第84話「現代の聖人
朝、コーヒーを飲みながらリアはテレビをつけた。
いつも見ているわけではない。ただ一人で朝食をとるとき、無音が寂しく感じられる日がたまにあった。
情報番組が経済ニュースを伝えていた。
「途上国の教育支援に、匿名の財団から巨額の寄付が寄せられました」
アナウンサーの声にリアは特に意識を向けていなかった。トーストを一口かじりながら画面をぼんやりと眺めていただけだった。
「寄付総額は日本円で三十億円。財団の名称は明かされていませんが、関係者によると若い実業家グループが設立した慈善基金とみられています」
その言葉にリアの手が止まった。
画面には財団のロゴだけが映し出されていた。顔も名前も映らなかった。ロゴには桜の花をかたどったシンプルな意匠があしらわれていた。
桜という意匠に、リアの心臓が一瞬だけ跳ねた。
「この基金はこれまでも複数の国で教育や医療の支援活動を行ってきたとされ、その活動規模の大きさから専門家の間でも注目を集めています」
コメンテーターが続けて話した。
「匿名を貫く姿勢が逆に話題になっていますね。名前を出さずにこれだけの規模の支援を続けるというのは、なかなかできることではありません」
「現代の聖人、なんて呼ぶ声もあるみたいですよ」
その言葉に、リアはテレビを消した。
しばらくリビングの静けさの中で動けずにいた。
現代の聖人。
その言葉が、これまでリアが知っている蒼の姿とあまりにもかけ離れていた。
でも同時に確信もあった。
桜の意匠。匿名を貫く姿勢。莫大な資金の動かし方。
その全てが蒼という人間の特徴と静かに重なっていた。
リアは椅子に座り直して、しばらくコーヒーカップを見つめていた。
湯気は、もう立っていなかった。
五年前あの講堂で聞いた言葉を思い出した。
僕は逃げる、この国から出る。
その言葉通り蒼は国外に姿を消した。それから五年、蒼が何をしていたのかリアは何も知らなかった。
知る手段もなかったし、知ろうともしなかった。
いや正確には知ろうとしなかったわけではない。知ることが怖かった。国際手配された蒼の名前をニュースの見出しで見るたびに、心のどこかが強張った。逮捕された、というニュースをいつか見ることになるかもしれない。あるいはもっと悪い知らせを見ることになるかもしれない。
その恐れからリアは蒼に関する情報を意識的に遠ざけてきた。倉橋からの連絡もこの五年で数えるほどしかなかった。「進展はありません」という短い報告が届くだけだった。
でも今、テレビの向こうから蒼の気配が確かに届いていた。
顔は見えない。名前も出ない。それでも分かった。
三十億円という規模。教育支援という選び方。匿名という徹底ぶり。
その全てに蒼らしさが滲んでいた。
守るという行為を蒼はまだ続けていた。
対象がリアから、もっと大きな何かに変わっただけで。
千景を排除しストーカーを破壊し父を追い詰めた、あの緻密さと同じものが今は途上国の子どもたちのために使われている。
その事実をどう受け止めればいいのか、リアには分からなかった。
喜ぶべきなのか。恐れるべきなのか。
蒼は変わったのか。それとも行き先を変えただけで本質は何一つ変わっていないのか。
スマートフォンを手に取った。
咲良に連絡しようか少し迷った。咲良なら記者としての視点でこの財団について何か知っているかもしれない。
でも指は画面の上で止まったまま動かなかった。
今はまだ誰にも話したくなかった。
この気配をもう少し自分だけのものにしておきたかった。
立ち上がって窓辺に近づいた。
小さな棚の上、あの箱があった場所を見た。
先日颯太が帰った後、久しぶりに手を伸ばした、あの箱だった。開けてはいなかった。ただ触れただけだった。
指輪は、まだあの中にあるはずだった。
蒼が今、世界のどこかで匿名の慈善活動を続けている。その事実とあの箱の中にある指輪がリアの中で静かに繋がっていくのを感じた。
窓の外を見た。
朝の光がいつも通りに街を照らしていた。
出勤前の人々がそれぞれの目的地に向かって足早に歩いていく。
そんな日常の中にリアも、また紛れていく。
世界のどこかで蒼はまだ生きている。
その事実だけが今、リアの中に静かに、でも確かに届いていた。
コーヒーカップをもう一度手に取った。
もう冷めていたが、それでも一口飲んだ。
苦さがいつもより少しだけ体に染みた。
出勤の時間が近づいていた。リアはいつも通りの支度を始めた。カウンセリングの予約が今日もいくつか入っている。誰かの悲しみに静かに寄り添う仕事が、今日も待っていた。
玄関で靴を履きながら、リアはもう一度窓辺の方向を見た。
あの箱は今日もそこにあるだろう。
明日も、その次の日も。
その存在がリアの日常の静かな一部になっていた。
家を出た。
朝の空気はまだ少し涼しかった。季節がまた一つ進もうとしていた。
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