第83話「颯太の成長」
日曜の昼過ぎ、颯太から連絡が来た。
「近く寄ったから、顔見せに行っていい?」
大学二年になった颯太は、一人暮らしを始めていた。実家からそう遠くない場所だったが、顔を合わせる頻度は、思ったより減っていた。
「いいよ」と返すと、一時間もしないうちに、颯太は部屋のインターホンを鳴らした。
「久しぶり」
ドアを開けると、颯太が立っていた。背が、また少し伸びたように見えた。高校生のときの面影は、もうほとんど残っていなかった。
「入って」
颯太は、部屋に上がると、慣れた様子でソファに座った。
「相変わらず片付いてるな、姉ちゃんの部屋」
「颯太の部屋は散らかってるの」
「散らかってるっていうか、机の上が資料まみれ」颯太は笑った。「レポートの締め切りが重なると、もうカオス」
コーヒーを淹れて、二人でテーブルを挟んで座った。
「大学、どう」リアが聞いた。
「まあまあ楽しい」颯太は言った。「サークルの後輩ができたし」
「先輩になったんだ」
「先輩になった」颯太は少し誇らしげに言った。「なんか変な感じ」
他愛のない会話が続いた。大学の授業のこと、バイトのこと、共通の親戚の近況。
颯太は、コーヒーを飲みながら、リアの部屋を、何気なく見回していた。
窓辺の小さな棚に、視線が止まった。
学生時代の写真立て。弓道大会の記念メダル。そして、その奥にある小さな箱。
颯太は、その箱を、しばらく見ていた。
何かを言いかけて、口を閉じた。
その仕草に、リアは気づいていた。
颯太は、蒼のことを、多くは知らない。当時、リアが何を経験していたのか、詳しい事情は、話していなかった。ただ、姉が、大切にしていた人がいたこと、その人が、ある日を境に、突然いなくなったことだけは、颯太も感じ取っていた。
「姉ちゃん」颯太が、ふと言った。
「うん」
颯太は、少しの間、リアの顔を見ていた。
その目に、何かを聞きたい、という色が、確かにあった。
でも颯太は、それ以上、何も言わなかった。
「なんでもない」颯太は言った。「元気そうでよかった」
その言葉に、リアは少し驚いた。
聞かないという選択を、颯太は自分でしていた。
「聞きたいこと、あるんじゃないの」リアは、静かに聞いた。
颯太は、少し考えるような顔をした。
「ある、っちゃある」颯太は言った。「でも、姉ちゃんが話したくなったら、話してくれればいい」
その言葉には、大学生になった颯太の、成長が滲んでいた。
昔の颯太なら、もっとまっすぐに、聞いてきたかもしれない。今の颯太は、リアの中にある、触れられたくない部分を、そっとしておくことを、覚えていた。
「ありがとう」リアは言った。
「別に、大したことしてないし」颯太は照れたように言った。
しばらく、二人は、他愛のない話を続けた。
夕方近くになって、颯太は帰り支度を始めた。
「そろそろ行くわ」颯太は言った。「明日、朝から授業あるし」
「気をつけてね」
玄関まで、颯太を見送った。
靴を履きながら、颯太は、もう一度、部屋の奥を、ちらりと見た。
窓辺の、あの小さな箱の方向を。
「姉ちゃん」颯太は、ドアに手をかけながら言った。
「うん」
「無理に忘れようとしなくていいと思うよ」
その言葉に、リアは息を止めた。
「別に、忘れろとか、そういうこと、誰も言ってないし」颯太は続けた。「ただ、姉ちゃんが、ちゃんと、自分のペースでいいと思う」
颯太の言葉には、多くを聞かずとも、姉が何かを抱えていることへの理解があった。
「颯太、いつの間に、そんな大人になったの」リアは、少し笑いながら言った。
「昔から、大人だったし」颯太は胸を張った。
その軽口に、リアはまた笑った。
「じゃあ、また」颯太は言った。
「うん、また」
颯太が帰っていった後、リアは、しばらく玄関に立っていた。
窓辺の小さな箱に、また目をやった。
無理に忘れようとしなくていい。
その言葉が、静かに、心の中に残っていた。
颯太は、何も知らないままで、それでも、リアの抱えているものの重さを、感じ取っていた。
家族というものの、そういう不思議な感度に、リアは、改めて、感謝の念を抱いた。
夕暮れの光が、窓から差し込んでいた。
その光の中で、リアは、久しぶりに、あの箱に、そっと手を伸ばした。
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