第4話「ブランコの記憶」
その日の朝、蒼が私に話しかけてきた。
場所は図書室だった。
私は朝のホームルームまでの時間を、たいてい図書室で過ごす。
教室より静かで、話しかけてくる人間が少ない。
司書の村上さんは私が何も言わなくても好みの傾向を把握していて、新着の棚に付箋を貼っておいてくれる。
居心地の良い場所だ。
その朝も、窓際のテーブルに座って本を読んでいた。
足音がした。
図書室の足音は分かりやすい。
床が木張りで、歩き方がそのまま出る。
迷いのある足音、目的のある足音。
聞こえてきたそれは、迷いがなかった。
私のテーブルの前で止まった。
「ここ、いい?」
顔を上げた。
蒼だった。
図書室で蒼を見たのは初めてだった。
蒼が本を読む人間だとは思っていなかった。
思っていなかったことに、今さら気づいた。
「どうぞ」
蒼は向かいの席に座った。
鞄から本を取り出した。
文庫本だった。
背表紙が見えた。
異邦人だった。
私は自分の本に目を戻した。
しばらく、静かだった。
図書室の静けさは、教室の静けさと種類が違う。
教室の静けさは緊張を含んでいる。
図書室のそれは、もう少し柔らかい。
「毎朝、ここにいるの?」
蒼が聞いた。
声は小さかった。
図書室の音量だった。
「たいてい」
「一人で?」
「一人で」
「好きなんだ、一人が」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ?」
私は少しだけ考えた。
「楽なんだと思う」
蒼は何も言わなかった。
肯定も否定もしなかった。
ただ聞いていた。
その聞き方が、会話を急かさなかった。
私はそれを、居心地が悪いとは思わなかった。
思わなかったことが、少し意外だった。
ホームルームの五分前に、蒼が本を閉じた。
「行こうか」
「一緒に行く理由がない」
「同じ方向でしょ、教室」
「それはそうだけど」
「じゃあ問題ない」
論理として間違っていなかった。
私は本にしおりを挟んで立ち上がった。
図書室を出た。
廊下を並んで歩いた。
蒼は私の歩幅に自然に合わせてきた。
努力している様子がない。
最初からそこにいた人間みたいに。
階段の手前で、蒼が口を開いた。
「リアちゃん」
足が止まった。
「今、なんて」
「リアちゃん」
蒼は繰り返した。
「昔、そう呼んでたから」
私は蒼を見た。
まっすぐ私を見ていた。
試しているわけでも、からかっているわけでもない目だった。
「昔」
と私は言った。
「うん」
「どの昔」
「7歳の春」
声が止まった。
頭の中の何かが止まった。
「公園のブランコで泣いてた女の子に、僕が飴をあげた」
知っている記憶だった。
誰にも話したことのない記憶だった。
あの日のことを知っている人間は、この世界に一人もいないはずだった。
父が、他の女の人と歩いているのを見た日。
学校の帰り道で偶然見てしまって、家に帰れなくて、近くの公園のブランコに座っていた。
泣いていた。
泣いている自分が嫌で、でも止められなくて、もっと泣いていた。
そこに男の子が来た。
黙って隣のブランコに座って、しばらくして、ポケットから飴を一つ出して差し出した。
何も聞かなかった。
なぜ泣いているのか、大丈夫かと聞かなかった。
ただ飴を出した。
私はそれを受け取った。
イチゴ味だった。
「その後も、公園でよく会ったよね」
蒼が続けた。
「近所に引っ越してきたばかりで、翌週には桜渓の小学校に転入した。リアちゃんと同じクラスになった」
「……同じクラスだった」
「小1から小5まで、ずっと」
四年間。
同じ教室にいた。
同じ給食を食べた。
同じ校庭を走った。
蒼の家の食卓を囲んだ。
灯に手を引かれた。
蒼の母に、
「家族みたいなもん」
と言われた夜があった。
それが全部、この人との記憶だった。
「なんで今まで言わなかったの」
「言うタイミングが分からなかった」
蒼は少し困った顔をした。
この人が困った顔をするのを、初めて見た気がした。
「転入初日に『公園で会ったことある』って言っても、驚かせるだけだと思って。そうこうしているうちに、ずっと言えなかった」
「高校まで」
「高校まで」
言葉が出なかった。
呆れているのか、可笑しいのか、自分でも分からなかった。
ただ、七年間言えなかったという事実が、蒼という人間の何かを表している気がした。
距離感が正確なのに、肝心なことは言えない。
そういう人間なのかもしれなかった。
「覚えてたの」
と私は聞いた。
「ずっと」
「なぜ」
「忘れられなかった」
それだけだった。
説明しなかった。
理由を並べなかった。
ただ、
「忘れられなかった」
という事実だけを置いた。
その置き方が、私には一番こたえた。
「また会えてよかった」
蒼は言った。
それ以上を求めなかった。
私がどう思うか、同じように覚えていたか、あの日のことをどう感じたか。
何も聞かなかった。
ただ、
「また会えてよかった」
と言って、階段を上り始めた。
私は一歩遅れて、後を追った。
廊下に出た。
教室が見えた。
蒼は教室のドアを開けて、中に入っていった。
すぐに誰かに話しかけられる声がした。
いつもの蒼に戻っていた。
私はドアの前で一秒だけ立ち止まった。
小1の春から、ずっと同じ学校にいた。
蒼の家の食卓の温度、灯が私の手を掴む感触、蒼の母の笑顔。
それが全部、あの公園のブランコから始まっていた。
あの飴の男の子が、蒼だった。
分かっていたようで、今日初めて本当に分かった気がした。
私は教室に入った。
窓際の席に座った。
文庫本を開いた。
ページの文字が、今日も頭に入ってこなかった。
その夜、颯太が夕食を作った。
今日はハンバーグだった。
形は不揃いだったが、味は悪くなかった。
「姉ちゃん、なんかぼーっとしてない?」
「してない」
「さっきから同じところ三回食べてる」
見ると、確かに皿の同じ部分に箸が向かっていた。
「……そう」
「何かあった?」
「別に」
颯太はそれ以上聞かなかった。
引き際を知っている。
それがこの弟の長所だ。
食後、自室に戻った。
窓の外は曇っていた。
星は見えなかった。
7歳の公園を思い出した。
イチゴ味の飴を思い出した。
小1の春、同じクラスになった男の子を思い出した。
蒼の家の食卓の温度を思い出した。
灯の、
「おねえちゃん」
という声を思い出した。
蒼の母が、
「家族みたいなもん」
と言った夜を思い出した。
全部がつながった。
つながって、一本の線になった。
その線の先に、今日の蒼がいた。
廊下で、
「また会えてよかった」
と言った、あの距離感の正確な蒼が。
私はしばらく、天井を見ていた。
七年間しまっていたものが、今日少し動いた。
それが何を意味するのか、今夜の私にはまだ分からなかった。
分からないまま、目を閉じた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
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