第86話「掃除しておいたよ」
封筒を受け取ってから、三日が過ぎていた。
指輪はあのときのまま、窓辺に置かれていた。触れる気にはなれなかったが、片付ける気にもなれなかった。
その三日間、リアはいつも通りに仕事をこなした。クライアントの話を聞き、記録をつけ、次の予約を確認する。日常は何も変わらずに続いていた。
でも心のどこかに、あの一文が常に居座っていた。
君が生きる世界を今日も僕が掃除しておいたよ。
その言葉がふとした瞬間に浮かび上がってきた。カウンセリング中も電車の中でも、料理をしているときでさえも。
倉橋には、まだ連絡していなかった。
連絡すべきだという理性と、連絡したくないという感情がせめぎ合っていた。
三日目の夜、ようやくスマートフォンを手に取った。
倉橋のトーク画面を開いた。
何を書けばいいのか、しばらく考えた。事実だけを簡潔に伝えるべきだと思った。
『ご無沙汰しています。少しご相談したいことがあります』
そう打って送信した。
既読はすぐについた。返信も意外なほど早かった。
『いつでも大丈夫です。お会いしましょうか』
その返信に少し安堵した。
翌日の夕方、以前と同じカフェで倉橋と会った。
倉橋は五年前とほとんど変わっていなかった。少しだけ白髪が増えたくらいで、落ち着いた雰囲気はそのままだった。
「久しぶりですね」倉橋は言った。
「はい」
「元気そうで何よりです」
しばらく近況を報告し合った。倉橋は今も国際犯罪課で仕事を続けていると言った。
本題を切り出すのに、少し時間がかかった。
「実は」リアはようやく口を開いた。「先週、封筒が届きました」
倉橋の表情が少し引き締まった。
「差出人は」
「書かれていませんでした。でも」
リアは封筒の中身について順を追って話した。指輪のこと。カードのこと。そこに書かれていた一文のこと。
倉橋は静かに聞いていた。手帳を取り出すこともなく、ただじっと話を聞いていた。
「その封筒は」倉橋は聞いた。「今、お持ちですか」
「持ってきました」
鞄から封筒とカードを取り出した。指輪は家に置いてきていた。
倉橋はカードの文面をじっと見つめた。
「筆跡は確認できていますか」
「本人のものだと思います。前に彼が書いたメモを見たことがあるので」
倉橋はしばらく黙っていた。
「あの財団のニュースはご覧になりましたか」倉橋は聞いた。
その質問にリアは驚いた。
「見ました」リアは言った。「刑事さんも」
「気になっていました」倉橋は言った。「桜の意匠、匿名を貫く姿勢。彼らしいと直感的に思いました」
倉橋も同じ確信を持っていたのだと分かった。
「これから、どうなりますか」リアは聞いた。
倉橋はしばらく考えていた。
「正直に言うと、国際手配は今も続いています」倉橋は言った。「でも彼の所在は、いまだに掴めていません」
「この封筒があれば」
「手がかりにはなります」倉橋は言った。「でも確実な位置情報には繋がらないでしょう。彼はそういう痕跡を残す人間ではない」
その言葉にリアは複雑な思いを抱いた。
「僕からは一つだけ、お聞きしたいことがあります」倉橋は続けた。
「はい」
「あなたは、この封筒のことをどうしたいと思っていますか」
その質問にリアはすぐには答えられなかった。
「僕に報告することで何かが変わることを望んでいますか」倉橋は続けた。「それとも、ただ誰かに話したかっただけですか」
その問いかけにリアはしばらく考えた。
「分かりません」リアは正直に答えた。「でも一人で抱えているのが苦しくなりました」
倉橋は静かに頷いた。
「それで十分です」倉橋は言った。「僕はこの情報を記録として残します。でもこれによって、すぐに何かが動くわけではありません」
その言葉に少し安堵した。
「彼を見つけたら」リアはふと聞いた。「どうなるんですか」
倉橋は少しの間、答えなかった。
「逮捕状はまだ有効です」倉橋は言った。「でも彼が今していることを考えると」
倉橋はそこで言葉を選ぶように一度止まった。
「僕の中でも複雑な気持ちがあります」
その正直な答えにリアは少し驚いた。
「刑事さんも迷うことがあるんですね」リアは言った。
「あります」倉橋は言った。「彼は今も罪を犯した人間です。でも今、彼がしていることは」
倉橋は窓の外に目をやった。
「誰かの人生を確かに救っているのかもしれません」
その言葉にリアは何も言えなかった。
カフェを出て、倉橋とは駅で別れた。
「また何かあれば連絡してください」倉橋は言った。
「はい」
「あなたが無理をしないことが一番大切です」
その言葉にリアは小さく頷いた。
一人で電車に乗り、家に帰った。
窓辺の指輪は今日もそこにあった。
夕暮れの光が少しずつ部屋の中を橙色に染めていった。
リアはしばらくその光を眺めていた。
倉橋に話したことで少しだけ心が軽くなった気がした。でも根本的な問いは、まだ何も解決していなかった。
指輪をどうするか。
蒼のことをどう受け止めるか。
その答えはまだどこにも見つからなかった。
夜が更けていった。
リアはいつものように眠りについた。
翌朝、目が覚めるとカーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。
その光が窓辺の指輪に、まっすぐに当たっていた。
指輪が朝の光を受けて静かに輝いていた。
その輝きを、リアはしばらくベッドの中から見つめていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




