第74話「君は正しい」
「リア」
蒼は静かに言った。
その声のトーンが、これまでとは少し違っていた。
「君は、正しいことをした」
その言葉を、すぐには理解できなかった。
「正しい、って」私は言った。「私は、あなたを裏切ろうとした」
「裏切ったわけじゃない」蒼は静かに首を振った。「リアは、傷つけられた人たちのために動いた。それは正しいことだ」
その言葉の穏やかさに、かえって恐怖を感じた。
蒼は私を責めていなかった。
責めるどころか、肯定していた。
「僕は」蒼は続けた。「間違っている」
その一言に、講堂の空気がまた変わった気がした。
「間違ってるって」私は聞いた。「分かってるの、自分で」
「分かってる」蒼ははっきりと言った。
その声には迷いがなかった。
「千景さんを傷つけたことも。ストーカーだった男性を壊したことも。父を失脚させたことも」蒼は一つずつ数えるように言った。「全部、間違っていた」
「じゃあ、なぜ」私は言った。声が震えた。「なぜ、それを続けたの」
蒼は少しの間、答えなかった。
薄暗い講堂の中で、非常灯の光だけが蒼の輪郭を静かに照らしていた。
「僕には」蒼はようやく言った。「他のやり方が分からなかった」
「他のやり方」
「誰かが、リアを傷つけようとするとき」蒼は続けた。「僕は、それを止めなければならないと感じる。それが悪いことだと頭では分かっていても、体が先に動く」
その言葉は以前、聞いたことがあった。
止めたかった。本当に。でも体が止まらなかった。
あの夜、公園で蒼が初めて泣きながら言った言葉と、同じ構造だった。
「その感覚は」私は言った。「今も、変わらないの」
「変わらない」蒼は言った。「変わらないまま、ここまで来た」
私は蒼の顔をじっと見た。
これまで見てきた、どの蒼とも違う顔だった。
穏やかで、覚悟を決めていて、でもその奥に何か深い、諦めのようなものが見えた。
「リア」蒼は続けた。「君は正しいことをしようとした。それを僕は止めなかった」
「止めなかった、って」私は言った。「証拠を書き換えたじゃない」
「証拠は書き換えた」蒼は頷いた。「でも君が動くこと自体は止めなかった。止めようと思えば、もっと早く止めることもできた」
その言葉に少し戸惑った。
「なぜ止めなかったの」私は聞いた。
蒼はしばらく私を見ていた。
「君が、正しいことをするのを」蒼は静かに言った。「見たかったんだと思う」
その答えに、胸の奥が締め付けられた。
蒼は自分を裁こうとする私を止めなかった。むしろそれを見届けようとしていた。
「僕は」蒼は続けた。「これから先も変わらないと思う」
「変わらない、って」
「誰かが、リアを脅かせば僕はまた同じことをする」蒼ははっきりと言った。「それが僕という人間だから」
その言葉に恐怖と同時に、深い悲しみがこみ上げてきた。
蒼は自分の中のその仕組みを、変えられないとはっきり認めていた。
「だから」蒼は続けた。「今日ここで終わりにする必要があった」
「終わりに、って」
「僕がこれ以上、リアの人生に影響を与え続けることを」蒼は静かに言った。「終わりにする」
その言葉の意味を、まだ完全には理解できなかった。
「明日」私は言った。「逮捕状が執行される」
蒼は頷いた。
「その前に」蒼は言った。「話しておきたかった」
「何を」
「リアが僕を止めようとしたことが」蒼は少し言葉を選んだ。「無駄じゃなかった、ということを」
私は蒼の目をじっと見た。
その目に涙はなかった。ただ静かな決意のようなものだけが見えた。
「証拠は書き換えた」蒼は続けた。「だから明日、僕は逮捕されないかもしれない」
その言葉に胃の奥が重くなった。
「でも」蒼は続けた。「君が動いたという事実は消えない」
「事実が消えなくても」私は言った。「何も変わらないなら」
「変わる」蒼は静かに言った。「僕の中で、何かが変わった」
その言葉の意味を問おうとした。
でも蒼は、それ以上説明しなかった。
ただ静かに私を見つめていた。
その視線の中に、これまでとは違う何かがあった。
講堂の外で、風の音が微かに聞こえた。
夜が完全に、講堂の中を覆っていた。
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