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【9/17完結!】桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第8章「落日の対峙」

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第70話「指輪を返す」

指輪を外した。


薄暗い講堂の中。


小さな銀の輪が、私の手のひらに収まる。


蒼は、その指輪をじっと見つめていた。


私はそっと、その手のひらへ指輪を置く。


冷たい金属の感触が、指先から離れていった。


蒼は動かない。


受け取ったまま、何も言わなかった。


「全部、知ってる」


静かに告げる。


不思議なくらい、声は震えなかった。


その一言で、蒼の表情がわずかに揺れる。


ほんの一瞬だけ。


けれど、その変化はすぐに消えた。


「全部って?」


蒼が静かに聞く。


「蒼くんの部屋の引き出し」


私はまっすぐ見つめ返した。


「中身を全部見た」


蒼の瞳がわずかに開く。


「千景さんのファイル」


「ストーカーだった男性のファイル」


「私のお父さんのファイル」


蒼は何も言わない。


「そして」


私は息を整える。


「私自身のファイルも」


その言葉が落ちた瞬間。


講堂の空気が、さらに重くなった気がした。


「守護対象」


「最優先」


「永続」


三つの言葉を、はっきりと口にする。


蒼は黙ったままだった。


窓の外では夕暮れが終わり、講堂は少しずつ闇に沈んでいく。


「倉橋さんという刑事さんにも会った」


その言葉で、蒼の表情がまた小さく動く。


「アメリカで起きた事件も聞いた」


私は続けた。


「家族を失ったこと」


「犯人たちが司法取引で釈放されたこと」


一度だけ言葉を切る。


「そして、そのあと蒼くんが何をしたのかも」


蒼は何も言わず、私だけを見つめていた。


その瞳には、今まで見たことのない色が宿っていた。


「明日」


私は静かに言う。


「逮捕状が執行される」


その瞬間だった。


初めて、蒼の表情がはっきりと変わる。


驚きではない。


もっと複雑な何か。


言葉にならない感情が浮かんだ。


長い沈黙が流れる。


私たちは互いを見つめ続けた。


そして。


蒼は静かに微笑んだ。


その笑顔を見た瞬間、背中に冷たいものが走る。


今まで見てきた笑顔とは違う。


穏やかで。


静かで。


その奥には、覚悟だけがあった。


「知ってたよ、リア」


穏やかな声だった。


意味がすぐには理解できない。


「知ってたって……?」


蒼は手の中の指輪へ視線を落とす。


「倉橋さんに会った日の夜」


ゆっくりと話し始めた。


「君の声が、少しだけ違った」


その瞬間。


あの夜を思い出す。


倉橋と初めて話した帰り道。


蒼へ電話をかけて、「少し遅くなる」と伝えた夜。


「あの時から……気づいてたの?」


ようやく声を絞り出す。


「気づいてた」


責める響きはない。


動揺もない。


ただ事実を告げるだけの声だった。


講堂はさらに暗くなる。


窓の外は、もう夜だった。


「いつから?」


私は問いかける。


「本当に、いつから?」


蒼は少し考えたあと、静かに口を開いた。


「最初は確信じゃなかった」


「でも、少しずつ分かった」


「リアが変わっていくのが」


「私が?」


「表情」


「声の調子」


「目の動き」


蒼は穏やかに続ける。


「リアは正直だから」


「隠そうとしても、体に出る」


その言葉に胸が痛む。


いつか私自身が言った。


弓は正直だ、と。


でも今。


蒼は私そのものを読んでいた。


「どうして」


声が震えた。


「どうして何も言わなかったの?」


蒼は指輪を静かに握る。


「言えば」


短く答える。


「リアは隠すのをやめると思った」


「隠すのを……やめる?」


「そうなれば」


蒼は静かに続けた。


「リアが次に何をするのか、分からなくなる」


意味を理解するまで時間がかかった。


蒼は全部知っていた。


それでも何も言わなかった。


私が次に何を選ぶのか。


それを見届けるために。


「じゃあ……」


私は息をのむ。


「全部知った上で」


「うん」


蒼は頷く。


「今日まで、いつも通り過ごしてた」


その言葉が胸を締めつける。


私だけじゃない。


蒼もまた、何も知らないふりを演じ続けていた。


互いに秘密を抱えたまま。


同じ日常を生きていた。


「どうして」


私はもう一度尋ねる。


「その間、何もしなかったの?」


蒼は静かに私を見つめた。


夕暮れの最後の名残が、その横顔をかすかに照らす。


「したくなかった」


静かな声だった。


「それが、一番正直な気持ちだったのかもしれない」


その一言に、まだ隠された何かを感じる。


蒼はまだ話していない。


本当に大切なことを。


講堂は完全な闇に包まれようとしていた。


それでも私たちは、互いから目を逸らさなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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