第70話「指輪を返す」
指輪を外した。
薄暗い講堂の中。
小さな銀の輪が、私の手のひらに収まる。
蒼は、その指輪をじっと見つめていた。
私はそっと、その手のひらへ指輪を置く。
冷たい金属の感触が、指先から離れていった。
蒼は動かない。
受け取ったまま、何も言わなかった。
「全部、知ってる」
静かに告げる。
不思議なくらい、声は震えなかった。
その一言で、蒼の表情がわずかに揺れる。
ほんの一瞬だけ。
けれど、その変化はすぐに消えた。
「全部って?」
蒼が静かに聞く。
「蒼くんの部屋の引き出し」
私はまっすぐ見つめ返した。
「中身を全部見た」
蒼の瞳がわずかに開く。
「千景さんのファイル」
「ストーカーだった男性のファイル」
「私のお父さんのファイル」
蒼は何も言わない。
「そして」
私は息を整える。
「私自身のファイルも」
その言葉が落ちた瞬間。
講堂の空気が、さらに重くなった気がした。
「守護対象」
「最優先」
「永続」
三つの言葉を、はっきりと口にする。
蒼は黙ったままだった。
窓の外では夕暮れが終わり、講堂は少しずつ闇に沈んでいく。
「倉橋さんという刑事さんにも会った」
その言葉で、蒼の表情がまた小さく動く。
「アメリカで起きた事件も聞いた」
私は続けた。
「家族を失ったこと」
「犯人たちが司法取引で釈放されたこと」
一度だけ言葉を切る。
「そして、そのあと蒼くんが何をしたのかも」
蒼は何も言わず、私だけを見つめていた。
その瞳には、今まで見たことのない色が宿っていた。
「明日」
私は静かに言う。
「逮捕状が執行される」
その瞬間だった。
初めて、蒼の表情がはっきりと変わる。
驚きではない。
もっと複雑な何か。
言葉にならない感情が浮かんだ。
長い沈黙が流れる。
私たちは互いを見つめ続けた。
そして。
蒼は静かに微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、背中に冷たいものが走る。
今まで見てきた笑顔とは違う。
穏やかで。
静かで。
その奥には、覚悟だけがあった。
「知ってたよ、リア」
穏やかな声だった。
意味がすぐには理解できない。
「知ってたって……?」
蒼は手の中の指輪へ視線を落とす。
「倉橋さんに会った日の夜」
ゆっくりと話し始めた。
「君の声が、少しだけ違った」
その瞬間。
あの夜を思い出す。
倉橋と初めて話した帰り道。
蒼へ電話をかけて、「少し遅くなる」と伝えた夜。
「あの時から……気づいてたの?」
ようやく声を絞り出す。
「気づいてた」
責める響きはない。
動揺もない。
ただ事実を告げるだけの声だった。
講堂はさらに暗くなる。
窓の外は、もう夜だった。
「いつから?」
私は問いかける。
「本当に、いつから?」
蒼は少し考えたあと、静かに口を開いた。
「最初は確信じゃなかった」
「でも、少しずつ分かった」
「リアが変わっていくのが」
「私が?」
「表情」
「声の調子」
「目の動き」
蒼は穏やかに続ける。
「リアは正直だから」
「隠そうとしても、体に出る」
その言葉に胸が痛む。
いつか私自身が言った。
弓は正直だ、と。
でも今。
蒼は私そのものを読んでいた。
「どうして」
声が震えた。
「どうして何も言わなかったの?」
蒼は指輪を静かに握る。
「言えば」
短く答える。
「リアは隠すのをやめると思った」
「隠すのを……やめる?」
「そうなれば」
蒼は静かに続けた。
「リアが次に何をするのか、分からなくなる」
意味を理解するまで時間がかかった。
蒼は全部知っていた。
それでも何も言わなかった。
私が次に何を選ぶのか。
それを見届けるために。
「じゃあ……」
私は息をのむ。
「全部知った上で」
「うん」
蒼は頷く。
「今日まで、いつも通り過ごしてた」
その言葉が胸を締めつける。
私だけじゃない。
蒼もまた、何も知らないふりを演じ続けていた。
互いに秘密を抱えたまま。
同じ日常を生きていた。
「どうして」
私はもう一度尋ねる。
「その間、何もしなかったの?」
蒼は静かに私を見つめた。
夕暮れの最後の名残が、その横顔をかすかに照らす。
「したくなかった」
静かな声だった。
「それが、一番正直な気持ちだったのかもしれない」
その一言に、まだ隠された何かを感じる。
蒼はまだ話していない。
本当に大切なことを。
講堂は完全な闇に包まれようとしていた。
それでも私たちは、互いから目を逸らさなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




