第88話「本物だったから」
出勤の電車の中で、リアは窓の外を眺めていた。
朝、泣いたことを、まだどこかで引きずっていた。涙は止まったが、その涙が何だったのか、まだ完全には言葉にできていなかった。
電車が駅に着き、いつもの道を歩いた。
オフィスに着くまでの十分間、リアはあの涙の意味を、頭の中でもう一度たどっていた。
蒼への怒りではなかった。悲しみとも少し違った。
あの涙が本物だったことを、ずっと分かっていたから。
その言葉が今朝、自然に浮かんできた。でもその言葉の裏にある感情を、もっと正確に掴みたかった。
オフィスに着いて、いつも通りに朝の準備をした。コーヒーを淹れ、今日の予約を確認し、資料に目を通す。
その作業をこなしながら、リアは少しずつ自分の中の答えに近づいていた。
蒼を愛したことが、間違いだったのか。
その問いを五年間、何度も自分に投げかけてきた。
答えはいつも、はっきりしなかった。
蒼を愛したから、リアは彼の中にある暴力に目をつぶり続けた。共犯者になった。多くの人が傷つく間、それを止められなかった時期があった。
その意味で、リアの愛は確かに間違いを含んでいた。
でもその愛自体が間違いだったとは、今のリアには思えなかった。
愛は人を救わなかった。
蒼のことを思うとき、リアはいつもその事実に行き着いた。
リアがどれほど蒼を愛しても、蒼の中にある衝動は消えなかった。誰かを守りたいという善意が、七年前の悲劇によって歪んだ形で固定されてしまった。その歪みをリアの愛では解くことができなかった。
蒼はリアを愛したことで変わらなかった。
むしろ蒼は言った。リアを愛したことで世界を焼く理由を持った、と。リアが自分を止めようとしたことで、それでも守ったという最後の正当化を手に入れた、と。
愛は蒼を完成させてしまった。救うのではなく完成させてしまった。
その事実の重さを、リアはこの五年間、何度も噛み締めてきた。
でもそれでも、リアの愛が間違いだったとは思えなかった。
理由は単純だった。
愛した事実は永遠に本物だから。
その言葉が今、リアの中ではっきりとした形を持った。
蒼への愛は蒼を救えなかった。それでもその愛が偽物だったわけではない。
万能ではない愛と、存在しない愛は違う。
その違いを、リアは今朝ようやく理解した気がした。
午前中の面談が始まった。
一人目のクライアントは、長く付き合っている若い女性だった。恋人からの精神的な支配に苦しみ、なかなかそこから抜け出せずにいた。
「私、また彼のところに戻ろうとしてるんです」その女性は言った。「馬鹿だって分かってるのに」
リアは静かにその言葉を受け止めた。
「馬鹿じゃないですよ」リアは言った。「愛した事実は簡単には消えません。それは当然のことです」
「でも」女性は言った。「戻ったら、また同じことが起きます」
「分かっています」リアは言った。「だから戻らない選択をすることも大切です。愛したことと、その関係の中に留まることは別の問題ですから」
その言葉を口にしながら、リアは自分自身にも同じことを言い聞かせているような感覚があった。
面談が終わった後、リアはしばらく椅子に座ったまま動かずにいた。
愛したことと、その関係の中に留まることは別の問題。
その言葉が蒼との関係にも当てはまるのかもしれない、と思った。
リアは蒼を、今も愛しているのかもしれない。その感情を完全に否定することはできなかった。
でも蒼のそばに戻ることは、もうできない。それはもう決まっていた。
愛は蒼の中にあった衝動を変えられなかった。それでもリアが蒼を愛したという事実は消えない。
その両方が同時に真実だった。
昼休み、リアはいつものカフェで一人、コーヒーを飲んでいた。
窓の外を行き交う人々を眺めながら、朝のことをもう一度思い返した。
朝焼けの光の中で流れた涙。
あの涙は蒼への愛の、最後の確認だったのかもしれない、と思った。
蒼を憎み切れなかった理由。死ぬこともできなかった理由。その全てが、あの一つの事実に行き着いていた。
蒼の涙が本物だったこと。
そしてリア自身の愛も本物だったこと。
その二つの事実が今も変わらずに、リアの中にあった。
午後の仕事も、いつも通りに進んだ。
夕方、オフィスを出て駅へ向かう道を歩いた。
夕暮れの空を見上げた。
朝とは違う色の空だった。オレンジから少しずつ、紫がかった色へと移り変わっていく空。
その空の下で、リアは今日一日を振り返っていた。
朝、泣いた。理由が分かった気がした。
蒼のことを少しだけ、違う形で受け止められた気がした。
それでも明日、また同じ問いが浮かぶかもしれない。答えが揺らぐこともあるかもしれない。
それでいい、とリアは思った。
答えが一つに定まらなくても、生きていくことはできる。
その事実だけを、今日は確かなものとして持ち帰ることにした。
駅の改札を抜けた。
ホームに降りて電車を待った。
窓に映る自分の顔を、少しの間見つめた。
その顔は五年前とは少し違っていた。
どこがどう違うのか、うまく言えなかった。でも確かに、何かが変わっていた。
電車が来た。
乗り込んだ。
窓の外の景色が流れ始めた。
家に帰れば、窓辺にあの指輪が今日も待っている。
その事実を、リアはもう恐れていなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




