第72話「監視アプリ」
「リアのスマートフォン」
その一言を、頭の中で、何度も、繰り返した。
「どういうこと」私は聞いた。声が、かすれていた。
蒼は、静かに、続けた。
「三月の初め」蒼は言った。「リアが、僕の部屋に来たとき。シャワーを浴びている間に、少しだけ、時間があった」
その言葉の意味を、理解するのに、少し時間がかかった。
「その時間で、アプリを、入れた」
心臓が、鈍く、痛んだ。
「監視アプリ」私は、繰り返した。「私のスマホに」
「そう」蒼は言った。
「いつから、気づいてたの」私は聞いた。「私が、あなたのことを、調べ始めたって」
「アプリを入れた時点では」蒼は言った。「まだ、確信はなかった」
「じゃあ、なぜ」
「予防だった」蒼は、静かに言った。「いつか、こうなるかもしれない、と思っていたから」
その言葉に、背筋が、また冷たくなった。
蒼は、私が疑い始めるより前から、既に、備えていた。
「アプリで、何が、分かるの」私は聞いた。
「メッセージのやり取り」蒼は言った。「通話の記録。写真フォルダの中身。位置情報」
その一つ一つを、頭の中で、確認していった。
咲良との、あの夜のメッセージ。「話したいことがある」というやり取り。
倉橋との連絡先の交換。
そして、あの夜、カメラアプリを開いて、閉じて、また開いた、あの逡巡。
「見てたの」私は聞いた。「全部」
蒼は、静かに、頷いた。
「私が、写真を撮ろうとして、撮れなかったことも」
「見てた」蒼は言った。
その事実に、体の力が、抜けそうになった。
64話で、倉橋に「写真は撮っていません」と正直に答えた、あの言葉。あれは、既に、蒼にとって、確認済みの事実だった。
「なんで」私は言った。「なんで、それを、知りながら、何も、言わなかったの」
蒼は、しばらく、答えなかった。
「言えば」蒼は、ようやく言った。「リアが、証拠を残すために、別の手段を、探しただろうから」
その言葉の冷静さに、恐怖を感じた。
蒼は、私の一つ一つの選択を、先回りして、把握していた。
「咲良との、やり取りも」私は言った。声が、震えた。「見てたの」
「見てた」蒼は言った。
咲良のことを、思い出した。咲良が、蒼から脅迫を受けていたことを、知ったあの日。
「咲良のことも」私は言った。「全部、把握してたの」
蒼は、静かに、頷いた。
「橘さんの調査は、最初から、気づいてた」蒼は言った。「彼女が、僕にとって、どれくらいの脅威になるか、ずっと、測っていた」
測っていた、という言葉の冷たさに、身震いがした。
「倉橋という刑事さんが、動き始めたことも」私は聞いた。「知ってたの」
「知ってた」蒼は言った。
その答えに、頭の中が、真っ白になりかけた。
「じゃあ」私は言った。「明日の、逮捕状のことも」
蒼は、しばらく、私を見ていた。
その視線が、これまでのどの視線よりも、静かで、そして、恐ろしかった。
「知ってる」蒼は言った。
その一言で、全てが、崩れていく気がした。
「知ってて」私は言った。「なぜ、逃げなかったの」
蒼は、少しだけ、微笑んだ。
その笑顔が、講堂の薄暗い光の中で、見えた。
「逃げる、という選択肢は」蒼は言った。「今は、考えていない」
「なぜ」
「その前に」蒼は言った。「準備が、あった」
「準備」
蒼は、静かに、頷いた。
「リアが、僕を、警察に売ろうとしていることは、分かっていた」蒼は続けた。「だから、その前に、いくつかのことを、しておいた」
その言葉に、嫌な予感が、さらに、強くなった。
「何を、したの」私は聞いた。
蒼は、しばらく、私を見ていた。
「証拠は」蒼は、静かに言った。「もう、僕にとって、脅威じゃない」
その言葉の意味が、すぐには、理解できなかった。
「どういうこと」私は聞いた。
蒼は、深く、息を吸った。
「リアが、倉橋さんに話した、あのファイルの内容」蒼は言った。「あれは、もう、証拠として、使えない」
「なぜ」
「書き換えたから」蒼は、静かに、言った。
その言葉が、講堂の暗闇の中で、鈍く、響いた。
私は、しばらく、何も、言えなかった。
蒼が、既に、動いていた。私が、証言をする、その先を、既に、見越して。
「書き換えた、って」私は、ようやく、声を絞り出した。「何を、どうやって」
蒼は、静かに、私を見ていた。
その目に、これまで見たことのない、確固たる何かが、宿っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




