第5話「また会えてよかった」
五月になった。
桜はとっくに終わっていた。
木々は緑になり、教室の窓から見える景色が変わった。
四月の終わりかけた花びらより、この季節の方が好きだ。
中途半端なものが消えて、はっきりする。
蒼と図書室で朝を過ごすようになって、二週間が経っていた。
なっていた、という表現が正確だ。
決めたわけではない。
気づいたらそうなっていた。
蒼が毎朝図書室に来る。
私がいる。
向かいに座る。
本を読む。
ホームルームの五分前に立つ。
それだけのことが、いつの間にか繰り返しになっていた。
繰り返しになったことに、気づいた日がある。
その日、蒼が珍しく遅かった。
五分待って、十分待って、蒼は来なかった。
私はそのとき初めて、自分が待っていたことに気づいた。
待つつもりはなかった。
でも待っていた。
その事実を、私はしばらく本のページに向けたまま処理した。
やめた方がいい、と思った。
それだけ思った。
私は弓道部に所属している。
中学に入学したとき、顧問の三上先生が、
「やってみないか」
と声をかけてきた。
理由を聞いたら、
「背が高くて、静かな目をしてるから」
と言った。
根拠としては曖昧だったが、断る理由もなかった。
始めてみると、合っていた。
弓道は他者と競わない。
相手のタイムより速くなる必要も、相手の点数より高くなる必要もない。
ただ自分の射と向き合う。
それだけだ。
的に当たるかどうかは、自分の内側の問題だ。
乱れていれば外れる。
整っていれば入る。
シンプルで、誤魔化しが効かない。
その正直さが、好きだった。
中三でインターハイの個人準優勝を取ったとき、三上先生が、
「団体に出ればよかった」
と言った。
今も言う。
私は毎回、
「個人で十分です」
と答える。
団体競技が嫌いなわけではない。
ただ、誰かの射が私の結果に影響することも、私の射が誰かの結果に影響することも、弓道に求めていなかった。
弓道部の朝練は七時からだ。
図書室が開くのは七時半だからちょうどいい。
三十分、射場で素引きの練習をして、それから図書室へ行く。
この順番が、私の朝だった。
ある朝、蒼が席に座るなり言った。
「昨日の放課後、剣道部の見学に行ったんだけど」
「そう」
「リアは弓道部なんだって、隼に聞いた」
「そう」
「全国で準優勝したって」
「中三のとき」
「すごいね」
「当たったから」
蒼が少しだけ笑った。
笑い方が、教室での笑い方と違った。
力が抜けている。
さっきからずっとそうだ、と思った。
図書室にいる蒼は、教室にいる蒼より輪郭が薄い。
悪い意味ではない。
むしろこちらの方が、人間に近い気がした。
「当たったから、って言える人はあんまりいないと思う」
「実際に当たったから、そう言ってる」
「謙遜じゃなくて?」
「弓道に謙遜は要らない。当たったか外れたかだけが事実で、それ以外は全部余分」
蒼はしばらく黙った。
それから、
「見てもいい? 練習」
と言った。
断る理由を探した。
見つからなかった。
「朝は素引きだけだけど」
「それでも」
「好きにして」
と私は言った。
本を開いた。
向かいで、本を開く音がした。
翌朝、蒼は射場の入り口に立っていた。
約束をした覚えはなかった。
でも来た。
私は道着に着替えて、射位に立った。
蒼のことを意識しないことにした。
意識しないことを、意識した。
矛盾していた。
弓を構えた。
素引きは矢をつがえない。
弦を引いて、引いて、離れの形まで持っていく。
放つものは何もない。
ただ引く動作だけを繰り返す。
息を吐いた。
引いた。
沈黙が、射場に満ちた。
風の音だけがあった。
会の形まで引き切って、数秒保った。
それから静かに戻した。
繰り返した。
十本分の素引きが終わったとき、蒼がまだそこにいた。
「終わり?」
「今日はここまで」
「きれいだった」
感想を言う必要はない、と思った。
でも否定もしなかった。
「弓道は見ていて分かりやすい」
と蒼は言った。
「リアが乱れているかどうか、すぐわかる気がした」
「今日は乱れてた?」
「最初の三本だけ」
私は弓を下ろした。
最初の三本。
蒼が来たと気づいた、最初の三本だ。
「よく分かったね」
「乱れてないときとの差がはっきりしてるから」
私は蒼を見た。
蒼は射場の入り口にもたれたまま、まっすぐこちらを見ていた。
観察している目だった。
悪意のない、静かな観察。
この人は、こういう目で人を見る。
見ていることを隠さない。
「なんで弓道にしたの」
と蒼が聞いた。
「他者と競わなくていいから」
「他者と競うのが嫌い?」
「嫌いじゃない。必要だと思えない」
蒼はそれを聞いて、少し考えた。
「的に当たるかどうかは、自分の問題だから、ってこと?」
「そう」
「整っていれば入る、乱れていれば外れる」
「そう」
「厳しい競技だね」
「誤魔化しが効かないのは、楽だよ」
蒼がもう一度笑った。
今度は少し違う笑い方だった。
何かを羨ましがるような。
何かに憧れるような。
一瞬だけ見えて、すぐに消えた。
「じゃあ、行こうか」
蒼が先に歩き始めた。
私は弓を片付けて、後に続いた。
その日の昼休みに、隼が私の席に来た。
珍しいことだった。
隼はたいてい、男子の輪の中にいる。
「リアさんってさ」
「何」
「蒼と仲いいの?」
咲良が向かいで弁当を広げながら、耳をそばだてているのが気配で分かった。
「仲がいいかどうかは分からない」
「毎朝図書室にいるじゃん、二人で」
「同じ場所にいるだけ」
「それを仲いいって言うんじゃないの」
私はタッパーの蓋を開けた。
今日は自分で作った。
鮭のおにぎりと、だし巻き卵と、ほうれん草のおひたし。
颯太が、
「地味」
と言ったが、これが一番食べやすい。
「隼くんは、蒼くんと仲がいいの?」
「めちゃくちゃいいよ」
隼は迷わず答えた。
「なんか、話しやすいんだよな。変な気使わなくていいっていうか。お前はどうだとか、そういうの聞いてこないじゃん、あいつ」
「聞いてこない」
「うん。ただいる、って感じで」
私はおにぎりを一口食べた。
ただいる、という表現が、正確だと思った。
蒼は存在の圧力が低い。
それなのに、気づくと視界に入っている。
重さがないのに、確かにそこにいる。
「なんで聞くの」
と私は言った。
「え? あ、なんか……」
隼は少し言いよどんだ。
珍しかった。
「リアさんが蒼のことをどう思ってるか、気になった。それだけ」
「それだけ?」
「……それだけ」
咲良が何かを言いかけて、やめた。
気配で分かった。
私はおにぎりの続きを食べた。
隼は結局、答えを得られないまま自分の席に戻っていった。
放課後、昇降口を出たところで声をかけられた。
「少しいい?」
蒼だった。
並んで歩く形になった。
校門に向かう人の流れの中を、少し外れたルートで。
蒼が自然にそちらへ誘導した。
気づいたのは、すでに人通りの少ない側を歩いていてからだった。
「小学校のこと、覚えてる?」
蒼が聞いた。
「少し」
「灯のこと」
「覚えてる」
灯は蒼の妹だった。
三つ下で、私を見るたびに、
「おねえちゃん」
と呼んだ。
蒼の母が笑って、
「リアちゃんはともだちだよ」
と言っても、灯は聞かなかった。
おねえちゃん、おねえちゃんと繰り返した。
小四の秋に、蒼の家族が突然引っ越した。
父の仕事の都合だと聞いた。
連絡先を交換していなかった。
スマートフォンを持っていない年齢だった。
蒼は行ってしまって、灯も、蒼の母も、食卓の温度も、全部なくなった。
一週間は泣いた。
その後は泣かなかった。
泣いても意味がないと気づいたからではなく、泣き方が分からなくなったからだ。
「灯は元気?」
と聞いた。
蒼は少しだけ間を置いた。
その間が、普通の会話の間より、半拍長かった。
「元気だよ」
答えは返ってきた。
しかし私は、その半拍が気になった。
気になったことを、聞けなかった。
この人の話したくないことを、踏み込んで聞く理由が私にはない。
「そう」
と私は言った。
「また会えてよかったって、本当に思ってる」
蒼が言った。
初めて会った廊下で聞いた言葉と、同じ言葉だった。
でも今日の言い方は、あの時と少し違った。
あの時より重かった。
あの時より、真剣だった。
「なんで」
私は思わず聞いた。
「なんで、って」
蒼は少し考えた。
「リアがいないと、困る、っていう感覚に近い」
「困る、って何が」
「うまく言えない」
珍しい言葉だった。
蒼がうまく言えない、と言うのは珍しい。
いつも言葉を選んで、過不足なく返してくる人間なのに。
「リアがいると、ちゃんとしなきゃいけない、って思う」
「それは困ってる、とは違う」
「そうかもしれない」
蒼は少し笑った。
「もっと正確に言うと、リアの前でだけ、ちゃんとしていたい、って思う」
校門が見えてきた。
私は前を向いたまま、その言葉の意味を処理しようとした。
処理できなかった。
ちゃんとしていたい。
その言葉の裏に、ちゃんとしていない部分がある、という前提が見えた。
見えてしまった。
この人は、ちゃんとしていない何かを、持っている。
それが何か、この時点の私には分からなかった。
分からなかったが、怖いとは思わなかった。
それが後から思えば、最初の間違いだったのかもしれない。
その夜、颯太がリビングでゲームをしていた。
私は隣のソファに座った。
何かを見るわけでもなく、ただそこにいた。
「ねえ、颯太」
「ん」
「昔のこと、覚えてる? 小学校低学年のとき、しょっちゅう遊びに来てた男の子」
颯太は画面から目を離さなかった。
「名前は?」
「朝比奈蒼」
少しだけ間があった。
「……覚えてない」
「そう」
「でも」
颯太がコントローラーを操作しながら言った。
「姉ちゃんがその人の話するとき、声のトーンが変わる」
私は颯太を見た。
颯太は画面を見たままだった。
「今もそう?」
と聞いた。
「うん」
颯太は平然と答えた。
「ちょっとだけ、柔らかくなる」
私はソファの背もたれに頭をあずけた。
天井を見た。
柔らかくなる、か。
自分では気づいていなかった。
気づいていないのに、颯太には分かる。
「ゲームに集中して」
「してる」
「してない」
「してるし、ちゃんと聞いてるし、どっちも同時にできる」
私は目を閉じた。
ちゃんとしていたい、と蒼は言った。
ちゃんとしていない何かを、持っている。
その何かが何なのか。
気になる、という感情が、私の中にあった。
気になることと、知りたいことは、違う。
知りたいとは、まだ思っていない。
でも気になっていた。
それだけは、認めることにした。
翌朝、射場に向かった。
七時前の校庭は人がいない。
弓道場は校舎の裏手にある。
朝の光がまだ低い角度から差し込んで、射場の床に細長い影を作っていた。
道着に着替えた。
弓を手にした。
射位に立った。
息を吐いた。
引いた。
今朝の最初の一本は、よく引けた。
自分で分かった。
整っているときは体が教えてくれる。
無駄な力が抜けて、弦が滑らかに戻る。
放つものは何もないのに、何かが完結する感覚だけがある。
十本引いた。
十本とも、よかった。
乱れなかった。
図書室に向かいながら、理由を考えた。
昨夜、颯太と話した。
声のトーンが変わると言われた。
ちゃんとしていたいと蒼は言った。
ちゃんとしていない何かがある。
それが何か、まだ分からない。
なのに今朝は整っていた。
乱れていれば外れる。
整っていれば入る。
自分の内側の問題だ、と三上先生に教わった。
弓は正直だ、とも言われた。
誤魔化しが効かない。
今朝の私の内側が整っていた理由が、分かるような、分からないような。
図書室のドアを開けた。
蒼はまだ来ていなかった。
私は向かいの席に本を置いた。
窓の外では、五月の朝の光が校庭を照らしていた。
四月よりはっきりとした光だった。
足音がした。
迷いのない足音だった。
ドアが開いた。
蒼が入ってきた。
私を見て、わずかに目を細めた。
笑ったわけではない。
ただ、確かめるような目だった。
「今日も弓、引いてきた?」
「うん」
「どうだった」
「よかった」
蒼は向かいに座った。
本を開いた。
それだけだった。
それだけで十分だった、というのが、少し後になって気づいたことだった。
この人との間では、余分な言葉がいらない。
整っているから、何も足さなくていい。
弓道に似ている、と思った。
思って、すぐに打ち消した。
でも打ち消した後も、その感覚は残った。
五月の朝の光の中で、しばらく、残り続けた。




