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【完結済】桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第9章「孤星、未来を望む」

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第87話「窓辺の指輪」

朝の光が、窓辺の指輪にまっすぐ当たっていた。


リアはベッドから起き上がり、その光の中に立った。


指輪は昨日と同じ場所にあった。触れていない。動かしてもいない。それでも朝の光の角度が変わるたびに、指輪の輝き方が少しずつ違って見えた。


手を伸ばした。


指先でそっと触れた。


冷たかった。金属特有の朝の冷たさだった。


嵌めようとして指を止めた。


嵌めれば何かを受け入れることになる。そんな感覚が、また頭をよぎった。


かといって、この五年間、一度も捨てようとは思わなかった。


捨てるという選択肢が、リアの中には最初からなかったのかもしれない。


指輪を手のひらに乗せた。


朝の光を受けて、それは静かに輝いていた。


五年前のあの夜、街灯の下で受け取った指輪だった。あの夜の記憶が鮮明に蘇ってきた。


蒼が真剣な顔で、この指輪を差し出した瞬間。


長い沈黙の後、リアがそれを受け取った瞬間。


指に嵌めたとき、ぴったりと収まったあの感覚。


その全てが今、この手のひらの上に蘇っていた。


そして講堂で、この指輪を蒼の手に返した夜のことも。


全部知ってる、とリアが言ったあの夜。


蒼が静かに微笑んだあの夜。


隼によろしく、あいつは本当にいいやつだった、と言って蒼が去っていったあの夜。


その全てが、この小さな指輪の中に閉じ込められていた。


リアは窓の外を見た。


朝焼けの空が少しずつ色を変えていた。オレンジ色から淡い水色へと、静かに移り変わっていく空だった。


その空を見ながら、リアは蒼のことを考えていた。


千景を心理的に解体した蒼。ストーカーを精神的に破壊した蒼。父を社会的に追い詰めた蒼。そしてリア自身を、永続的な守護対象として記録し続けた蒼。


その全ての行為が、蒼にとっては愛の一部だった。


リアには、その愛の形を決して肯定することはできなかった。今も、できない。


でも同時に、リアはあの夜、蒼が流した涙のことを忘れられずにいた。


一粒だけ頬を伝った涙。


自分が泣いていることに気づいてすらいなかった、あの涙。


演技かもしれない、と思う自分が確かにいた。でも体はすぐに理解していた。


あれは本物だった。


その確信は、五年経った今も変わらなかった。


蒼の涙は本物だった。同時に蒼の加害も本物だった。その二つが矛盾なく、同じ人間の中に共存していた。


リアは指輪をもう一度見つめた。


きれいだと思った。


その感情を、今日も否定する気にはなれなかった。


朝の光が少しずつ強くなっていった。


窓の外の空が完全に明るい色に変わっていった。


その光の中で、リアの視界が急に滲んだ。


涙が頬を伝った。


自分でも驚いた。


蒼への怒りのためではなかった。悲しみのためでもなかった。


あの涙が本物だったことを、ずっと分かっていたから。


その事実だけが、今リアの涙の理由だった。


蒼はリアを愛していた。心の底から。その愛がどれほど歪んでいても、どれほど多くの人を傷つけていても、その愛自体は本物だった。


そしてその愛は今も消えていなかった。匿名の財団の活動として、消印のない封筒として、蒼は今もリアの生きる世界を、彼なりの方法で掃除し続けていた。


リアが生きている限り、蒼は誰かを掃除し続けるだろう。


その事実を、リアは今日も抱えて生きていくしかなかった。


涙が止まらなかった。


でもその涙は不快なものではなかった。


むしろ五年間、心のどこかに固く閉じ込めていた何かが、ようやく外に出てきたような感覚だった。


窓辺に立ったまま、リアはしばらく泣いていた。


朝の光が、涙で濡れた頬を静かに照らしていた。


指輪を手のひらに握りしめた。


その冷たさが少しずつ、リアの体温で温かくなっていくのを感じた。


死ぬことも、蒼を憎み切ることも、リアにはできなかった。


その両方ができない自分を、これまで責める気持ちがあった。


でも今朝は少しだけ違った。


できないことを無理にできるようにする必要はないのかもしれない。


そんな考えが静かに、リアの中に浮かんできた。


涙が少しずつ収まっていった。


リアは窓の外を見た。


朝焼けの空は完全に明るい青色に変わっていた。


新しい一日が始まろうとしていた。


指輪をもう一度、窓辺に置いた。


嵌めることはできない。でも捨てることもできない。


その矛盾を抱えたまま、今日も生きていく。


それが今のリアにできる、唯一のことだった。


顔を洗いに洗面所へ向かった。


鏡に映る自分の顔を見た。


泣いた後の顔は少し腫れていた。でもその顔は、どこかすっきりしているようにも見えた。


冷たい水で顔を洗った。


今日も仕事がある。誰かの悲しみに耳を傾ける仕事が。


その日常の中に、リアはまた戻っていく。


窓辺の指輪だけを残して。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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