第71話「知ってたよ」
「したくなかった。それが一番正直な気持ちかもしれない」
蒼の言葉が、暗い講堂に静かに落ちた。
「どういう意味?」
私は問い返す。
蒼はすぐには答えなかった。
手の中の指輪を見つめたまま、小さく息をつく。
「リアが僕から離れようとしていることには、気づいていた」
ゆっくりと口を開く。
「止める方法はいくつかあった」
背筋に冷たいものが走る。
「止める方法?」
「証拠を隠す。リアを閉じ込める。それ以外にも、やり方はあった」
蒼は淡々と言った。
「でも、どれも選ばなかった」
「……どうして?」
「リアが、自分で決めるところを見たかったのかもしれない」
予想していた答えではなかった。
「見たかったって……」
私は息をのむ。
「私が、あなたを裏切るところを?」
「裏切りだとは思ってない」
蒼は首を横に振る。
「リアは、正しいことをしようとしている」
その言葉に戸惑う。
蒼は静かに私を見つめていた。
怒りも、憎しみもない。
ただ穏やかな目だった。
「……いつから気づいてたの?」
私はもう一度尋ねる。
「本当は、いつから?」
蒼は少し考えるように目を伏せた。
「橘さんが倉橋さんと会っていると知った時だ」
「知ってたの?」
「橘さんが調べていること自体は、もっと前から気づいていた」
蒼は続ける。
「でも、外部の協力者を得たことだけは想定外だった」
その瞬間、咲良の顔が浮かぶ。
咲良はずっと、蒼に見られていた。
その事実が重く胸にのしかかった。
「橘さんと倉橋さんが会う回数は少しずつ増えていった」
「その頃から、リアも変わり始めた」
「私が?」
「僕の部屋へ来る回数」
蒼は静かに言う。
「来ても、どこか緊張していた」
そこまで見られていた。
そんな事実に思わず息をのむ。
「四月」
蒼が続けた。
「リアが、鍵の開いた引き出しに気づいた日」
「あの日から、リアの目が変わった」
心臓が大きく跳ねる。
「……知ってたの?」
「引き出しが開いてたこと」
蒼は静かに頷いた。
「気づくようにしておいた」
理解するまで数秒かかった。
「……わざと?」
「鍵をかけなかったの?」
「そう」
その一言だけだった。
体の奥から冷たさが広がっていく。
あの日。
あの引き出しは偶然ではなかった。
蒼が、自分で見せたものだった。
「どうして……」
声が震える。
「どうして、そんなことをしたの?」
蒼はしばらく私を見つめていた。
「リアに全部見てほしかったのかもしれない」
静かな声だった。
「隠し続けることに、限界を感じていたのかもしれない」
その言葉は、これまでの蒼の行動と結びつかない。
「わざと見せて」
私は問い詰める。
「そのあと、何をしてたの?」
蒼は黙った。
その沈黙は今までとは違う。
何かを隠している沈黙だった。
「蒼くん」
私は一歩近づく。
「まだ話していないことがあるよね」
蒼は静かに私を見返した。
夕暮れは完全に消え、講堂には非常灯だけが淡く灯っている。
薄暗い光の中では、蒼の表情はよく見えない。
「リアが僕から離れようとしていると気づいてから」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「僕は、何もしなかったわけじゃない」
その一言で胸がざわつく。
「何をしたの?」
問いかける。
蒼はまた黙る。
重い沈黙が講堂を満たした。
「教えて」
私はもう一度言う。
「私の知らないところで、何をしていたの?」
蒼は静かに息を吐いた。
そして、ようやく口を開く。
「リアのスマートフォン」
その一言だけで、心臓が凍りついた。
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