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【本日完結!】桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第8章「落日の対峙」

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第79話「もう一日早ければ」

朝、倉橋は逮捕状を手に、桜渓学院へ向かった。


卒業式の日だった。


校門の前には、晴れ着姿の生徒たちが並んでいた。花束を抱えた保護者たちの姿もあった。


その華やいだ空気の中を、倉橋は一人、歩いていった。


職員室で、朝比奈蒼の欠席を告げられたのは、それから間もなくのことだった。


「体調不良だと、連絡がありました」


担任の教師は、そう言った。困惑した表情だった。卒業式の日に、体調不良で休む生徒がいることに、単純に驚いているようだった。


倉橋は、その言葉を聞きながら、既に、何かが動いていることを感じ取っていた。


蒼のマンションに向かった。


部屋の中は、既に空だった。


家具は、そのまま残されていた。本棚も、テーブルも、ソファも。生活の痕跡は、そこかしこに残っていた。


でも、人が住んでいる気配は、完全に消えていた。


寝室に入った。


奥の棚を確認した。二段の、小さな棚だった。


引き出しを開けた。


中は、空だった。


塵一つ、残っていなかった。


倉橋は、しばらく、その空の引き出しを見つめていた。


瀬戸川リアが証言した、あのファイル群。千景の記録。ストーカー事件の記録。父親の記録。そして、リア自身の記録。


その全てが、既に、この部屋から消えていた。


代わりに、別の場所で、別の証拠が見つかることになるだろう。倉橋には、それが分かっていた。


千景という生徒の、誘導された自白。書き換えられた物証。全てが、朝比奈蒼を罪から遠ざける方向に整えられていた。


倉橋は、リビングに戻った。


窓から、外を見た。


学院の方向から、微かに、吹奏楽の音が聞こえてくる気がした。卒業式が、今頃、行われているのだろう。


倉橋は、胸ポケットに手を当てた。


そこには、いつも通り、あの作文のコピーが入っていた。


取り出した。


古い紙質のコピー用紙。丁寧な字。ところどころ、力が入りすぎた筆圧。


しょうらいのゆめ。


けいさつかんです。


わるいひとをつかまえて、もうだれもかなしまなくていいせかいにしたいです。


その文字を、もう一度読んだ。


十二歳の蒼が書いた、その言葉。


十四歳で、犯罪組織を内部から崩壊させた、その少年。


そして今、十八歳になり、国外へ姿を消した、この青年。


その三つが、同じ一人の人間の中に、確かに存在していた。


倉橋は、そのコピーを、そっと胸ポケットに戻した。


五年前、あの十二歳の少年を初めて見た日のことを思い出した。


法廷で、判決を聞いていた顔。


家族を殺した犯人たちが、数年で釈放されると知った、あの日の顔。


あのとき、もし。


倉橋は、そこで思考を止めた。


もし、あのとき、もっと早く、少年に手を差し伸べていたら。


もし、あの司法取引が、成立していなかったら。


もし、犯人グループが、もっと重い罪に問われていたら。


その「もし」は、数えきれないほどあった。


でも、今、目の前にあるのは、変えようのない結果だけだった。


もう一日、早ければ。


その言葉が、頭の中で、静かに響いた。


証拠が書き換えられる前に、逮捕状が執行されていたら。


蒼が、国外へ逃れる前に、身柄を確保できていたら。


倉橋は、部屋を出た。


エントランスで、待機していた部下に指示を出した。


「国際手配の手続きを進める」


その言葉を口にしながら、倉橋は、自分の声が思いのほか平坦に響くことに気づいていた。


感情を排して、事実だけを話す。それが、これまでずっと続けてきたやり方だった。


でも今日だけは、その平坦さの奥に、何か重いものが沈んでいるのを、自分でも感じていた。


車に乗り込んだ。


窓の外を、学院の方向に目をやった。


制服姿の生徒たちが、校門の前で写真を撮り合っているのが、遠くに見えた。


その中に、瀬戸川リアの姿があるかもしれない。


倉橋は、しばらく、その光景を見ていた。


やがて、車が走り出した。


窓の外の景色が、流れ始めた。


胸ポケットの中で、あの作文のコピーが、確かな重さを持って、そこにあった。


倉橋は、これから先、国際手配された朝比奈蒼を、追い続けることになる。


その追跡が、いつ終わるのか。あるいは、終わらないのか。


今の倉橋には、まだ分からなかった。


分からないまま、車は、駅の方向へと進んでいった。


もう一日、早ければ。


その後悔だけが、倉橋の中に、長く残り続けることになる。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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