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【完結済】桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第9章「孤星、未来を望む」

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第85話「消印のない封筒」

その日の郵便受けに、見慣れない封筒が入っていた。


差出人の名前がなかった。消印もなかった。ただリアの名前だけが宛先に書かれていた。


手渡しで投函されたのだと分かった。


部屋に戻ってから、しばらくその封筒を見つめていた。


厚みが少しあった。何か固いものが中に入っている感触があった。


指先が震えた。


開けるかどうか迷った時間は、意外と短かった。開けないという選択肢は最初からなかったのかもしれない。


封を切った。


中から出てきたのは小さな箱だった。白い、見覚えのある箱だった。


その箱を見た瞬間、心臓が大きく音を立てた。


蓋を開けた。


指輪が入っていた。


五年前、あの講堂で蒼の手に返した指輪だった。


見間違えるはずがなかった。細い銀色の輪。飾りのないシンプルなデザイン。あの夜街灯の下で受け取ったときと同じ形が、そこにあった。


指輪の下に、一枚のカードが敷かれていた。


手に取った。


短い文章が書かれていた。見覚えのある筆跡だった。


『君が生きる世界を、今日も僕が掃除しておいたよ』


その一文を、何度も読み返した。


読むたびに体の芯が冷えていくのを感じた。


掃除という言葉の意味を、リアは知っていた。それが何を指すのか、五年前のあの日々で嫌というほど思い知らされていた。


千景の心理的解体。ストーカーの精神破壊。父の社会的失脚。その全てに蒼は掃除という言葉を使ったことはなかったはずだが、今この一言で、それらの記憶が一気に呼び起こされた。


蒼は今も続けている。


その事実が、この短い一文からはっきりと伝わってきた。


匿名の財団のニュースを見たのは、つい先週のことだった。あの三十億円の寄付が蒼の仕業だという確信は、このカードによって決定的なものになった。


リアは指輪を手のひらに乗せた。


冷たかった。


でもその冷たさの奥に、確かにあの夜の温度の記憶があった。


なぜ今これを送ってきたのか。


理由を考えようとした。


五年間、蒼は姿を消していた。連絡もなかった。倉橋からの報告以外に、蒼に関する情報は何も入ってこなかった。


それが突然、こうして指輪とカードだけが届いた。


何かのきっかけがあったのかもしれない。あるいは特別な理由などなかったのかもしれない。


蒼にとってこれは、ただの気まぐれなのか。それとも何か意味のある行動なのか。


考えても答えは出なかった。


リアは指輪をテーブルの上に置いた。


カードをもう一度読んだ。


君が生きる世界を、今日も僕が掃除しておいたよ。


その言葉の中に、愛情のようなものが確かに滲んでいた。


でもそれは、五年前と何一つ変わっていない愛情だった。


歪んだままの、変わらない愛情。


リアは椅子に座り込んだ。


しばらく何も考えられなかった。


窓の外は、もう夕方になっていた。


オレンジ色の光が部屋の中に差し込んでいた。


その光の中で、指輪が静かに輝いていた。


五年前、蒼が去ったあの夜、リアはこの指輪を蒼の手に戻した。あのとき、これで終わりだと思っていた。あの関係は、あの夜で区切りがついたのだと。


でも今、指輪はまたリアの手元に戻ってきていた。


蒼がこれを送ってきたということは、リアの居場所を今も把握しているということだった。


引っ越しはしていない。連絡先も変えていない。それでも五年経って、この住所に蒼が正確に封筒を届けてきたという事実に、背筋が冷たくなった。


リアはスマートフォンを手に取った。


倉橋に連絡すべきかもしれない。この事実を伝えるべきかもしれない。


でも指は、また画面の上で止まった。


これを倉橋に話せば、また何かが動き出すかもしれない。国際的な追跡が再開されるかもしれない。


蒼が、また追われる立場になる。


その想像に、リアは複雑な感情を抱いた。


蒼を庇いたいわけではなかった。でもこの五年間、蒼が誰も傷つけずに生きてきたのだとしたら。少なくとも直接的な暴力からは距離を置いているのだとしたら。


その均衡を、リアの一言で崩していいのか。


答えはすぐには出なかった。


指輪をもう一度手に取った。


嵌めるべきか迷った。


嵌めれば何かを認めることになる気がした。


でも捨てることもできなかった。


リアは指輪をそっと窓辺に置いた。


夕暮れの光が、それを静かに照らしていた。


その光の中で、指輪は五年前と同じように美しく光っていた。


きれいだと思った。


思ってしまった自分に、少しだけ驚いた。


でもその感情を否定する気にはなれなかった。


窓の外を見た。


街の灯りが少しずつ灯り始めていた。


蒼は今どこにいるのだろう。


その問いに答えはなかった。


ただ蒼が今もどこかで生きていて、リアのことを忘れていないという事実だけが、今夜確かにリアの手元に届いていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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