第79話「もう一日早ければ」
朝、倉橋は逮捕状を手に、桜渓学院へ向かった。
卒業式の日だった。
校門の前には、晴れ着姿の生徒たちが並んでいた。花束を抱えた保護者たちの姿もあった。
その華やいだ空気の中を、倉橋は一人、歩いていった。
職員室で、朝比奈蒼の欠席を告げられたのは、それから間もなくのことだった。
「体調不良だと、連絡がありました」
担任の教師は、そう言った。困惑した表情だった。卒業式の日に、体調不良で休む生徒がいることに、単純に驚いているようだった。
倉橋は、その言葉を聞きながら、既に、何かが動いていることを感じ取っていた。
蒼のマンションに向かった。
部屋の中は、既に空だった。
家具は、そのまま残されていた。本棚も、テーブルも、ソファも。生活の痕跡は、そこかしこに残っていた。
でも、人が住んでいる気配は、完全に消えていた。
寝室に入った。
奥の棚を確認した。二段の、小さな棚だった。
引き出しを開けた。
中は、空だった。
塵一つ、残っていなかった。
倉橋は、しばらく、その空の引き出しを見つめていた。
瀬戸川リアが証言した、あのファイル群。千景の記録。ストーカー事件の記録。父親の記録。そして、リア自身の記録。
その全てが、既に、この部屋から消えていた。
代わりに、別の場所で、別の証拠が見つかることになるだろう。倉橋には、それが分かっていた。
千景という生徒の、誘導された自白。書き換えられた物証。全てが、朝比奈蒼を罪から遠ざける方向に整えられていた。
倉橋は、リビングに戻った。
窓から、外を見た。
学院の方向から、微かに、吹奏楽の音が聞こえてくる気がした。卒業式が、今頃、行われているのだろう。
倉橋は、胸ポケットに手を当てた。
そこには、いつも通り、あの作文のコピーが入っていた。
取り出した。
古い紙質のコピー用紙。丁寧な字。ところどころ、力が入りすぎた筆圧。
しょうらいのゆめ。
けいさつかんです。
わるいひとをつかまえて、もうだれもかなしまなくていいせかいにしたいです。
その文字を、もう一度読んだ。
十二歳の蒼が書いた、その言葉。
十四歳で、犯罪組織を内部から崩壊させた、その少年。
そして今、十八歳になり、国外へ姿を消した、この青年。
その三つが、同じ一人の人間の中に、確かに存在していた。
倉橋は、そのコピーを、そっと胸ポケットに戻した。
五年前、あの十二歳の少年を初めて見た日のことを思い出した。
法廷で、判決を聞いていた顔。
家族を殺した犯人たちが、数年で釈放されると知った、あの日の顔。
あのとき、もし。
倉橋は、そこで思考を止めた。
もし、あのとき、もっと早く、少年に手を差し伸べていたら。
もし、あの司法取引が、成立していなかったら。
もし、犯人グループが、もっと重い罪に問われていたら。
その「もし」は、数えきれないほどあった。
でも、今、目の前にあるのは、変えようのない結果だけだった。
もう一日、早ければ。
その言葉が、頭の中で、静かに響いた。
証拠が書き換えられる前に、逮捕状が執行されていたら。
蒼が、国外へ逃れる前に、身柄を確保できていたら。
倉橋は、部屋を出た。
エントランスで、待機していた部下に指示を出した。
「国際手配の手続きを進める」
その言葉を口にしながら、倉橋は、自分の声が思いのほか平坦に響くことに気づいていた。
感情を排して、事実だけを話す。それが、これまでずっと続けてきたやり方だった。
でも今日だけは、その平坦さの奥に、何か重いものが沈んでいるのを、自分でも感じていた。
車に乗り込んだ。
窓の外を、学院の方向に目をやった。
制服姿の生徒たちが、校門の前で写真を撮り合っているのが、遠くに見えた。
その中に、瀬戸川リアの姿があるかもしれない。
倉橋は、しばらく、その光景を見ていた。
やがて、車が走り出した。
窓の外の景色が、流れ始めた。
胸ポケットの中で、あの作文のコピーが、確かな重さを持って、そこにあった。
倉橋は、これから先、国際手配された朝比奈蒼を、追い続けることになる。
その追跡が、いつ終わるのか。あるいは、終わらないのか。
今の倉橋には、まだ分からなかった。
分からないまま、車は、駅の方向へと進んでいった。
もう一日、早ければ。
その後悔だけが、倉橋の中に、長く残り続けることになる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




