第78話「泣かなかった」
扉が閉まる音が、講堂の中に響いた。
その音が消えても、私は動かなかった。
手の中の指輪を握りしめたまま、暗闇に立ち尽くしていた。
泣くと思っていた。
蒼は、そう言った。
私も、そう思っていたのかもしれない。
今日、この講堂ですべてを話したら、涙が止まらなくなる。
そう思っていた。
でも、涙は出なかった。
なぜだろう。
自分に問いかけても、答えは出てこない。
ただ、体の中が驚くほど静かだった。
嵐が去った後の凪。
そんな言葉が、一番近かった。
膝から力が抜けた。
その場に座り込む。
講堂の床は冷たかった。
今は、その冷たさだけが確かだった。
指輪を、もう一度見る。
薄暗い光の中でも、いつもと同じ形をしていた。
何も変わっていない。
変わったのは、この指輪が持つ意味だけだった。
蒼は、私を「完成のピース」だと言った。
愛されることが、怪物としての完成だとも。
その言葉を、頭の中で繰り返す。
何度繰り返しても、涙は出なかった。
代わりに、別の何かが体の奥から湧き上がっていた。
怒りとは違う。
悲しみとも、少し違う。
もっと静かで、確かなもの。
その正体は、まだ分からなかった。
どれくらい、そうしていたのだろう。
やがて、立ち上がった。
膝に力を込める。
少しふらつきながら、扉へ向かった。
扉を開ける。
夜の冷たい空気が、頬に触れた。
外は、もう完全に暗かった。
校舎の灯りが、遠くにいくつか見える。
私は、その場に立ったまま夜空を見上げた。
星は、ほとんど見えない。
都会の夜は、いつもこうだった。
それでも今夜は、見えない星の位置を想像していた。
蒼は今頃、どこにいるのだろう。
そう思った自分に、少し驚いた。
もう、彼のことを心配している。
「憎めなかった」
蒼が言った言葉が、胸の中に残っていた。
明日は卒業式だ。
その日常が、まだ続いていることが不思議だった。
蒼がいなくなっても、世界は何も変わらない。
夜は深くなり、明日は来る。
その当たり前が、今夜は少しだけ救いだった。
家に帰ると、颯太がリビングでテレビを見ていた。
「おかえり」
いつも通りの声だった。
「ただいま」
自分の声も、いつもと変わらない。
颯太は私の顔を見ると、少しだけ表情を変えた。
「姉ちゃん」
「なに?」
「何かあった?」
「うん。少し」
颯太は、それ以上聞かなかった。
ただ、私の隣に座った。
二人で何も言わず、テレビの音を聞いていた。
「明日、卒業式だね」
颯太が、ぽつりと言った。
「そうだね」
「頑張ってね」
その一言に、胸が少し詰まった。
泣きそうになった。
でも、やっぱり涙は出なかった。
自室に戻る。
ベッドに腰を下ろし、指輪を机の上に置いた。
窓の外を見る。
夜は、ゆっくり更けていった。
明日、蒼は逮捕されるかもしれない。
もう、姿を消しているかもしれない。
どちらなのか、私には分からない。
スマートフォンを手に取る。
咲良からメッセージが来ていた。
「今日、蒼くんと話した?」
少し考えてから、返す。
「話した」
すぐに既読がついた。
「大丈夫?」
大丈夫。
その言葉が、今の私に当てはまるのか分からなかった。
「分からない」
正直に送った。
少しして、返信が来る。
「明日、学校で話そう」
「うん」
それだけ返して、スマートフォンを机に置いた。
ベッドに横になる。
天井を見つめた。
泣かなかった。
そのことが、まだ引っかかっている。
蒼が予測していたものとは、違う何かが、自分の中に残っている。
それが何なのか。
今は、まだ分からない。
目を閉じた。
眠れる気はしなかった。
それでも、そのまま目を閉じていた。
やがて、夜が少しずつ薄れていく。
明日が、近づいていた。
そして私は、まだ知らなかった。
卒業式の日に、もう一度、蒼の残したものと向き合うことになるとは。
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