で本を読んでるとき。射場で弓を引いてるとき。一人で何かを処理してるとき」
「それが何か?」
「好きだよ、その顔」
さらっとした言い方だった。
でも今日のそれは、先日図書室で、
「そういう正直さ、好きだよ」
と言ったときより、少しだけ重かった。
重い、と感じた自分を、私はすぐに処理しようとした。
「帰る」
と私は言った。
「うん」
「また明日」
「また明日」
蒼が踵を返した。
私も歩き始めた。
振り返らなかった。
振り返らなかったが、蒼の足音が遠ざかっていくのを、最後まで聞いていた。
帰り道、駅のホームで電車を待った。
夕方の風は、五月でも少し涼しい。
咲良の言葉を思い出した。
意識してやってるなら怖いし、無意識でやってるなら、それはそれで怖い。
観察と印象は持っている、と私は言った。
言語化できない、とも言った。
言語化できない、という状態が、私には珍しい。
言葉にできないものは、まだ理解していないものだ。
理解していないものを、理解しようとしていない。
それが今の状態だった。
灯は元気だよ。
あの半拍。
好きだよ、その顔。
整っていると、勝手に離れる。
今日の射場で外れた四本と、入った残りの本数。
電車が来た。
乗り込んだ。
窓の外の景色が流れ始めた。
私は弓道を十二年続けてきた。
的に当たるかどうかは、自分の内側の問題だと知っている。
乱れていれば外れる。
整っていれば入る。
ならば今の私の内側は、何が乱れているのか。
答えは分かっていた。
分かっていて、認めたくなかった。
電車が次の駅に着いた。
扉が開いた。
人が乗ってきた。
私はそちらを見なかった。
窓の外を見続けた。
流れていく景色の中に、答えは書いてなかった。
当然だ。
答えは内側にある。
弓道が教えてくれたことだ。
ただ、今夜だけは、外側に探したかった。
そういう夜もある、と思った。
それだけ思って、目を閉じた。




